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「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

『空の境界』3巻

不意を突く言葉

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

「生きているなら、神様だって殺してみせる」

 ゼロ年代に発表された伝奇作品のなかで、トップクラスの知名度とセールスを稼ぎ出した傑作『空の境界』で、最もよく知られた名台詞の一つが、冒頭に引用した台詞だろう。万物を殺すことが可能な眼をもった主人公・式の台詞だ。『空の境界』のテレビCMで使われたこともあるから、それで記憶している方もいるかもしれない。漫画版3巻の物語では、ちょうどこの台詞の場面が描かれている。

 けれど、3巻にはもっと切れ味鋭い台詞が登場していることは意外と知られていないのではないか。一度聞いたら忘れようのない強度を持っているという意味では、前述の「生きているなら~~」もなかなかだが、次に引用する台詞はそれを越えている。

「仕方がないんで、ハラん中の病気だけ殺しておいた」

 ……つっこみどころの多い台詞だ。「病気を殺す」て。しかも「病気だけ」とかすごい器用じゃない? そもそも「仕方ない」て、どういう状況で「仕方なく」「病気を殺す」ことになるんだよ。いや、物語中では確かにその状況が描かれているのはわかってるんだけど、わかってはいるんだけど、しかし、言葉にしてみるとこれほどおかしな状況ってないだろ?

 小説でも映画でも私は毎回この台詞で笑ってしまった。今回も笑った。シリアスな物語に、いきなりこんな不意打ちのような台詞が出れば、笑ってしまうのも、仕方がないんで。

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2014.01.29

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

「伽藍の洞」第四回

スーツ+橙子さん=

レビュアー:ジョッキ生 KnightKnight

空の境界は小説も読んだし、アニメも見たんですけど、あれー?スーツ姿の橙子さんって、こんなに可愛かったっけ?さっきからその絵が気になって気になって、ガン見が止まらないんですけどー!

いやー、新発見ってまだあるもんだなー、と自分でもびっくり。あと、橙子さんってこんなに胸デカかったっけ?てのも気になった。スーツだから締まってる分、いろいろと強調されてるんすかねー。とってもエロイっす!まさに大人の魅力!机にお尻だけ乗せてる感じもそそるなー。

改めて止め絵で見て、違った魅力に気付いてしまったなー。ほんと話そっちのけですいません。橙子さんばかりに目がいってしまった。話も面白いんすよ!そろそろ式さん開眼しますし!でも今回は橙子さんが可愛かったなー。作画のすふぃあさん、ナイスでした!次も橙子さん多めでお願いします!ってただただの願望丸出しの感想じゃねーか!

あー、夢に橙子さん出てこねーかなー。もちろんスーツ姿で!

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2014.01.29

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界

盲目破りのメディアミックス

レビュアー:ラム、ユキムラ

 小説が好きなのだ、私は。
アニメより、漫画より、ドラマより、映画より。
全ての娯楽コンテンツの中で、小説こそが。
感動に媒体の差はないはずだけど、他の何よりも小説が 私の魂にフィットする。
 文章は伝えるのだ。
心の内面を、ダイレクトに。


 表情で 台詞で 行動で

 小説以外のメディアが伝える それら特有のものもあることは勿論だけれど。
それでも、文章で読む心情描写が一番内面を深く知れるようで 私は好きだ。
 作者が取捨選択した描写によって生まれる、文章にならなかった部分。それらを想像して楽しめる。

 小説が好き。

   だけど
     だから

 自分の中に取り入れた文章たちを表現できる人にあこがれる。
小説が好きだからこそ、メディアミックスされた作品が気になるし目も通す。
 そして気づく。
「……あれ? こんなシーンあったっけ」

 小説で読み飛ばしたシーンや印象に残らないシーンでも、漫画の表現力でこそ、感情がこんなにも理解できるのだろう。

 Web漫画では、目を逸らさずに 藤乃の惨状と凶行を見ることができた。
式の嬉しそうな顔とつまんなそうな顔も。
幹也の、感情を殺した無表情も。

 見て、そして観て、思ったこと。

 私は、見たいものしか 見ていなかった。

『レッドドラゴン』を読んだ知人に、「奈須さんは暗い話を書く人というイメージがずっとあった」と言われて違和感を覚えてた。
だけど、『空の境界』ってそんなにグロかったのだろうかと考えて...考えて、私は具体的な内容を想像する前に読み流してしまっていたのだと気づく。

 私は今まで知らなかった。ずっと知らずにいた。知ろうとせずにいた。
小説という形をとっていない『空の境界』でも、こんなに、心を揺さぶられるということ。

 これは小説ではなく。ましてや、ページをめくりもしないコンテンツ。
なのに、ページで閉じていた本状態の名残で、中央余白の様式美を醸し出して。
そのweb漫画はまるで小説における地の文のように。シロで以って、私に行間ならぬコマ間を読ませるのだ。

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2013.07.08

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

奈須きのこ・天空すふぃあ『空の境界 the Garden of sinners』

イタミを訴える。何よりも、ただ…目で。

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 目という器官は、外界を受け止めるもっとも大きなファクターだ。それゆえに、目という箇所には異端が顕著に出やすい。
 ギリシア神話に出てくるメデューサ、『コードギアス』におけるギアス能力保持者など、例を挙げ始めると止まらない。
『空の境界』に登場する浅上藤乃だってそうだ。
双眸に業を負った彼女は、その業が招いた自身の無痛と、そして焦がれ希った痛みに振り回されることになる。
 漫画版【痛覚残留】第4回18ページの浅上藤乃の瞳を――その奥に渦巻くイタミの訴えを、貴方はもう見ただろうか?
 自身には無くなって久しい痛み、その為に誰かの命を踏みにじる悼み、それら行為の影響で己が魂が負うことになる傷み。
 あらゆるイタミが奔流となって吐き出されている。

「痛みは訴えるものなんだよ、藤乃ちゃん」
 辛いことが起きて沈んでいたときの心の支え。その言葉に背を押され、浅上藤乃は雨の中を歩くのだ。
   ふくしゅうのため。 いたみをえるため。
 そんな理由たちなど、些事。
 私は思うのだ。痛覚も復讐も、彼女にとっては確かに動機だったのだろう。
 けれど――
 本当は、かつて向けられた助言に、ただただ、応えたかっただけなのではないだろうか。
三年前に言えず、先日やっと言えたばかりの言葉の続きを、ただ声高に。

最前線で『空の境界 the Garden of sinners』を読む

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2012.06.08

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners 3/「痛覚残留」第四回

変態現る

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

私ははっきり言って「アブない」女性が好きである。

これだけ見ればただの変態的な思考の持ち主だと思うだろう。…そのとおりだ。ただこの「アブない」というのはいろいろな意味を持っている。あくまで私の内でだが。この作品で言えば、純粋に大きな力を持つ「両義式」は「アブない」存在のはずだ。下手をすればこちらが殺されるかもしれない―そんなことさえ思わせるくらいに。

ただこの痛覚残留。もうひとり大きな力を持った「アブない」女性が存在する。それが「浅上藤乃」である。「凶れ」と相手に向かって呪詛のように呟くだけで何もかもがねじ切れる。視界に入るだけでこっちがねじ切れるなんて考えてみただけでもかなり「アブない」。だがそれだけではなかったのだ。…すいません正直言ってこのコミックス版の藤乃がエロすぎます。ええ、みなさんおわかりの通り「アブない」です、性的な意味で。でもまだ終わりじゃありません。腹部を抑えながら、しんどそうに息を切らして町を進む姿―もう見ていられないくらい「浅上藤乃」という女性の存在の「危うさ」が見てとれました。
どうして痛みを堪えてまで進んでいるのだろう、いつこの痛みから解放されるのだろう、もしかしたら死んだ時にようやく痛みから解放されるのではないか、まるで小さな花弁を散らしていく花のように消え入りそうなその女性は、そんなことを思わせるくらいに「可哀想」で「扇情的」、そして―「暴力的」だ。

ああ、「浅上藤乃」よ。キミはどうしてそんなにも甘美に私を誘ってくるのだろうか。
やっぱり私は「アブない」女性が好きな「アブない」人間だったらしい。

最前線で『空の境界 the Garden of sinners』を読む

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2012.05.18

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

空の境界

「すふぃあ版両儀式の目の表現について」

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

webで連載されていた頃から、すふぃあ版の両儀式の評判は良かったし、私も着物姿で動き回る式というヒロインの魅力を改めて知ることとなった。
 だが、小説や劇場版で繰り返し見てきた物語に、なぜそのような思いを感じるのか、すぐには判然としなかった。
 私がすふぃあ版の式に感じたのは、何年も前に見た物語のヒロインに再会した懐かしさというよりも、今描かれ始めたばかりの新しいヒロインを前にしたような新鮮さが強かった。
 その理由は、単行本としてまとめて読み終えた時に、ようやくはっきりと掴むことができた。

「天空すふぃあの描く式には、胸を衝くほどの情念が込められている」

『空の境界』は、「死の線が見える主人公」こと両儀式の物語だ。
 そして、天空すふぃあの漫画は、原作や劇場版以上にするどく深く「両儀式」を描いている。
 原作者による上述のコメントは、そのことを強く示唆している。
 そして、それは漫画版『空の境界』の本質でもある。
 
 横向きにデザインされた表紙に躍るのは、ナイフを一閃させる式の姿だ。ナイフを構える式の姿は、小説の表紙や映画のイメージイラストなどで、これまでに何度となく描かれているが、それらとこの表紙は決定的に異なっている点がある。
 それは「目」だ。
 同人版、ノベルス版、文庫版と、小説だけでも何冊ものバリエーションのある『空の境界』だが、式のトレードマークである魔眼を強調するようなデザインの表紙は今までに一冊もない。強いて言えば、劇場版のイラストに数パターンがある程度で(第一章や第四章のイメージイラストなど)、これほどヴィジュアル化に恵まれた作品の主人公にしては、意外なほどに少ない。しかもその少数にしたところで、式の魔眼は本書に比べるとずっと控えめに描かれている。(逆に、ノベルス版や文庫版の表紙で強調されている赤いジャケットは、本書では背景に溶け込むような暗い赤色が使われている)

 また、作中でも式の「目」は要所要所で特徴的に使われている。
 例えば、式に殺された巫条霧絵の姿が散り散りに消えて行く場面。式の瞳に霧絵の姿が花のように映り込んでいる描写がある。あるいは、高校時代の式が下着姿で姿見の前に立つ時、読者の目に映る鏡像は、同時に式の視界でもある。(後者は、同様の場面が劇場版にも存在するが、ページ全体を使って描かれていることや、鏡面についた手などの描写の差異から、単純に映画のシーンをそのまま描いたのではないことが窺える)
 このような演出によって、式の見ている世界と、読者が見る世界の距離が縮められていく。結果、読者は式の内面により近づいていくことができる。(こういった積み重ねが「胸を衝くほどの情念が込められている」という評につながっている)

 漫画表現において、「目」はキャラクターを表現する際の重要な要素の一つだ。
 そして、『空の境界』において、式の魔眼は「死の線が見える主人公」という作品の初期構想を支える重要な要素である。(このことは原作者が対談などで語っている)
 つまり、式の「目」の表現を重視することは、両儀式というキャラクターの表現を深化させ、さらには作品全体の表現をも深化させることになる。
 だから、これまでの『空の境界』以上に式の魔眼を強調し、視界や視線による表現を丹念に積み重ねて行くすふぃあ版『空の境界』は、原作とも劇場版とも異なる在り方を示しながら、そのどちらよりも深い表現を目指しているのだろう。
 
 帯に大きく縦書きされた「魔眼、新生。」というコピーは実に的確だ。
 この漫画から『空の境界』に入る人には勿論、既に小説や映画で『空の境界』を知った人でもこの漫画は楽しめるはずだ。
 なぜなら、すふぃあ版『空の境界』と、そこに登場する両儀式は、そのような読者にとっても新しい出会いとなるはずだから。

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2011.12.20

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

空の境界

織というキャラクター

レビュアー:牛島 AdeptAdept

 両儀織というキャラクターについて語るとき、私は冷静であれる自信がない。

 『空の境界』の主人公・両儀式の抑圧された人格。二重人格の裏側。破壊衝動の塊。人を殺すことしかできないからって自分を押し殺し続けた、不器用で純粋な少年。式と黒桐の幸福のためには自分が邪魔でしかないと理解し、自ら消えることを選んだ日陰者。
 私が『空の境界』で一番同情するのは彼であり、そういうファンの人も多いのではないかと思う。
 式を支え。黒桐と戯れ。そして、二人の未来のために消えてしまった彼。
 『未来福音』のラスト――10年越しの物語の結末は、そんな彼が死の直前、ささやかに救われたことで幕を閉じた。

 さて。
 なぜ織の話を始めたのかと言うと、巷で話題の星海社の『空の境界』フェアが原因だ。『空の境界』公式新刊を二冊セットで買えばストラップが当たることでえらく盛り上がっている。しかし、式のストラップに目を奪われがちだが――真の仕掛けは織にあるように思うのだ。
 『空の境界』フェアとして今回出版されたのは『漫画版』と『未来福音』である。言わずもがな『漫画版』は最前線での連載が書籍化されたもので、『未来福音』は2008年に伝説のサークル「竹箒」名義で出された同人誌のリメイク版になる。
 『漫画版』に収録されているのは『俯瞰風景』と『殺人考察(前)』の途中まで。織がヒロインとしか思えない黒桐とのデートシーンも入っている。
 『未来福音』は同人版から漫画をオミットしたもので、未来視にまつわる4つのエピソードが収録されている。そのラストにて、織というキャラクターの結末が描かれた。
 で。この二つを同時に読んだとき――『漫画版』を読み、『未来福音』を読んだとき、不覚にも泣いてしまった。の二つの作品は、織というキャラクターを通して、深い繋がりが見えてくる。
 『漫画版』の『殺人考察(前)』で黒桐と戯れていた彼は、その裏側、『未来福音』で独り未来を想って死を受け入れていた。織というキャラクターに注目すると、この二冊はこれ以上なく見事に繋がるのだ。
 同人版の『未来福音』を読んだときに感じた感動が、二つの作品を通して再編集され取り出されてしまった。これを偶然だとは言わせまい。星海社側の編集の妙だろう。

 では何故、織を推すのか。
 また、我々はなぜ織を忘れられないのか。
 それは奈須きのこ氏の創る物語の特質を、彼が一身に引き受けているからではないかと思う。

 私が奈須きのこ氏の作品を好きな理由の一つに、物語に対する真摯さがある。氏の作品に触れたことがあるならば、それは決して優しい世界ではないということがわかるだろう。いつだって氏は残酷な世界を、冷徹に描く。無論、そうした中で守られたささやかな幸福は、私たちの心に深く焼きつけられるのだが。
 これを織に当てはめてみたい。
 彼の異常性は優しくない世界そのもので。
 彼自身が下す自死という決断は筆者の冷徹な筆致と似通い。
 彼が夢見た黒桐と式の幸福は物語のハッピーエンドに他ならない。

 きっと私はいつまでも織のことを忘れないだろう。忘れることなどできるはずがない。
 真摯で健気だった彼は、私が惚れ込んだ作品そのものなのだから。

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2011.12.20

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners 3/「痛覚残留」第二回

式の背中についてもう一回語りたい

レビュアー:ラム AdeptAdept

原作者の奈須きのこさんが、漫画について竹箒日記で語っていました。



■■■

色気が凄いんだ、色気が。

小説版ではできなかった事があって、
劇場版でもできなかった事がある。

すふぃあ版空の境界は、その二つに対するアンサーかもしれません。

■■■



今回更新された3/「痛覚残留」第二回の、10ページ目「答えるまでもない」って言ってる式の後ろ姿がやばい!
下から見上げるような構図で、肌の露出なんて手だけなんだけどとても色っぽいんです。
そうだ黒桐は半袖だ。今は上着いらないから式の華奢な肩幅が丸見えなんだ!

今回、どうしてこんなに好きなのか分かった気がしたけど、うまく言葉にできない。
言葉で表現したくない。
ただ、みんなにも読んで、そして、好きになって欲しい。

だって好きなんだもん。

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2011.12.20

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners 3/「痛覚残留」

「痛覚残留」なんて……

レビュアー:牛島 AdeptAdept

「痛覚残留」は苦手だ。

 原作小説や劇場版を観た人には今さらだろうが、「空の境界」第三話であるこの話は、浅上藤乃という少女に焦点が当てられる。浅上藤乃を通して両儀式が生を実感する――話の構成がそうなっている以上、自然と浅上藤乃の登場は多くなるし、その内面も深く掘り下げられる。
 先に言っておくと私は浅上藤乃が好きだ。いやもう大好きだ。ふじのん推しだ。『空の境界』で一番好きなヒロインは浅上藤乃だ。もう結構な時間この作品に触れていて、それでもぶれない。他にもいる魅力的なキャラたちに浮気したりしないあたり、自分でも本気で好きなのだろう。

 で。
「痛覚残留」である。
 両儀式と似通った性質を持ち、しかし決定的に違う浅上藤乃は、しょせん物語の中で敵役として設定されたキャラクターにすぎない。作中で彼女は悲惨な目に遭うし、彼女への救いはあまりにも遅すぎた。
 鬱だ。辛い。不覚にも泣きそうだ。
 それが物語の展開としては正しいことだけに余計に辛い。ただの不運ではなくそれは当然の帰結なのだ。
 浅上藤乃とは、そうした業を背負った少女なのだ。

 さて。
 原作小説を読み、映画を観た。そのたびに彼女の運命に対してやりきれないものを感じてきた。
 そして10年越しの外伝にして外典である「未来福音」を読んだとき、そこに収録されていたとある短編マンガを読んだとき、私は感動したのだ。
 そう。浅上藤乃の未来は絶望だけではない。そこには確かな祈りと救いがあった。
 よかった……!
 ふじのんは乗り越えることができたんだ……!

 それは浅上藤乃というキャラクターの決着である。きっと全国の浅上藤乃愛好家たちが胸をなで下ろしたことだろう。これで彼女の幸福な未来を思い描くことができる、と。

 ……だが。
 コミカライズの名の下に、再び「痛覚残留」は再生される。浅上藤乃が傷つき、見る者の心を抉る展開が待っている。
 ああ。また彼女は傷つけられるのか――そんな風にちょっと退けた腰で最前線を、「痛覚残留」を開いた。

 ……。
 …………。
 ……………………。

 ……あれ。
 天空すふぃあ先生の描くふじのん、かっわいくね……!?

 かわいい。少し幼くあどけない顔立ちの浅上藤乃。黒桐の好意に純粋な感謝をむける浅上藤乃。夢見るような表情の浅上藤乃……!
 参った。
「痛覚残留」は苦手なのだ。なのに、これじゃあ更新を楽しみにしてしまうじゃないか。すふぃあ先生の描くふじのんがかわいすぎて楽しみになってしまうじゃないか!

 気づけば「痛覚残留」への苦手意識……というか、展開への憤りは消えていた。ああそうか、と納得する。今さらだがすふぃあ先生の絵はマンガ版「空の境界」において一抹の清涼剤となっていたのだ。

「痛覚残留」は苦手だ。浅上藤乃が好きだからだ。
 だけど、浅上藤乃が好きだから、だからこそ私はこの新しい「痛覚残留」が好きだ。

 すふぃあ先生の描くふじのんに惚れてしまったのだから。

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2011.09.30

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

空の境界 第三話「痛覚残留」第一回

二つの暴力描写について

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

「痛覚残留」は痛みに翻弄される少女の物語だ。
 あるいはこう言い換えてもいい。
 痛みを受けることと、痛みを与えること――つまりは暴力に翻弄される少女の物語、と。
 その少女――藤乃は、暴力を受ける側と、暴力を与える側の両方の役割を与えられる。 
 連載第一回の冒頭では、藤乃の身体に酷い暴力の痕が刻まれると同時に、それ以上の暴力を行使する存在としての藤乃の描写も描かれている。
 暴行され服の乱れた藤乃の身体と、無残に横たわる男たちの捩れた死体。
 その二つの絵には、どちらも藤乃の視線が同じページ内に描写されている。
 それは、読者の視線をそこで行われている暴力へと誘導している。
 この二つの絵(藤乃が受けた暴力と、藤乃が与えた暴力)が、「痛覚残留」という物語の強度を支えていることを理解した上での演出だろう。
 この演出がさらっと行われている事実に、作者の高い漫画表現力が感じ取れる。
 物語中盤以降で描かれるだろう、式と藤乃の在り方の違いや、藤乃が迎える結末も、この暴力の表現があればこそ活きてくる内容であるから、冒頭のシーンの意味はとても大きい。
(冒頭の描写が、どのように中盤以降の展開に関わってくるかは、実際に連載を読むことで確かめてほしい)

 物語開始僅か数ページの間に、作品にとって最も大事な要素が力強く描かれていることは、すごいことだ。
 きっと「痛覚残留」は傑作になる。
 そのことがわかっているから、続きを早く読みたいと思う。

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2011.09.30

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

空の境界

研ぎ澄まされる王道

レビュアー:大和 NoviceNovice

 奈須きのこは極めて独特な魅力を持ったクリエイターだ。癖のある文体や台詞回し、衒学的な表現、過剰に作りこまれた世界観。どれも奈須きのこを一流のクリエイターに押し上げるため役立った要素だが、しかしあまりに特徴的すぎるせいか、人を選んでしまったり、彼の事を嫌う人も少なくない。中には(奈須きのこが圧倒的な評価を得ているクリエイターであるにも関わらず)ファンのことを信者と揶揄する人もいるほどである。

 しかし奈須きのこ、あるいは彼が所属するTYPE―MOONの打ち出すコンテンツが、一見して非常に限られた人々だけをターゲットにしているように見える、という側面も全く無いとは言えない。例えば劇場版・空の境界は当初、単館のレイトショーのみで公開されていた。個人的には面白い試みだと思うが、しかし元からファンである人々以外が足を運びにくい形にも見えるかもしれない。

 だが漫画版・空の境界は、そんなしがらみを吹き飛ばすかのような素晴らしい作品だ。物語が進むに従って漫画版は自身の特徴をより鋭く洗練させ、それによって作品のクオリティを高めると同時に、誰もが楽しめるようなエンタテインメントを提示しようとする。では漫画版の特徴とは何か? それを語るには、まず『空の境界』が歩んできた道のりについて触れる必要があるだろう。

 作者・奈須きのこは2000年に『月姫』を発表してその名を轟かせ、2004年の『Fate/stay night』によってその地位を不動のものにする。2000年代は王道の物語が多く作られ、受け入れられていった時代であり、『月姫』と『Fate/stay night』はその先駆けであり代表例ともいうべき作品だと僕は思う。だが奈須きのこがそれらを迷い無く王道の物語として描くことができたのは、1998年に発表された『空の境界』の経験があったからこそだろう。とりわけ『月姫』と『空の境界』の関係は深い。設定やモチーフにも共通する部分が多く、『空の境界』はほとんど『月姫』のプロトタイプだと言っていい。

 しかし『空の境界』と『月姫』が大きく違うのは、『月姫』が非常に王道的な物語であるのに対して、『空の境界』はむしろ実験的な要素が強く押し出された形になっていることだ。例えば全7章で構成された物語は時系列が複雑に入れ替えられているし、更に第1章・俯瞰風景の中でも時系列が錯綜するような構成を取っている。(作者自身、「読者をふるいにかけるつもりで作った」と語っている)つまり98年の時点では、奈須きのこは物語を王道的に語ろうとはしていなかったのだ。

 やがて『空の境界』は2004年の講談社ノベルス化を経て、2007年に劇場版アニメが封切りされる。ここで面白いのは、劇場版・俯瞰風景が作られるにあたって、錯綜していた時系列が本来の順番に組み替えられていることだ。つまりここでは原作が持っていた複雑さが鳴りを潜め、むしろ王道の物語――とりわけ幹也と式のラブストーリーを中心として再構成されている。

 しかし劇場版が本来目指していたものは「再構成」という言葉から連想されるような「変化」ではなく、むしろ原作の忠実な再現に近いものだ。劇場版・俯瞰風景を見ても、丁寧に拾われる音や緻密に描き込まれた背景が幾重にも積み重ねられることによって、奈須きのこが持つ独特の世界観や空気感を観客の前に立ち上がらせようとしている。つまりここでは劇場版が『空の境界』を変化させたというより、『空の境界』を再現しつつ、元々もっていた王道としての魅力がプッシュされたと捉えるべきだろう。つまり王道的な語り口でこそなかったものの、原作の時点で、王道に耐えうるような物語の強靭さは既に萌芽していたのだ。

 そして漫画版だ。2010年よりWebサイト『最前線』上で連載されているこの作品は、原作と劇場版の内容を踏まえ、それでいてどちらとも違う新たな『空の境界』を創り出そうとする。例えば伽藍の堂の描写における違いが象徴的だろう。劇場版において伽藍の堂は極めて雑然としており、テレビや書類や小物が所狭しと積み上げられている。対して漫画版では、伽藍の堂はむしろ無駄が極力省かれ、最小限の物しか置かれていない。

 これは背景の手抜きなどではなく、『空の境界』という物語を洗練させようとした結果だろう。このシーンだけでなく、漫画版は全体的に背景の書き込みがやや淡泊だ。だがそれに対してキャラクターの描き込みには目を見張るものがある。細やかな表情の変化、髪の毛のツヤ、服の皺の一つ一つに至るまで、相当なこだわりを持って描かれている。天空すふぃあという漫画家の武器は、このキャラクター描写に対する徹底したこだわりにあると僕は思う。

 では背景の描き込みが後退し、キャラクター描写に重きが置かれることによって何が起こっているのか。結果から言えば、ここで起こっているのは「奈須きのこらしさ」の後退であり、『空の境界』が持っていた「物語そのものの魅力」の洗練・前面化だと僕は思う。

 それは第2章「殺人考察(前)」第三回において顕著に表れている。ここでは幹也が式の中にあるもう一つの人格・織と出会うエピソードが語られるのだけど、このシーンは原作・劇場版・漫画版でそれぞれ違う表現が行われている。基本的には「普段仏頂面で素っ気ない態度を取っていた式が、織の人格が出てくることで突然気さくになり、幹也が戸惑いを覚える」という流れで一致している。だが原作では式という人物のミステリアスさが中心であるのに対し、劇場版では楽しげにはしゃぎ回る式が描かれることで、式というキャラクターの魅力とその後の(急落する)展開の布石に重きが置かれている。つまり前者はミステリー要素を中心としており、後者は幹也と式の関係性を中心としていると言える。

 漫画版もまた劇場版に近い表現ではあるが、二人のデートを客観的に眺める形だった劇場版に対し、漫画版は更に一歩踏み込んだ表現となっている。7Pや9Pにおける式の笑顔を見てみよう。ここでは背景に花が舞っていたり淡い光のようなものが加えられることによって、式の笑顔がどこか「眩しい」ものであることが表現されている。これは幹也の主観から見た式の笑顔であることが暗に示されているのだろう。つまりここにある「眩しさ」は、式の魅力を強化すると同時に、幹也の式に対する感情を描写してしまっているのだ。ここにおいて漫画版は、劇場版よりも明確にキャラクターに重点を――とりわけ幹也と式の関係性を先鋭化しようとしていることを明らかにしている。

 僕が素晴らしいと思うのは、こうしてキャラクター描写が重視され、世界観や空気感のような「奈須きのこらしさ」が後退してしまっても尚、『空の境界』は魅力的な王道の物語として、霞むことなく輝き続けているということだ。つまりここでは「奈須きのこらしさ」が削ぎ落とされることによって、むしろ奈須きのこという作家が世界観や空気感だけでなく、強靭な物語をベースに戦う優れた作家であることが高らかに宣言されているのである。

 それは奈須きのこというクリエイターの、そして『空の境界』という作品の射程が、「信者」と揶揄されるような限られたファンを大きく超えている、ということのこの上ない証左であるように思う。結果として漫画版・空の境界は、原作や奈須きのこというクリエイターを知らない人でも楽しめるものに仕上がっているし、原作を知る人もまた感慨深く読むことができるだろう。かつて複雑な実験性を身にまとい、「読者をふるいにかけるつもりで作った」とまで語られた『空の境界』は、極めて王道な物語として洗練され、「最前線」という誰もが気軽に読めるWebサイトに掲載され、誰もが楽しめるエンタテインメントとして、僕らに笑顔を振りまいている。

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2011.09.30

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

空の境界 the Garden of sinners

痛みを感じさせて

レビュアー:akaya NoviceNovice

奈須きのこの文章はとにかく『痛い』。
それは俗に言う中学二年生的な言動のアレさではない。痛覚が発する神経伝達によってもたらされる感情のほう。

"新伝奇"なんていわれる作品だから魔術や能力を使った戦闘が描かれる。とうぜん血も出るし人が死ぬ。その時の奈須きのこはトンデモナイような文章を紡ぎだす。

挿絵はほとんどというか全く無い。映し出す光景は字の連なりからのみ想像されている。それなのにまるで観ているように感じてしまう。ナイフの冷たさを、刺さった熱さを、骨の砕ける音を身体にフィードバックするかのよう。だから『痛い』。

劇場版空の境界はその『痛さ』があった。とりわけ最終第7章は眩暈がするほど痛かった。目がチカチカして意識が飛んでいきそうだった。多分それは悲鳴の演技や効果的使われた光の明滅と音からだと思う。映像作品としての演出が奈須きのこの痛さを届けてくれた。

ではコミック版ではどうだろうか?
『痛み』を届けてくれるだろうか?
私は出来ると思っている。

コミックだけの表現としてコマ割があるし、何よりも絵と文字が同時に存在している。映像的な伝え方と同時に活字的な届け方をしてくれるのではないだろうか。

殺人考察(前)/06ではその片鱗が見えた。実際に式の手が飛び出して首を掴まれるかと思った。血が飛び出していくシーンは客観的な構図だが、そこはやけに主観的だ。まるで式と対峙しているかのよう。

次は3章痛覚残留が描かれる。腕はねじ切られ血は出るし骨も折れる。その光景をぜひ主観で感じさせて欲しい。『痛み』を届けて欲しい。

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2011.09.08

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

「空の境界 the Garden of sinners 「殺人考察(前)」第六回」

私はそれを認めざるを得ない

レビュアー:zonby AdeptAdept

現在Web上で公開されている「空の境界 the Garden of sinners 「殺人考察(前)」第六回」の十六頁の絵を見て、しばらくそこから次の頁に進むことができなかった。
その絵が、小説を読んで私が想像していた絵面よりも遥に胸に迫る筆致で描かれていたから。

「殺人考察」は黒桐幹也と、二人のシキの関係を巡る物語だ。
一つの身体の中に存在する、両極端な衝動を持つ「式」と「識」。今まで何の齟齬もなく重なり合っていた二つが、黒桐幹也という人間の介入のせいで二重にずれ始め、やがてその齟齬を埋めるために式はあることを実行する。
その結果として画面いっぱいに展開されるのは、黒桐幹也の上に馬乗りになる両儀式の図。
彼女の普段着である着物と髪はしとどに濡れ、雫を滴らせている。それに紛れて涙を零す瞳に光はなく、どこか遠くを見つめているように焦点は結ばれていない。その表情は、何かに諦観しているようにも見えるしまたどこか安堵しているようにも見える。自嘲しているようにさえ見える。背に重く垂れ篭める雨を、そして仄かな光をまといながら、式は言う。

「私はおまえを犯(ころ)したい」

告白のようだと思った。
式と識、二人分の。
けれど、「告白」と言うにはあまりに式の表情が、複雑な色味を帯びている気が私はする。
そう。
「告白」というより、それは「告解」に近い表情。
自分の欲望を吐露することで全てを終わりにしたい、というような。目の前の人間―黒桐幹也―に対する最後通牒であると同時の懺悔のような。受け入れられること、許されることなどないと思いつつ、口にせねばならなかった「告解」。
十六頁の絵は、たった一枚の絵。一つの台詞で私にここまで想起させる力があった。

私は原作至上主義者ではないが、無闇で打算的なメディアミックスを嫌う傾向にある。
だから小説としての「空の境界」は読んだが、映像は見ていない。漫画を読んだのは、ネット上でも読めるから、という至極単純な理由からであった。
しかし、私が予想以上の衝撃を受けたことは上記の感想を読んで頂ければわかるだろう。

メディアミックス化において、原作の文章の多くは削られることが多い。いわゆる地の文というものが根こそぎ失くなり、かわりに絵や映像や音楽がそれにとってかわる。常々、私はその過程においてキャラクターの心理描写が希薄になることに不満を感じていた人間だ。
だが今回の絵の一見で、私はその意見を翻さざるを得なくなった。
小説には小説でしか感じとることのできないものがあるのは知っている。そして今回、漫画では漫画なりに小説からは感じることのできない、否、文字だけでは感じることのなかった質感や感情を感じ取れることを知ってしまったのだから。

漫画には漫画の力がある。
それは時に、小説で感じた印象をも遥に凌ぐ時がある。
私はそれを認めざるを得ない。

それを我が身の体験として知ったことを、私は微塵も後悔しない。

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2011.09.08

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界theGardenofsinners

”TYPE-MOON教”の外からみた”空の境界”

レビュアー:さの

 ぬるり、とひとつの動画がニコニコしたところにアップロードされた。

 2008年2月28日のことである。

 素材の少なさを感じさせない編集の巧みさ、そしてなにより元となった素材の質の高さに、衝撃を受けた。原作を知らない当時の自分も、なにか蠱惑的なものを感じていたと思う。

 世の中に娯楽は多く、ネットもそれを写すように新しいコンテンツが生まれていく。

 先の動画で受けた衝撃も、やがて麻痺して忘れていくはずだった。

 変化があったのはショッピングサイトの、Amazonのランキングである。例の動画のタイトルと同じDVDが複数上位に食い込んでいたのである。空の境界は七章構成だが、当時の自分はそんなこと知る由もなく、ただただ異様な光景がそこにあった。
 
 あの蠱惑的なものが、動画を飛び越えて自分に襲いかかってきたのを今でもよく憶えている。

 原作の一章、俯瞰風景の台詞にはこうある。

「高所から見下ろす景色は壮観だ。なんでもない景色でさえ素晴らしい物と感じる。だがね、自分の住んでいる世界を一望した時に感じるのはそんな衝動じゃない。俯瞰の視界から得る衝動はただ一つ――」

衝動、と口にして、橙子さんは少しの間だけ言葉を切った。
衝動は理性や知性からくる感情じゃない。
衝動とは、感想のように自分の内側からやってくるものではなく、外側から襲いかかってくるものだと思う。
たとえ本人がそれを拒んでいようとも、不意に襲いかかってくる暴力のような認識。それを僕らは衝動と呼ぶ。では、俯瞰の視界がもたらす暴力とはなんなのか―――「それは遠い、だよ。」

 
私は「TYPE-MOON教」の外から、”そこ”への遠さを感じたのだと思う。
原作を読むことは、それを地図として、遠い”そこ”にたどり着くことに似ていた
 
 先に一章劇場版を見ていなければ、とても理解できなかったであろう小説一章。

 最初が語られる二章

 そして、あの三章、痛覚残留。
 物語は加速度的に面白くなっていった。”そこ”を目指して。

 
この体験は、きっと得難いものだったと思う。あの一章を乗り越えられたのは、劇場版による映像があってこそだったからだ。少なくとも、自分にとっては。

また、極めて個人的な理由がもうひとつある。

わたしには、姉か兄がいたのだ。流産で死んだ。
また彼、もしくは彼女がこの世に生を受けていたら、自分は生まれていない。
自分が母に宿ったのは、本来まだ居るべき人がいるはずの時期だったからだ。

死に対する恐怖を感じていた。自分のせいじゃないのに罪悪感を感じていた。

原作七章、殺人考察(後)の台詞にはこうある。

”人は、一生にかならず一度は人を殺す”

そう、なの?

”そうだよ。自分自身を最後に死なせるために、私たちには一度だけ、その権利が
あるんだ”

じぶんの、ため?

”そうとも。人はね、一人分しか人生の価値を受け持てないんだ。だからみんな、

最後まで辿り着けなかった人生を許してあげられるように、死を尊ぶんだ。

命はみんな等価値だからね。自分の命だからって、自分の物ではないんだよ”



彼もしくは彼女は、自分の死を受け持ったのだ。

この硬質の哲学は、私の一生の宝物だと思う。

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2011.08.17

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners

「境界」とは

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

近年「境界」というものが題材となる作品が生まれてきているような気がする。

やはり最近の流行というか「身体論」なる近代思想に影響を受けているのではないだろうか。

身体論に至るまでの経緯はそこまで詳しくないので今回は言うのを控えるが、身体論というものは体があるから心があり、心があるから体があるみたいな感じのものだ。簡単に言えばだが。自己というものを精神的なものと肉体的なものとに分けて考えると言ったら少しは伝わるだろうか?自分という存在を精神だけによって見たり認識するのではなく精神と肉体との関わり合いに目を向けるのだ。

まず簡単な質問をしてみたい。

人間のハートというものはどこに存在すると思う?心臓とかそういうものじゃなくて、純粋に愛情だの侮蔑だの後悔などの人の気持ちを司るようなそんなもの。

ある人は頭を指し感情は頭から来ているものとする。またある人は胸を指しそこにハートが存在し感情を生んでいると考える人もいるだろう。
私個人的には後者の考え方だ。そして今回は後者の考え方を使いたい。 何かに感動したり、何か欲しいものが得られなかったり、自分がキライと嫌悪したりした時は決まって胸が苦しくなる。葛藤し、渇望し、それでも苦悩し、自分というものが見えなくなったり、まぁいろんな場合があるが。そのまず精神的な、気持ちというものが体に影響を与えているとして以後考えてもらいたい。ストレスから病気になるとかの例も出したらわかりやすいかな?

そして体についても言及すべきだろう。まぁ一番わかりやすい例は「痛い」という感情を引き起こすような事象だと思う。注射とかしたときは体というものが「痛み」を受け、そして「痛い」という感情が生まれる。肉体的なものが精神的なものに影響を与えている。

つまり、精神と肉体が相互に密接に関係しあっているのだ。しかし精神と肉体は対立するもので、肉体にあって精神にないもの、精神にあって肉体にないものの線引きが行われている。この線が「境界」というものを示していると私は思うのだ。対立する事柄は前からいろいろあっただろうが、自分自身というか人間に置き替えて考えることで「境界」というものを感じやすくなったりしたんじゃないかなと思う。まぁ推論の域を出ないけれど。

そこでこの空の境界という作品にも目を向けたい。この作品もやっぱり「境界」というものが話に関わってくると思う。式という存在の中で。
式は特別だ。なぜなら1つの体に2つの人格を有している。つまり精神×2、肉体×1だ。そうなってくると「境界」というものを考えるのは少し難しくなってくる。だって普通なら精神×1に肉体×1だからね。精神×1に肉体×1でさえいろいろ考えて、行動し、四苦八苦するというのに式はどうなるんだ。とか考えてみたりする。

そして、そういう式という存在を「境界」という題材を取り扱いながら話を進めるので、文が複雑になったりしてまず読者を選んでしまうのだと思う。そしてわかりにくい、というより硬めで暗い文章にしてしまうもの
だから余計にそういった感じを受けてしまう。

私は昔、読者として失格だった。正味暗いし意味わからん。というのが少し読んだ感想だった。今では原作小説を愛する一個人となっているが。いきなり原作小説に行くのもいいけれど私は少し迂回しながら空の境界を楽しんでみては?と思う。劇場アニメ化もされているわけだし何より天空すふぃあ氏が描くマンガもある。私は原作小説に一発KOされたのでアニメから入りました。恥ずかしい限りですが(笑)

はっきり言って難しい。空の境界は。だからこそアニメ化、マンガ化して導入しやすくしているのだと思う。話自体がおもしろいのも理由にあるけれど。そして天空すふぃあ氏がマンガとして空の境界を「今」連載している。星海社の手によって。今がチャンスだと思ってマンガから入ってみましょう。そしてマンガの世界を堪能した後でもいいですから原作小説に入ったり発展的なことをしましょう。
そして語り合いましょう。私のような「身体論」という謎なものを取り上げても構いません。そして一緒に空の境界という作品を楽しみましょう。
それが私の願いです。それでは

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2011.07.14

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners

目と、心で読む漫画

レビュアー:ラム AdeptAdept

やっぱり好きだ。

原作ファンっていうのもあるけど、漫画に漂う空気がとても好き。

前回読んだときは、映画の主題歌が脳内で鳴り響いた。

今回は叫びだしたくなった。

 好きだぁぁぁぁ!!!

2章は、殺人鬼かもしれない式の疑惑の回だが、幹也と式の重ならない想いに心を乱される。
彼らの、好きという気持ちそれだけで二人が愛おしく思えるのだ。
犯したいをころしたいと読ませる。それが奈須きのこで。
文章の細やかな心情描写を、絵でも理解させるのは凄いことだと思う。

すふぃあさんの「空の境界」からは光を感じる。
ディスプレイが光ってるからだって? あたりまえじゃん、Web漫画だものそれも利点だよね。

でもきっと、紙でも輝いてみえると思うんだ。

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2011.07.14

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners

Don't Think. Feel!

レビュアー:ラム AdeptAdept

実は私、最初は 空の境界 を面白いと思わなかった。

でも好きなの。

小説を読む前に友情話や苦労話をインタビューで読んでまず作者に好感を持った。
そして、 空の境界 が読者をふるいにかける尖った作品だということを知った。
知っていて尚、読みにくくてイライラしたけれど。
言うなれば私は脱落者だった。奈須きのこに選ばれなかった。
それでも、私が奈須きのこを選んだの。
そもそも、新伝綺なんてゲームのシナリオライターばかり。ゲーム好きを活字に移行させるわかりやすい餌――に逆流したのは私。
頑張って最後まで読んだよ。

小説が取っつきにくいのは自分が一番よく知っている。
だから、漫画がWebで無料公開という敷居の低さがとても嬉しい。
映画や漫画で、 空の境界 を知る人が増えるのが嬉しい。好きになってくれる人がいたらもっと嬉しい。
私が 空の境界 という作品自体を好きになれたのも、映画を観たからだ。
文章で作者を感じ、スクリーンで世界観を体感できた。

漫画は、アニメとはまた違った色気があって、天空すふぃあさんの 空の境界 を楽しめる。
すふぃあさんの 空の境界 愛が伝わってきて私は好きだけど、この漫画にも馴染まない人、あるいは満足しちゃった人も原作を読まないかもしれない。
でも 空の境界 は、奈須きのこの始まりだ。ずっとずっと昔に書いた、ポエムのようなもの。
好きになれなかった人も、がっつりハマった人も、十何年分成長した今の奈須きのこ作品にも触れてみて、そして 空の境界 に還ってきてほしい。

そんで一緒にきのこは昔から変わってねーな、って笑おうよ。

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2011.06.01

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界

作品との距離が近づいて

レビュアー:akaya NoviceNovice

この作品と出会って7年にはなる。残念かな友人からの貸与という、余りにも受け身な形だった。その当時は上下巻であり、友人からは上巻を1時間だけ借り受けた。

面白くなかったわけではない。好みすぎた。2時間後には自分の2冊を持っていたのだから。

それからというもの、一番好きな作品は『空の境界』であり、作家は『奈須きのこ』だ。

それから3年、思いつくように読み返していたが、劇場化の報せを知る。武内崇さんの表紙だけではない、動く式が観られる。劇場化に伴って、書庫には文庫本が3冊増えたが、それは些細な出来事。

映像で観る式は、文章から思い描いたとおりの動きを魅せてくれた。思い描いた以上にも。ただ劇場に足を運べたのは2回だけ、最初と最後、俯瞰風景と殺人考察(後)だった。距離的な問題があったのだ。その反動からかDVDが随時注文されることになる。

そして今、天空すふぃあさんの手でコミカライズされている。距離的な障害もなく、更新があればすぐに知り、読める。感想をつぶやけるし、作者さんから返ってきたりもする。

原作、劇場版と大好きな『空の境界』を楽しんできた。これからも“最前線”で、より近いところで楽しんでいく。

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2011.05.09

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界

コミカライズの神様、ありがとう。

レビュアー:牛島 AdeptAdept

まずは一言。
コミカライズの神様、ありがとう。

ここで「空の境界」について語れることはそれほど多くありません。
鋭くて、仄暗くて、難解で。
残酷で、哲学的で、美しくて。
純愛で、ボーイミーツガールで、ポエムで。
語ることが、読者を傷つけんばかりの激しさで書かれた小説版で受けた印象が中心になってしまいます。
今はまだ漫画版が始まったばかりの段階なので、それは当然なんですが。

さて。
今回の漫画化ですが。
「空の境界」がweb上で漫画化されている――天空すふぃあ先生が描く両儀式をみつけたとき、しかし私はこの漫画化の持つ意味を理解していませんでした。
素直に喜んで漫画を読みながら、しかし気づけば私は奇妙な感覚に襲われている。
小説を読んだときの、ページを捲る感覚を思い出しながら――それがひどく寂しかったのです。

この「空の境界」という作品の来歴ですが、今さら語るほどのことではないのですが、原作者の奈須きのこ氏が1998年にweb連載で始めたものがオリジナルとなっています。
それから同人ノベルスとして異例のヒットを叩き出し、ドラマCDにもなり、商業版として認知を広め――2007年には映画化にまで至りました(引用・順番等に間違いがあったとしたら、全て私の勉強不足です)。

そして今回の漫画化です。
前述の通り、私はこの漫画を読みながら常に寂しさを感じていました。
最初それがいわゆる新規ファン獲得に対する反感に近い感情なのか、と自問したりもしたのですが、むしろ近い世代のファンが増える事は素直に喜ばしいことです。
というか、ファンである以上新規ファンへの感情は排斥ではあり得ないと思っています。

なら、なにが寂しいのか。
映画を観たときにはまったく感じなかったこの感情の原因は何なのか。

そう考えるうちに、一つの答えが浮かびました。
ひょっとすると、この作品――斬りつけるような勢いをもった「空の境界」を本当の意味で楽しむことができるのは、これが最後の機会なんじゃあないか、と。

web連載の小説から始まり、同人・商業とステージを変え、ときにはドラマCDとなり、ときにはゲームのゲストキャラとして登場し、ついには映画化までされ――そして、ここ「最前線」で公式漫画化へと至りました。

「空の境界」はほとんどのメディアで表現されつくしました。

もちろんこれだけの人気作ですので、同人・アンソロジー・ファンサービスなスターシステム的なキャラクターの登場など、随所で「空の境界」を目にする事はあると思います。
しかし原作の形を保ったまま、原作をハッキリと思い出しながら作品を楽しむことが出来る、という条件ではこれが最後の機会ではないでしょうか?
映画化のときには考えもしなかったことが、いまさらにのしかかります。

読者である私は、それを寂しく思う気持ちが当然あります。
けれど考え方をかえればこれは「空の境界」が偉大だったからこそやもしれません。ただ消費され埋もれていくだけの作品だったなら……なんて、わざわざ言うまでもないでしょう。
この「空の境界」をとりまく大きな“流れ”――広義にはそのファンの熱気もコミカライズの神様だと思います。


手放しで喜ぶことなんてできはしない。けれど、その必要も無い。
寂しさをおぼえながら、それでも更新の日を待ち望んでいる自分がいる。

だから私は声を大にして言いたい。
コミカライズの神様、本当にありがとう。

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2011.05.09

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

空の境界 the Garden of sinners

わたしが驚いた式の後ろ姿のセクシーさ

レビュアー:ラム AdeptAdept

着物は寸胴体型の方が似合うという。

実際、お腹にタオルも詰めるし、肌の露出も極端に少ないどころか布余り気味である。
着物というのは、和服それ自体を楽しむものであって、唯一の色気はうなじくらいしかないと思っていた。

でも式はというと、細めの帯を腰の高い位置で結んでいて、女性の体のラインが強調されているのです。
中性的な顔立ちであることに違いはないけど、体は違ったんですね!!
目からうろこ。油断していた。

「オレ」なんて言っていても、式はこんなにも女の子だった。
帯の結びを潰さないように、うつ伏せで寝ころぶ式も好きだけど、具体的に言うと1/「俯瞰風景」第二回の6ページの全身がお気に入り。
翻るジャケットの下の、リボンを結んだ細い腰にとても色気を感じた。

あれを見て以来、式の後ろ姿が気になって仕方ないのだ。

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2011.03.22

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界

ハーゲンダッツを始末しろ

レビュアー:大和 NoviceNovice

 『空の境界』と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろう。両義式、黒桐幹也、蒼崎橙子、浅上藤乃、荒耶宗蓮、直死の魔眼、伽藍の堂、『 』、新伝綺、奈須きのこ、TYPE-MOON……候補としては色々上がるだろう。はたまた「空の境界って何?」なんて人もいるだろう。しかし僕は、今挙げたどれとも違うものが頭に浮かんでしまう。

 僕が思い出すのは、ハーゲンダッツだ。

 その出会いは劇場版・空の境界にあった。劇場版の俯瞰風景ではプロットが大胆に再構成されている。オリジナルで追加されたシーンも多く、件のシーンもその一つだ。式が巫条ビルに突入する前、自宅で一人寂しくハーゲンダッツを食べるシーンがある。

 僕にとってこのシーンは衝撃だった。月明かりだけが差す仄暗い部屋の中、白いベッドに腰掛ける式。風呂上りの式は下着こそつけているものの、ほとんど裸にワイシャツといった姿でハーゲンダッツを食べる。食べ方がまた独特だ。式は左手が使えない状態にあり、仕方なく口で蓋を開け、露わな膝を内股気味にして容器を支え、スプーンですくって食べる。演出的にはむしろシンプルなのだが、同時にカオスな欲望の奔流を僕は感じた。

 無駄にエロいのだ。
 本当に、無駄としか言いようがないエロさなのだ。

 衝撃すぎて爆笑した。最初に劇場版を見た時、このシーンがあまりに強烈すぎて他の事は何一つ覚えてなかったくらいだ。誰もがそう感じたとは思えないが、僕にとってはそうだった。もうこのシーンがストーリー上どんな位置づけかなんて関係なくて、僕の中では空の境界=ハーゲンダッツになってしまった。

 裸ワイシャツの隻腕美少女が膝でハーゲンダッツ支えて食べてるんですよ。
 いたって真面目なシーンで。ヤバい。狂ってるとしか思えない。

 なんだか貶しているように聞こえるかもしれないけど、僕は素直に、このシーンは果てしなくインパクトがあって面白いと思ったのだ。アニメ史に残るワンシーンだとすら思っている。一体何が、件のシーンに異常さを与えているのだろう。原因の一つを挙げるとすれば、細かなディテールの積み重ねにあるのではないだろうか。

 劇場版は冒頭からして音にこだわっている。ドアの開け閉め、ポリ袋がこすれる音、冷蔵庫の開け閉め、ベッドのシーツが擦れる音、衣ずれの音、ペットボトルを掴む音、ペットボトルを開ける音、式が力を入れた時に漏らす吐息など――物と物が接触し、擦れる音を丁寧に拾っていくことで、二次元にすぎないはずの図像には感触が与えられていく。言い換えれば、そこに実物が在るかのように錯覚させようとする。

 背景にも目を向けてみよう。例えば青崎橙子の事務所だ。漫画版の事務所は物が少なく、がらんとした場所になっているが、劇場版の事務所は物で溢れかえって非常に雑然としている。大量の書類、壊れたテレビの山、デスク上の小物に至るまで、かなり細かく描き込まれている。巫条ビルにおいても、漫画版は古ぼけたビルであることをほんのりと匂わす程度だが、劇場版ではコンクリートのわずかな汚れまで執拗に描き込まれている。

 無論、それらは件のシーンをエロくみせるために施されたわけではないだろう。基本的には、ホラー演出の強化を目的としていたのではないか。劇場版では陰惨な死体や壊れた人形、錆びた扉や不穏なBGMなど、ホラー映画的な表現が積極的に使われている。奈須きのこの作品、特に月姫においてはホラー要素がかなり強い。空の境界はしばしば月姫のプロトタイプとして語られる作品だ。ホラー要素が奈須きのこの世界観を再現するために用いられるのは自然だと言える。(もしかしたら、どこかで監督のインタビューがあって、全然違うことが語られているかもしれないけども、少なくとも意図的に選択された演出であることは間違いない)

 では細かいディテールとホラーの間に、どんな関係があるのか。簡単に言えば、記号的なモノが死ぬより生きものが死ぬ方が怖い、ということだ。想像してみてほしい。漫画の中でキャラが殺されるのと、目の前で生きた人間が殺されるのと、どちらが怖いだろう? 多くの人は後者だと答えるはずだ。細かいディテールの積み重ねは、恐怖感を出すため、世界やキャラに、その場に実在するかのような感触、実在感を与える行為なのではないか。

 それは即ち、式の身体がある種の生命感を帯びていたということだ。性行為とは生殖行為であり、性と生は密接に絡み合っている。だから劇場版における、式の「感触が与えられた身体」は、同時に「性的でありうる身体」に近付いたと言える。

 けれども面倒なのは、ここで言う「性的でありうる身体」と「性欲を喚起させる図像」はイコールではない、ということだ。例えば18禁の漫画やアニメやゲームで後者に相当するものはたくさんあるだろうけど、それらが全て前者に当てはまるわけではないし、実写であれば即ち性的≒感触的であるというわけでもない。

 つまり僕が言いたいのは、ハーゲンダッツのシーンにおける「エロさ」は、単に僕のリビドーを刺激したとかそういう話ではなく、もっと奇妙なモノがそこに出現していた、ということなのだ。演出意図、作り手のフェティシズム、観客の願望、あるいはハーゲンダッツの宣伝や尺の稼ぎなんかもあったのかもしれないが、そういった溢れんばかりの欲望たちを式は一身に背負って、結果的に何やら得体の知れない「過剰さ」をまとってしまった。

 しかしその「過剰さ」は、とても奈須きのこらしいのではないか。奈須きのこの特徴としてしばしば語られるのが、独特の世界観だ。奈須作品は世界観が共通したものが多い。その世界観は過剰に創り込まれている。例えばその世界観の用語を説明した辞典を作って出してしまうくらいだ。奈須作品はしばしば、それを前提として消費される。奈須きのこの世界観を知る新しい手掛かりが、この作品には書かれているんじゃないか? という感じで。

 文体もそうだ。媒体や作品によってある程度スタイルを変えるものの、奈須きのこの文体は幻想的で衒学的だ。そもそも本人がイメージするキャラやシーン自体に過剰な意味づけがされているのだろう。その圧倒的な情報量を読者に伝えるため、奈須きのこは徹底して作り込まれた世界観や、徹底して装飾した文章を提示して見せる。少なくとも僕にとって、奈須きのこは溢れ出る「過剰さ」の人で、ハーゲンダッツのシーンは偶然ながらもそれを非常によく捉えていたと思うのだ。


 さて、天空すふぃあ版『空の境界』に、僕は不満がある。ハーゲンダッツのシーンが無いから、ではない。若干、立ち位置が半端ではないかと思うからだ。

 前提として、この漫画はよく出来ている。例えばカレンダーに刺さったナイフのような独自の工夫が見られるし、天空すふぃあの絵柄によって今までにない『空の境界』になっている、とも言えるかもしれない。

 だがそれだけでは物足りないと思う。「よく出来ている」というのはプロとしてはスタートラインだし、違う人が作れば違う感じになるのは当たり前だ。そんなレベルを越えた、もっと突きぬけたものを僕は読みたいと思っている。

 コイツ何様だ、と思われるかもしれないが、僕はそれくらい高いハードルを用意するのが、この漫画には当然だと思う。理由は第一話、この漫画の冒頭にある。

 最初のシーンでは式がページを切り裂いて登場する。一見してただカッコいいことやらせてみただけのようだが、ここには明らかな意味がある。まず一番最初の大量に重なった単語や台詞や文字列は『空の境界』を構成する文章だ。(もしかしたらここには小説・空の境界全文が入っているのかもしれない、視認できないけど)つまりこれは『空の境界』という作品そのもののメタファーだ。その下部に、斜めの黒い直線が入っている。これは式がこの文字群を切った、ということだろう。式の能力が『直死の魔眼』であることを考えれば、ここでは漫画版の式によって『空の境界』という作品が『殺されて』いる。要するに、全く新しい空の境界を作って見せる、というパフォーマンスなわけだ。

 だとすれば、もっと鮮烈で新しいものを読みたい、と願うのは当然じゃないだろうか。

 今のところ、天空すふぃあは奈須きのこ「らしさ」をなんとか再現しようと苦心しているように見える。例えば俯瞰風景は奈須きのこ「らしい」会話がかなり詰め込まれていて、漫画としては正直なところ窮屈だ。膨大な会話の合間合間になんとか漫画らしい動きを入れようと努力している様子は見られるが、物語を動かしているのは基本的に奈須きのこの文章で、漫画的な躍動は薄い。殺人考察(前)からは若干慣れてきたのか、会話のテンポに改善が見られるものの、このパートで読者の目を引いているのは、雪の中で儚げに佇む式、血や死体といった残酷描写、式の下着姿といったあたりで、それらはどちらかといえば劇場版が提示したものに近く、とりわけ新しくはない。作者独特の空気が無いわけではないのだけど、やはり立ち位置が半端だと思う。

 じゃあ、どんな空の境界が「新しい」のか? 

 僕の中では空の境界とはハーゲンダッツであり、ハーゲンダッツは奈須きのこの持つ「過剰さ」を象徴している、と述べた。つまりそれは、足し算的に様々な要素が加えられて構成されたものだ。僕の立場から新しさを提示するとすれば、その逆を行くのがいいのではないか。

 つまり、引き算的に、奈須きのこ「らしさ」を手放していくのだ。過剰な台詞、過剰な世界観、そういったものを可能な限り削ぎ落として、『空の境界』という物語の核となっている部分を抽出し、スタイリッシュに再構成する。どこまで「らしくない」空の境界を作れるか、なんて道も、中々スリリングで面白いのではないだろうか。

 その可能性が垣間見えるシーンを提示しよう。俯瞰風景・第一回、16・17ページだ。「今日もいるじゃないか」と呟きつつ式が巫条ビルを見上げるシーン。右上には月をバックに幽霊のようなものが浮いて、中央から左下にかけて見開きで蝶が描かれている。蝶は画面左上に向かって飛び立つように羽を広げている。(この蝶は後々、儚さを表現するようなギミックとして使われるのだけど、とりあえずここはこの画を単体として見てほしい)

 僕は今のところ、このシーンが漫画版で一番好きだ。はっきり言って、このシーンは空の境界「らしくない」。右上の幽霊はおどろおどろしいどころか、むしろ毅然とした態度でそこにいるように見えるし、蝶は浮遊というよりむしろ羽ばたいているように見え、その姿は美しくて力強い。ここには90年代的な退廃感とか後ろめたさみたいなものが全然なくて、むしろポジティブであるように見える。こういう「らしくなさ」が漫画全体を満たすようになったら、すごく新しい『空の境界』が創れるんじゃないだろうか。

 今後、天空すふぃあはどのようにして『空の境界』を描いていくのだろう。僕はここで一例を提示したけれども、むしろ僕が想像もしないような全く新しい『空の境界』を見せてくれたら、それが一番愉快に決まっている。そうあってほしいと思う。何はともあれ、これからも僕は天空すふぃあの描く『空の境界』を読むつもりだ。なんせ天空すふぃあには、『空の境界』を殺した責任、取ってもらわないといけないからね。

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2011.03.22

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銀

空の境界

俯瞰する作者

レビュアー:ヨシマル NoviceNovice

僕が「空の境界」に出会ったのは講談社ノベルスから上梓されて間もなくのことだった。当時から、奈須きのこの名前は有名ではあったし、『新伝綺』なる十代をくすぐる言葉で彩られた本は瞬く間に人気となった。もともと売り場の少ないノベルス売り場に長く平積みにされ、その美麗な表紙を見せつけていた。もともと奈須きのこの名前を知らない人でも「空の境界」を読んでいたし、「ファウスト」誌の存在を知らなくても『新伝綺』なる言葉を知っていた。

そんな中、僕も、かなりの期待と同程度の不安をもって本書に臨んだ。

そして見事に期待は裏切られ、不安が現実となった。

絶賛されていることが全く理解できなかった。僕にとってそれは数多ある物語の一つとして記録されるものだった。ある友人は言う「キャラクターが魅力的だ」、またある友人が言う「物語に重みがある」、それらの言葉に偽りはないのだろう。けれど、本文と同様どの言葉も僕には響いて来なかった。この会話に入れない僕の青春の一ページ、それは羞恥でも忸怩でもなく、諦念だった。

理解出来ない理由を文章のせいにしたし、心の中で作品自体を貶めようとも画策していた。それが意味のない行為であることも充分に承知もしていたし、なにより読書する自分の価値を下げるものであることもよく分かっていた。けれど、周りに対抗したいとする心は僕の中にもあったし、だから映画が公開されても見に行くこともなかった。

けれど、漫画として新たに形を変える段になって覚悟を決めることにした。自分が「空の境界」を受け入れることができないのは文章が苦手だったためなのかもしれない。漫画になれば、その要因はなくなり、物語それ自体を享受できるようになるかもしれない。そう思ってこの漫画に向かった。

だからこそ、僕はこの漫画を慎重に読んだ。初めて読むときの気持ちを大切に、バイアスをかけることなく素直な気持ちを持ちながら。僕の青春時代に輝いていた彼らの気持ちになれるように。


結果として僕の感想に変化が起きることはなかった。原作付きの漫画としては充分過ぎるほどのできだと思う。絵が上手い下手の判断はできないが、僕好みの絵柄ではあるし、作品の雰囲気ともマッチしている。それでも僕はこの物語に感動も歓喜も感傷も抱かなかった。僕にとってそれは消費される一つの物語のままだったのだ。

何故か。しかし、それは「殺人考察(前)」第一回を見て理解できた。この回の最後、誰が考えたのかは分からないが、漫画でしかできないギミックが施された。確かにそれは両手を挙げて喝采すべきものなのかもしれない。創造性に富み、まさに『最前線』な表現なのだろう。けれど、僕に見えたのはその表現方法を考えただろう誰かや、それを描いた誰かの姿だった。その瞬間から創造性は独善性に変わり、ギミックは自己満足の道具に成り下がった。

思えば最初に「空の境界」を読んだときに感じたものもこの種の印象だったのだろう。冒頭の話である「俯瞰風景」は特殊な時制で話が進む。この話を整理するためには、全体を一度上から眺めることが必要となってくる。そうすることで「俯瞰風景」の時制を理解し、それと同時にビルの上にいる幽霊の時制も理解しやすくなる。しかし、ひとたび僕が眺めようとすると、そこに作者・奈須きのこの幻影を見てしまう。僕が眺めることを許されたのは彼によって上空に上げられてしまったからだ。僕が眺めている、そんな僕を常に彼が眺めている。そんな気分にさせられてしまう。

僕は奈須きのこの幻影に捉えられながら読み進めざるを得なくなってしまっていた。それは知らず知らずのうちに、僕の気持ちを物語から引かせてしまっていたのだろう。キャラクターの行動、言動、思考、それらと向きあうことなしに、作者・奈須きのこと向きあってしまう。そして僕はそこからすぐに目を逸らしてしまったのだ。だからいくら媒体が変わろうと、僕の気持ちが変わることがなかったのだ。

だからこそ思う。作者と真摯に向き合い、目を逸らすことなくこの物語を享受している人たちが心底羨ましいと。できるならば僕もいつか正面から作者と対峙できることを望まずにはいられない。

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2011.03.22

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

『空の境界 the Garden of sinners』2/「殺人考察(前)」第一回

白と黒の中の、青と赤

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

殺人考察(前)第一回を読んだ。
雪の日の二人の出会いから始まる第二章は、式の青い帯と、ビュアーの青白い背景とが相まって、静かに開幕する。そして最後は、対照的に赤黒い鮮血。始まりの演出と背景があるからこそ、終わりの赤がよく映える。こういう演出、好きだなぁ。

この作品だけを読んでもわからないが、ビュアーの背景は作品ごとに違う。そういう細かい気配りが、演出に活きてくる。そして、紙の出版物としてはなかなかないけれど、インターネットで公開しているからこそ、一部だけカラーをつけることもできる。
独自のビュアーで公開しているからこそできること、基本モノクロのコミックだからできること、デジタルだからこそできること、様々な要素が混ざり合って、新しい『空の境界』が生まれている。
コミカライズに懐疑的だった自分も、この演出には思わず唸った。原作小説と劇場版で満足していたが、コミックでしか表現できないことがあるとしたら、きっとこういうことだろう。白黒の中に飛び散った赤い血は、それくらい印象的だった。

yagi_pon
☆☆

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2011.03.22

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners

式と愉快な仲間達

レビュアー:ヨシマル NoviceNovice

栄栄子:テクマクマヤコン♪ テクマクマヤコン♪
透谷:魔法少女になーれ♪ じゃねーよ!
栄子:パラリル♪ パラリル♪ ドリリンパ♪
透谷:だから! 魔法少女になーれ♪ じゃねーつってんだろ!
栄子:ぴぴるぴるぴるぴぴるぴ♪
透谷:魔法少女ですらねえ!!
栄子:スターライトブレって、あれ? 透谷? ヨシマルは?
透谷:あー、あいつはなんか忙しいみたいだから俺が呼ばれた。
栄子:忙しいって……。何やってるんだか。 まあ、いいんやけど。
透谷:つーわけで、さっさとレビュー始めるぞ。
栄子:やーん、透谷のせっかちぃ。
透谷:うっせえ。わざわざ来てやってるんだから感謝しろ。
栄子:もう、ひとりの方が気が楽やわあ。
透谷:俺も好きで来てるんじゃねーよ。ったく、今回は「空の境界」だろ。
栄子:そうや。「空の境界 1/『俯瞰風景』」、原作・奈須きのこ、作画・天空すふぃあ。
透谷:あらすじは知っての通りだな。
栄子:なげやりやっ! でも、特に今回はあらすじ説明しづらいんよな。
透谷:いきなり説明なく物語が進んでいくしな。
栄子:特別登場人物紹介的な箇所もないし、不親切設計ではあんねんな。まあ、そこがこの話の味でもあるんやけど。
透谷:だな。読者は取り敢えず俯瞰しとけってスタンスでいいんだろ。
栄子:…………。一応言っとくけど、全然上手(うま)ないよ。
透谷:ほっとけ!
栄子:んで、レビューなんやけど――
透谷:ああ、俺から喋っていいか?
栄子:何や?
透谷:いや、さっきも言ったんだけど、この「俯瞰風景」は「空の境界」の冒頭の話なのに登場人物紹介もないから、誰が主要人物なのか全然分からないまま、話が進んでいくんだよな。
栄子:そうやな。式が主人公っぽいってのは分かるんやけど、幹也の立ち位置がよう分からなかったりするし。
透谷:そうなんだよ。一話を読んだ限りじゃ幹也=読者目線、ていうつもりだったのに、二話の一ページ目で退場してしまうだろ。
栄子:ウイングガンダムかっ! ってツッコみたくなるよな!
透谷:ならねーよ!
栄子:それに、犯人もお前誰だよ!? って感じやしな。
透谷:そうなんだ。主要登場人物は式、幹也、橙子の三人なのは分かるんだけど、それぞれがバラバラなんだ。
栄子:三人で共通目的あるような描写は全然ないしね。
透谷:でも、それぞれがバラバラだから、物語が発散しそうかというと、全然そんなことなくて、焦点としてはちゃんと絞られてる。関係性を形作ってはないけど、なぞってはいる。なんでなのかがよく分からんけど。
栄子:あー、言いたいことは分かるわ。つまり、あれや、君ら友達いないんやろってことやな。
透谷:はあ?
栄子:さらには君ら魔法少女やんって話やな。
透谷:意味分かんねーよ!
栄子:それは君がオールドタイプだからさ。
透谷:時なんて見えなくて充分だよ!
栄子:重力に引かれた君に説明してやろう。
透谷:教えて欲しくねえ……。
栄子:式が魔法少女っていうのはオッケー?
透谷:そこは百歩譲って理解したことにしとくか。
栄子:そんなに構えんくても、特殊能力=魔法少女って理解でええのんよ。
透谷:そういうことな。
栄子:魔法は理想の具現化やからね。魔法少女は現実主義なんよ。だから友達が少ない。
透谷:友達が少ないは関係ないだろ。
栄子:それが関係大ありなのよん。
透谷:ちょくちょく気持ち悪いなその喋り方。
栄子:――おっほん。さっきも透谷が言うたけど、式にしても戦う理由が全く描かれてなんよね。「俯瞰風景」内から読み取れるのは幹也を助けたいって願望だけかな。
透谷:それで良んじゃねーか?
栄子:うん。良いんよ、それで。それが普通だし、普通の魔法少女やない?
透谷:魔法少女に大きな目的はないってことか?
栄子:もちろん全部じゃないんやけど、魔法っていう特異な能力を持ってるにも関わらず町内コミュニティくらいでの諍いで物語が終始収まるのは魔法少女だからって面はあるやん?
透谷:まあ、地球を守るような話はあんまりないのかな。
栄子:「リリカルなのは」なんかはもろ「世界」守ってるんやけどね。基本魔法少女が単体で守れるのは町内の平和くらいなもんなんよ。これは力的な意味じゃなくて、個人が認識できるのがその範囲って事なんやと思う。
透谷:「世界」守ろうと思ったら大きな組織が不可欠になるのか。
栄子:傾向がある程度やけどね。んで「空の境界」はどうか言うたら、多分主要登場人物みんな友達少なそうやろ?
透谷:まあ、多そうには思えないな。
栄子:そこまで深く意図したことやないだろうけど、結果としてそうなってる。だから彼女達は無関係な人達のためには戦わなくていいんや。
透谷:コミュニティが小さいってことか?
栄子:そうやな。町内って言うたけど、舞台設定から町内コミュニティはなさそうってのは伝わるやん。
透谷:都会的な街だからな。
栄子:さらに友達コミュニティまで小さければ、彼女達の「世界」はかなり狭まってるんよ。
透谷:「世界」が小さいから、守るものも少なくて済むってことだな。
栄子:物語が発散しないのもそのせいやな。自分らの世界を守りたいってのが魔法少女が戦う理由なんやから、自分に見合った「世界」を構築しとかなきゃ達成できひんのよ。彼女達はできる範囲でできることをやってる。「俯瞰風景」じゃ、それが幹也を守ることやったんや。
透谷:さっきから彼女達って言ってるけど、魔法少女は式じゃないのか?
栄子:あれ? 言うてなかったっけ? イメージとしては式、幹也、橙子の三人でひとつの魔法少女なんよ。
透谷:あ?
栄子:うーん、魔法少女にはマスコットと、導いてくれる系キャラが必須やん? もともと『魔法少女モノ』ではないわけやから当然なんやけど、役割分けは明確にはできひんよ。でも、近い役割は幹也、橙子それぞれが引き受けてはいんねんな。でも境界が曖昧で――
透谷:あーなんとなく言いたいことは分かった。要はソーシャルネットワーク的な関係だって言いたいんだろ。
栄子:どゆこと?
透谷:ソーシャルネットワークの魔法少女クラスタだったってことだな。確立された目的別に集まったわけでもなく、もっと緩やかなコミュニティ。
栄子:組織として集まってるわけやなくて、なんとなしに集まってるって感じ?
透谷:ああ。集まることが目的みたいなもんだな。集まってから目的は自然発生的に生まれる。魔法少女クラスタでいうなら「世界」の安全ってことになるな。
栄子:あたしが言いたかったことはそれや! 緩やかなコミュニティ。
透谷:この場合だと人数が増えたところで守るべき対象は少なく抑えられるし。
栄子:全員友達いないからな!
透谷:簡単に言うとそういうことだな。橙子は魔法使いでありそうな描写はあるけど、今回はあんまり実働してない。幹也も読者視点でありながらすぐ退場、式は主役っぽい活躍をしてるけど終始気怠そうにしてる。
栄子:式は幹也とイチャイチャすることしか考えてなさそうやな!
透谷:それ真実だな。見ててイラっとする。
栄子:あたしが相手してあげよっか?
透谷:黙れ! そして消えろ!
栄子:やーん、透谷ひどい。傷つくやんかあ。
透谷:真面目に消えろ。まったく。結局無目的なコミュニティである三人は何かを達成するためには動かないんだろうな。物語が動くためには誰かに積極的な行動を起こさせる外的要因が必要で、その外的要因が何なのか、どうして外的要因成り得たのかっていうのがこれからの本題になっていくんだろ。
栄子:そういうことやな。っていうか、今回あたしの仕切り回のはずだったのに、なんで透谷が締めてるのさ?
透谷:栄子が適当なこと言ってたからだろ。俺が代わりにまとめてやったんだから感謝しろよ。
栄子:なにおー! あたしがやっても上手く行っとるわー! 
透谷:どうだか?
栄子:なんやとお! もう怒った! リリカル~トカレフ~
透谷:おまっまさか!?
栄子:プリンセス脇固め!
透谷:ぐはっ!
栄子:プリンセスチョークスリーパー!
透谷:ギブギブ!
栄子:プリンセス腕ひしぎ逆十字!
透谷:…………。
栄子:――勝った。正義は勝つ!
透谷:誰が正義じゃ!!

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2011.03.22

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners

静と動、それと光

レビュアー:生(なま)

同人小説というスタートから全七章劇場アニメ映画化まで至り”新伝綺”というジャンルを確立した『空の境界』。そのコミカライズ作品。
小説『空の境界』、私にとってそれはサブカルの世界に引き擦り込まれるきっかけとなった作品。そして書店で文庫版と出会って以来、漫画化を待望していた作品でもある。
期してそれは現実に!星海社のWebサイト最前線で漫画版『空の境界 the Garden of sinners』は公開される!Twitterでリンクを見つけたときの感動はいまでも覚えている。

そして漫画版『空の境界 the Garden of sinners』は私が(勝手に)高々と設置したそのハードルを見事に越えて見せた。
コクトーと式の微妙な距離感や、迷路を歩くような登場人物たちの会話の”静”、ビル間を飛び交う姿、衝撃の伝わる”動”。私が小説版を初めて読んだときのあのイメージが絵画となってそこにあった。
それだけではない、漫画版『空の境界 the Garden of sinners』は漫画作品でありながらその中に「光の演出」があったのだ。日常の暖かさや、暗い部屋の冷たさ、ナイフの鋭さ、それらが光で表現されより臨場感のあふれる演出が成されていた。特に2/『殺人考察(前)』第一回の赤色の描写は生々しさと艶やかさを同時に作り出していて思わずゾクリとしてしまった。

作品としてこれほどの完成度のある漫画版『空の境界 the Garden of sinners』ではあるが私は1つだけこの作品に求めたいものがある。
それは”オリジナリティ”である。
”オリジナリティ”といってもストーリー展開を変えたりとかオリジナルストーリーを加えたりとかそういったものではなく、”漫画版『空の境界 the Garden of sinners』”としての新しいスタイルを見たいということだ。
漫画版『空の境界 the Garden of sinners』を見ていると割りと頻繁に”劇場版『空の境界』”と被ったカットが出てくる。一度アニメ作品として視覚化されてしまった以上、仕方ないのかもしれない。しかし私は、天空すふぃあ先生の描く”漫画版『空の境界 the Garden of sinners』”を読んで、見てみたい。と、思うのだ。
私の期待を飛び越えた漫画版『空の境界 the Garden of sinners』だからこそ今後の展開と発展に期待していきたい。

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2011.03.01

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

銅

空の境界 the Garden of sinners

コミカライズの「守・破・離」

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

「最前線」というサイトで「空の境界」がマンガ化するって言うからさ、どうせJの仕業だろうと呆れつつ感謝しつつ覗いてみたんだ。
作品紹介によると「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」らしい。
でもむしろ、僕達はどう足掻いたって「描破・創造する」事しかできないんじゃないだろうか。それが商業作であれ二次創作であれね。

小学六年生で「空の境界」に出会った時、僕は一体何に惹かれたんだろうなって考えてみたんだ。
ぶっちゃけた話、購入の動機は武内崇の表紙絵が気に入ったから。
だって当時は児童書ミステリしか読んでないのにさ、「新伝奇ムーブメント」って言われても言葉の意味が分かんないし。むしろ全国一億三千万の国民人口からすれば、理解出来たらマイノリティなんじゃないかな。
だから作品のあらすじを読んでもいまいちどんな話かは分からなくて。だってもし友達が「直死の魔眼」とか言い出したら、厨二病かと疑いたくなるに決まってる。いや、あの頃はまだ厨二病なんて単語は無かったんだっけ。
でも作品のジャンルも予想できないくせにレジまで持って行かされた僕は、やっぱり着物とジャケットを同時に着こなして、粋にナイフを構えた式の姿に萌えてしまったんだと思う。
それ故僕にとって、武内崇のイラストは「空の境界」と切っても切り離せなくなった。だから最前線でのコミカライズ版を読む上で、僕の中にあるイメージが壊れてしまったりしないかと不安だったんだ。それに武内崇の絵が「空の境界」における看板役であると考えているのは、決して僕だけじゃ無い筈。
映画化でも作画に多少の違いは出てしまうけれど、やはりある程度の画風は踏襲されるからね。一方で漫画だと、どうしても漫画家の個性が色濃くなってしまう。今までも好きなアニメが漫画化されて、裏切られた事がどれだけあったろうか。遠い目もしたくなるよね。
その上、武内崇の絵は凄い独特だから尚更困っちゃう。「パンドラ」でのインタビューでも、Jが「武内さんは絵がうまくない」「でも、ものすごくいい絵だ」と評したエピソードが載ってるぐらいだしね。奈須きのこが創る世界観に合うイラストなんて、他に描ける人がいるのかって思ったし、実際いないんだろう。
だからこそ、天空すふぃあはその世界を「描破・創造する」ことしかできないんだ。最前線のスタッフもそれが分かっていたから、こんなキャッチフレーズを考えたんじゃないかな。

ただ別に天空すふぃあのコミカライズが、原作の世界観を壊してしまうだとか、全くの別物や亜種になるだなんて思いはしない。
僕は昔空手をやってたんだけど、そこには「守・破・離」って物の考え方があった。天空すふぃあがこの最前線で実行しようとしているのは、将にこの「守・破・離」と近いものに感じるんだ。
まずは「守」
師の流儀を習い、それを型通りに行い守って修行に励むことだ。
TYPE-MOONコンビの世界観に沿う事で、原作のイメージを破壊しない事が求められる。
次に「破」
師の流儀のみに留まれば型に嵌ってしまう。それを避けるために型を破り、他流派も学ばなくてはならない。
先にも述べた通り、ただ彼らの世界観をなぞるだけでは、紛い物にしかなり得ないし、新たな高みに達する事など出来やしない。自分なりの味を付け加える必要がある。
最後に「離」
研鑽の末に得た独自の体系を完成させ、新たな一流を生み出す。
コミカライズ版「空の境界」として、原作ファンと新規ファンのどちらからも愛され、それでいて漫画ならではの世界観が、精巧かつ原作と矛盾なく構築される。これこそが、目指されるべき到達点ではないかな。

「守・破・離」ってのは武道や華道なんかで使われる言葉だけれど、それらに限らずどんな事をする上でも辿られうる手順だと思う。「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」のなんて、もろに「守・破・離」そのものだ。天空すふぃあにならそれが出来るに違いない。
第一場で掲載されたHumanity氏のレビューでも「緻密に計算されたオリジナル要素とキャラの魅力を最大限に引き出す筆致」と評価されている。原作の魅力を十分に引き出しつつ、ただ忠実に再現するだけに留まらない。
これぞ漫画界における「新伝奇ムーブメント」!
で、結局この言葉はどういう意味なんだろうか。我が家の広辞苑に載ってないんだけど。

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2011.03.01

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

鉄

空の境界 the Garden of sinners

時差式コミカライズ

レビュアー:ラム AdeptAdept

小説がコミカライズする場合、アニメ化と同時期になることが多い。
しかし「空の境界」はまず、コミックをすっ飛ばして先に全7章+αのアニメ映画化して有名になった。
それでも、わざわざ映画館にまで足を運んだのは、ほとんどが原作ファンだろう。

ではコミックはどうか? 原作ファンはもちろん、小説に苦手意識のある人でもコミックなら読みやすいに違いない。
新伝綺と銘打たれたこの作品は、作者である奈須きのこさんの独特な文章表現や世界観はもちろん、いつも和服で過ごしている両儀式と黒で統一された黒桐幹也ほか、つまりキャラクター小説としても魅力的である。
視覚的に愛でるのに何の問題があろうか。


とっても主観で言えば式の背中が予想外にエロかった。


それだけで読む価値はあるとちょっと思う。
Web環境があれば、誰でも読める、映画館で見た式と幹也を思い起こさせる空気感。
2章にはWebコミックならではのギミックもあるが、その空気感の再現力にきっと映画も気になりだすだろう。
これぞメディアミックス。
さぁて、ブルーレイで全章鑑賞しようか、原点回帰でまた小説を読もうか?

最初に「空の境界」が世に出たのは1998年。
2011年現在もたくさんの人が関わって新しいものが作られる、それだけ愛されている「空の境界」を、あなたも好きになってみませんか?

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2011.03.01

「空の境界 the Garden of sinners」のレビュー

鉄

コミック版空の境界「俯瞰風景」

コミカライズで見たかったもの

レビュアー:Humanity

本作は劇場版七部作という前代未聞の形式でアニメ化されたことも記憶に新しい、奈須きのこ先生の小説「空の境界」のコミカライズです。

そんな「空の境界」のコミカライズが天空すふぃあ先生の手によってスタートしたわけですが、その始まりが「読者をふるいにかけるつもりで書いた」と奈須さんが言われる第一章の「俯瞰風景」。
原作では物語全体の時系列が組み替えられ、かつ「俯瞰風景」では章中の時系列すら組み替えられているという、一読しただけでは中々把握しにくい内容になっています。

のっけからハードルの高い第一章ですが、例えば劇場版アニメの「俯瞰風景」では、分かりやすいようにするためか時系列が整えて描写されていました。
そんな前置きがあったために、コミック版ではどういう手で来るのか、と個人的に楽しみにしていたのですが、結果は原作通りの真っ向勝負。
しかも「カレンダーに刺さったナイフとその跡」というオリジナルのギミックが仕込まれ、時系列の組み換えがスムーズに理解できるように配慮もされていました。

作品をコミックで表現するならばコミックならではの物がないと意味がない。
アニメの映像をそのままコミック化するなら程度の差こそあれ誰でもできる。

そんな風考えていましたが、この第一話を見てこの作品の媒体がコミックである必然性、描き手が天空すふぃあさんである必然性をはっきりと感じることができました。

と、つらつら書いてみましたけれども、どんな理屈も一撃で粉にしてしまう魅力がこの作品にはあります。
そう、女の子がかわいいんです!

第三回にて、ベッドの上で黒桐を想う霧絵に「あれ?霧絵ってこんなにかわいかったっけ?」と思ったのは私だけではないはず!
他にも女性の体の曲線のたおやかさであったり、式の表情であったり、枚挙に暇が無いのですが、これこそ漫画の持つ圧倒的なパワーであり、天空すふぃあ先生の真骨頂のひとつではないでしょうか?

緻密に計算されたオリジナル要素とキャラの魅力を最大限に引き出す筆致。
「最前線」で引き続き、漫画でしかできない、そして天空すふぃあ先生でしか描けない「空の境界」が読めることを楽しみにしております。

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2011.02.10


本文はここまでです。