空の境界
研ぎ澄まされる王道
レビュアー:大和
奈須きのこは極めて独特な魅力を持ったクリエイターだ。癖のある文体や台詞回し、衒学的な表現、過剰に作りこまれた世界観。どれも奈須きのこを一流のクリエイターに押し上げるため役立った要素だが、しかしあまりに特徴的すぎるせいか、人を選んでしまったり、彼の事を嫌う人も少なくない。中には(奈須きのこが圧倒的な評価を得ているクリエイターであるにも関わらず)ファンのことを信者と揶揄する人もいるほどである。
しかし奈須きのこ、あるいは彼が所属するTYPE―MOONの打ち出すコンテンツが、一見して非常に限られた人々だけをターゲットにしているように見える、という側面も全く無いとは言えない。例えば劇場版・空の境界は当初、単館のレイトショーのみで公開されていた。個人的には面白い試みだと思うが、しかし元からファンである人々以外が足を運びにくい形にも見えるかもしれない。
だが漫画版・空の境界は、そんなしがらみを吹き飛ばすかのような素晴らしい作品だ。物語が進むに従って漫画版は自身の特徴をより鋭く洗練させ、それによって作品のクオリティを高めると同時に、誰もが楽しめるようなエンタテインメントを提示しようとする。では漫画版の特徴とは何か? それを語るには、まず『空の境界』が歩んできた道のりについて触れる必要があるだろう。
作者・奈須きのこは2000年に『月姫』を発表してその名を轟かせ、2004年の『Fate/stay night』によってその地位を不動のものにする。2000年代は王道の物語が多く作られ、受け入れられていった時代であり、『月姫』と『Fate/stay night』はその先駆けであり代表例ともいうべき作品だと僕は思う。だが奈須きのこがそれらを迷い無く王道の物語として描くことができたのは、1998年に発表された『空の境界』の経験があったからこそだろう。とりわけ『月姫』と『空の境界』の関係は深い。設定やモチーフにも共通する部分が多く、『空の境界』はほとんど『月姫』のプロトタイプだと言っていい。
しかし『空の境界』と『月姫』が大きく違うのは、『月姫』が非常に王道的な物語であるのに対して、『空の境界』はむしろ実験的な要素が強く押し出された形になっていることだ。例えば全7章で構成された物語は時系列が複雑に入れ替えられているし、更に第1章・俯瞰風景の中でも時系列が錯綜するような構成を取っている。(作者自身、「読者をふるいにかけるつもりで作った」と語っている)つまり98年の時点では、奈須きのこは物語を王道的に語ろうとはしていなかったのだ。
やがて『空の境界』は2004年の講談社ノベルス化を経て、2007年に劇場版アニメが封切りされる。ここで面白いのは、劇場版・俯瞰風景が作られるにあたって、錯綜していた時系列が本来の順番に組み替えられていることだ。つまりここでは原作が持っていた複雑さが鳴りを潜め、むしろ王道の物語――とりわけ幹也と式のラブストーリーを中心として再構成されている。
しかし劇場版が本来目指していたものは「再構成」という言葉から連想されるような「変化」ではなく、むしろ原作の忠実な再現に近いものだ。劇場版・俯瞰風景を見ても、丁寧に拾われる音や緻密に描き込まれた背景が幾重にも積み重ねられることによって、奈須きのこが持つ独特の世界観や空気感を観客の前に立ち上がらせようとしている。つまりここでは劇場版が『空の境界』を変化させたというより、『空の境界』を再現しつつ、元々もっていた王道としての魅力がプッシュされたと捉えるべきだろう。つまり王道的な語り口でこそなかったものの、原作の時点で、王道に耐えうるような物語の強靭さは既に萌芽していたのだ。
そして漫画版だ。2010年よりWebサイト『最前線』上で連載されているこの作品は、原作と劇場版の内容を踏まえ、それでいてどちらとも違う新たな『空の境界』を創り出そうとする。例えば伽藍の堂の描写における違いが象徴的だろう。劇場版において伽藍の堂は極めて雑然としており、テレビや書類や小物が所狭しと積み上げられている。対して漫画版では、伽藍の堂はむしろ無駄が極力省かれ、最小限の物しか置かれていない。
これは背景の手抜きなどではなく、『空の境界』という物語を洗練させようとした結果だろう。このシーンだけでなく、漫画版は全体的に背景の書き込みがやや淡泊だ。だがそれに対してキャラクターの描き込みには目を見張るものがある。細やかな表情の変化、髪の毛のツヤ、服の皺の一つ一つに至るまで、相当なこだわりを持って描かれている。天空すふぃあという漫画家の武器は、このキャラクター描写に対する徹底したこだわりにあると僕は思う。
では背景の描き込みが後退し、キャラクター描写に重きが置かれることによって何が起こっているのか。結果から言えば、ここで起こっているのは「奈須きのこらしさ」の後退であり、『空の境界』が持っていた「物語そのものの魅力」の洗練・前面化だと僕は思う。
それは第2章「殺人考察(前)」第三回において顕著に表れている。ここでは幹也が式の中にあるもう一つの人格・織と出会うエピソードが語られるのだけど、このシーンは原作・劇場版・漫画版でそれぞれ違う表現が行われている。基本的には「普段仏頂面で素っ気ない態度を取っていた式が、織の人格が出てくることで突然気さくになり、幹也が戸惑いを覚える」という流れで一致している。だが原作では式という人物のミステリアスさが中心であるのに対し、劇場版では楽しげにはしゃぎ回る式が描かれることで、式というキャラクターの魅力とその後の(急落する)展開の布石に重きが置かれている。つまり前者はミステリー要素を中心としており、後者は幹也と式の関係性を中心としていると言える。
漫画版もまた劇場版に近い表現ではあるが、二人のデートを客観的に眺める形だった劇場版に対し、漫画版は更に一歩踏み込んだ表現となっている。7Pや9Pにおける式の笑顔を見てみよう。ここでは背景に花が舞っていたり淡い光のようなものが加えられることによって、式の笑顔がどこか「眩しい」ものであることが表現されている。これは幹也の主観から見た式の笑顔であることが暗に示されているのだろう。つまりここにある「眩しさ」は、式の魅力を強化すると同時に、幹也の式に対する感情を描写してしまっているのだ。ここにおいて漫画版は、劇場版よりも明確にキャラクターに重点を――とりわけ幹也と式の関係性を先鋭化しようとしていることを明らかにしている。
僕が素晴らしいと思うのは、こうしてキャラクター描写が重視され、世界観や空気感のような「奈須きのこらしさ」が後退してしまっても尚、『空の境界』は魅力的な王道の物語として、霞むことなく輝き続けているということだ。つまりここでは「奈須きのこらしさ」が削ぎ落とされることによって、むしろ奈須きのこという作家が世界観や空気感だけでなく、強靭な物語をベースに戦う優れた作家であることが高らかに宣言されているのである。
それは奈須きのこというクリエイターの、そして『空の境界』という作品の射程が、「信者」と揶揄されるような限られたファンを大きく超えている、ということのこの上ない証左であるように思う。結果として漫画版・空の境界は、原作や奈須きのこというクリエイターを知らない人でも楽しめるものに仕上がっているし、原作を知る人もまた感慨深く読むことができるだろう。かつて複雑な実験性を身にまとい、「読者をふるいにかけるつもりで作った」とまで語られた『空の境界』は、極めて王道な物語として洗練され、「最前線」という誰もが気軽に読めるWebサイトに掲載され、誰もが楽しめるエンタテインメントとして、僕らに笑顔を振りまいている。
しかし奈須きのこ、あるいは彼が所属するTYPE―MOONの打ち出すコンテンツが、一見して非常に限られた人々だけをターゲットにしているように見える、という側面も全く無いとは言えない。例えば劇場版・空の境界は当初、単館のレイトショーのみで公開されていた。個人的には面白い試みだと思うが、しかし元からファンである人々以外が足を運びにくい形にも見えるかもしれない。
だが漫画版・空の境界は、そんなしがらみを吹き飛ばすかのような素晴らしい作品だ。物語が進むに従って漫画版は自身の特徴をより鋭く洗練させ、それによって作品のクオリティを高めると同時に、誰もが楽しめるようなエンタテインメントを提示しようとする。では漫画版の特徴とは何か? それを語るには、まず『空の境界』が歩んできた道のりについて触れる必要があるだろう。
作者・奈須きのこは2000年に『月姫』を発表してその名を轟かせ、2004年の『Fate/stay night』によってその地位を不動のものにする。2000年代は王道の物語が多く作られ、受け入れられていった時代であり、『月姫』と『Fate/stay night』はその先駆けであり代表例ともいうべき作品だと僕は思う。だが奈須きのこがそれらを迷い無く王道の物語として描くことができたのは、1998年に発表された『空の境界』の経験があったからこそだろう。とりわけ『月姫』と『空の境界』の関係は深い。設定やモチーフにも共通する部分が多く、『空の境界』はほとんど『月姫』のプロトタイプだと言っていい。
しかし『空の境界』と『月姫』が大きく違うのは、『月姫』が非常に王道的な物語であるのに対して、『空の境界』はむしろ実験的な要素が強く押し出された形になっていることだ。例えば全7章で構成された物語は時系列が複雑に入れ替えられているし、更に第1章・俯瞰風景の中でも時系列が錯綜するような構成を取っている。(作者自身、「読者をふるいにかけるつもりで作った」と語っている)つまり98年の時点では、奈須きのこは物語を王道的に語ろうとはしていなかったのだ。
やがて『空の境界』は2004年の講談社ノベルス化を経て、2007年に劇場版アニメが封切りされる。ここで面白いのは、劇場版・俯瞰風景が作られるにあたって、錯綜していた時系列が本来の順番に組み替えられていることだ。つまりここでは原作が持っていた複雑さが鳴りを潜め、むしろ王道の物語――とりわけ幹也と式のラブストーリーを中心として再構成されている。
しかし劇場版が本来目指していたものは「再構成」という言葉から連想されるような「変化」ではなく、むしろ原作の忠実な再現に近いものだ。劇場版・俯瞰風景を見ても、丁寧に拾われる音や緻密に描き込まれた背景が幾重にも積み重ねられることによって、奈須きのこが持つ独特の世界観や空気感を観客の前に立ち上がらせようとしている。つまりここでは劇場版が『空の境界』を変化させたというより、『空の境界』を再現しつつ、元々もっていた王道としての魅力がプッシュされたと捉えるべきだろう。つまり王道的な語り口でこそなかったものの、原作の時点で、王道に耐えうるような物語の強靭さは既に萌芽していたのだ。
そして漫画版だ。2010年よりWebサイト『最前線』上で連載されているこの作品は、原作と劇場版の内容を踏まえ、それでいてどちらとも違う新たな『空の境界』を創り出そうとする。例えば伽藍の堂の描写における違いが象徴的だろう。劇場版において伽藍の堂は極めて雑然としており、テレビや書類や小物が所狭しと積み上げられている。対して漫画版では、伽藍の堂はむしろ無駄が極力省かれ、最小限の物しか置かれていない。
これは背景の手抜きなどではなく、『空の境界』という物語を洗練させようとした結果だろう。このシーンだけでなく、漫画版は全体的に背景の書き込みがやや淡泊だ。だがそれに対してキャラクターの描き込みには目を見張るものがある。細やかな表情の変化、髪の毛のツヤ、服の皺の一つ一つに至るまで、相当なこだわりを持って描かれている。天空すふぃあという漫画家の武器は、このキャラクター描写に対する徹底したこだわりにあると僕は思う。
では背景の描き込みが後退し、キャラクター描写に重きが置かれることによって何が起こっているのか。結果から言えば、ここで起こっているのは「奈須きのこらしさ」の後退であり、『空の境界』が持っていた「物語そのものの魅力」の洗練・前面化だと僕は思う。
それは第2章「殺人考察(前)」第三回において顕著に表れている。ここでは幹也が式の中にあるもう一つの人格・織と出会うエピソードが語られるのだけど、このシーンは原作・劇場版・漫画版でそれぞれ違う表現が行われている。基本的には「普段仏頂面で素っ気ない態度を取っていた式が、織の人格が出てくることで突然気さくになり、幹也が戸惑いを覚える」という流れで一致している。だが原作では式という人物のミステリアスさが中心であるのに対し、劇場版では楽しげにはしゃぎ回る式が描かれることで、式というキャラクターの魅力とその後の(急落する)展開の布石に重きが置かれている。つまり前者はミステリー要素を中心としており、後者は幹也と式の関係性を中心としていると言える。
漫画版もまた劇場版に近い表現ではあるが、二人のデートを客観的に眺める形だった劇場版に対し、漫画版は更に一歩踏み込んだ表現となっている。7Pや9Pにおける式の笑顔を見てみよう。ここでは背景に花が舞っていたり淡い光のようなものが加えられることによって、式の笑顔がどこか「眩しい」ものであることが表現されている。これは幹也の主観から見た式の笑顔であることが暗に示されているのだろう。つまりここにある「眩しさ」は、式の魅力を強化すると同時に、幹也の式に対する感情を描写してしまっているのだ。ここにおいて漫画版は、劇場版よりも明確にキャラクターに重点を――とりわけ幹也と式の関係性を先鋭化しようとしていることを明らかにしている。
僕が素晴らしいと思うのは、こうしてキャラクター描写が重視され、世界観や空気感のような「奈須きのこらしさ」が後退してしまっても尚、『空の境界』は魅力的な王道の物語として、霞むことなく輝き続けているということだ。つまりここでは「奈須きのこらしさ」が削ぎ落とされることによって、むしろ奈須きのこという作家が世界観や空気感だけでなく、強靭な物語をベースに戦う優れた作家であることが高らかに宣言されているのである。
それは奈須きのこというクリエイターの、そして『空の境界』という作品の射程が、「信者」と揶揄されるような限られたファンを大きく超えている、ということのこの上ない証左であるように思う。結果として漫画版・空の境界は、原作や奈須きのこというクリエイターを知らない人でも楽しめるものに仕上がっているし、原作を知る人もまた感慨深く読むことができるだろう。かつて複雑な実験性を身にまとい、「読者をふるいにかけるつもりで作った」とまで語られた『空の境界』は、極めて王道な物語として洗練され、「最前線」という誰もが気軽に読めるWebサイトに掲載され、誰もが楽しめるエンタテインメントとして、僕らに笑顔を振りまいている。