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「星海社」のレビュー

銅

星海社

何処へ行こうというのか

レビュアー:ジョッキ生 KnightKnight

 星海社。
 それは出版社である。しかし、やっていることは、一般的な出版社像とはかけ離れたものである。

 声優の坂本真綾さんを起用した朗読会。
 自社出版物の無料ネット公開。
 副社長自らニコ生に出演。
 新人賞応募作への座談会掲載、等々。

 挙げればキリが無いほど、不可解な活動をしている。
 
 さて、この出版社の目的は何なのか?
 推測するに、閉塞感からの脱却を目指しているのだろう。
 この国は村社会である。右向けば右、一体感と言う名の集団的束縛が顕著に見られる。それはある意味では有用で、今ある利益を守り続けるには都合がいい。
 しかし、時代の転換期、それは足枷となる。みんな一緒では身動きが取れなくなるのだ。
 つまり、この会社の行動それ即ち、出版界の衰退を発端としているのではないだろうか。
 であるならば、奇抜に見える活動もただ目立つためのパフォーマンスではなく、ある種試行錯誤の産物と考えられる。
 パイオニアと呼ばれるいくつかは誕生は、奇跡による。精子が卵子に受精するように、多くの犠牲の果て、たった一つが辿り着くそんな奇跡。
 この出版社はその一端を担っているのかもしれない。

 とはいえ全ては推測の域を出ず、これがただの妄言である可能性も多分に孕んでいるので、真意に関しては個人個人が判断して欲しい。
 でも、一つだけ言えることは、僕個人この出版社を応援しているし、そのために出版物も多々購入しいる。
 何が言いたいかというと、応援する意志が少しでもあるなら、そこにお金を落として欲しいということだ。
 あれ?急に出資金詐欺みたいな流れになってきたけど大丈夫かな?
 でも、これは本当。楽しんだならその分何かを還元してあげないと、そのコンテンツはいつか死ぬ。ゲーム業界が割れに苦しんでいるのも同じ状況だと思う。
 
 これは一出版社の話だが、全てに通じることだ。みんなでハッピーになろうじゃないか!そんな僕の願いは世界平和です。

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2013.06.11

「星海社」のレビュー

銅

星海社

星海社という出版社についての個人的見解

レビュアー:ひかけ NoviceNovice

はっきり言って星海社の認知度は「まだ」低いほうであるということは認める必要がある。
だがそれは時間と作品が解決してくれるだろう。ひとつはFate/Zeroという作品の恩恵によるものがある。
この作品で星海社の認知度は一気に飛躍した。なぜなら現段階でFate/Zeroのアニメが始動しているからだ。
アニメの高いクオリティ、胸躍る展開、どれも目が離せない。こうなったらやっぱり「原作」というものを知りたくなる。
アニメがこんなにおもしろいのだから文章としても愉しみたいという風に。そしてFate/Zeroの購買欲に駆られた人は皆書店へ買いに走る。

……うん。何が言いたいのかというとですね…星海社の掌の上で踊らされてる感がすごいです。
たしか私の記憶が確かであればFate/Zero文庫版って今年入ってから発売されましたよね。そしてそこからのアニメ始動。
経済効果がすごく出そうな経営戦略としか言い様がない。それが気に食わないというのではない。むしろすごいと思っている。
何がすごいのか。私レベルの人でも気づくこんなことを平然とやってのけることがすごいのだ。

新興出版社の強みとも言うべきか。保守的にならず「攻めの姿勢」というものを持つことができるのが強みだと私は思う。
星海社はいろんなことをやってきたし、やっている。座談会開いたり、作品をネット上で掲示したり、レビュアー騎士団なるものを作ったり、朗読館やったり。
はっきり言って何がしたいんだレベルに様々なことをやっている。試験的にやっているのかもしれないが。
でもそれにしたってまず「知ってもらう」ことが大切であることは言うまでもない。
「こんな新しいことしてるんですよ!」じゃ少しインパクトが弱い。だからFate/Zeroを、いや、ひぐらしのなく頃になども用いて「知ってもらう」ことをした、のだと思う。
それが私たちを掌の上で踊らせるような結果になっても。そしてその最たる結果がFate/Zeroのアニメ化の効果というわけだ。
功利主義的な思惑がひしめき合っている気はするがそれが人間だ。売れなきゃ潰れる。しかも新興企業ならなおさらだ。
その必死さにむしろ私は好感を覚えた。なんだか人間らしさを感じて。

ここまでが星海社という出版社についての推察と感想である。変化をしながらこの出版社は成長するだろう。
さまざまな要素を取り入れながら突き進むのだから。それは人材であったり太田氏の言う「天才」であったりするのだが。
「何が飛び出すか誰にもわからない」と銘売っている最前線の言葉を見ると感じる。星海社側も全く予想ができないのではないかと。
変化できるということはまだ星海社に合った”型”が見つかっていないということだから。パンを作るときの1次発酵や2次発酵のように
今は膨張しているだけなのだ。それがクロワッサンになるかメロンパンになるか食パンになるかわからない。”型”が見つかっていないというのは
そういうことだ。いかようにも変化できる。ただ発酵させたままでいられるのかはわからないが。

今はまだ「新興出版社」で通じるが、時が経てばそのような存在から脱却し、「新興」という文字は排斥されるだろう。
そのとき、まだ「最前線」にいることができるのだろうか。俯瞰視点を持ち「遠さ」という読者との距離を得てしまうのか。
それともこのまま前が見えない最前線を切り開いていくのか。もうすぐで星海社は何か重要な選択を迫られるだろう。そんなときに間違えない判断ができるだろうか。
私は不安で不安で――たまらない。

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2011.12.20

「星海社」のレビュー

銅

星海社

フロンティア

レビュアー:縷々

最前線なるサイトがあり、星海社という会社が存在することを知るきっかけとなったのは、とある作家のツイッター上の発言だった。

リンクが貼られていれば、現代人のたしなみとして骨髄反射でクリックする。写真はおそらくこけら落としのパーティーでの一枚だったのだと思う。
特に好みのタイプだったわけではないのだが、気になったのでGoogle先生に社名を調べていただき、すっからかんのホームぺージに辿り着いた。
いわゆるライトノベルの熱心な読者ではない私には、太田克史なる人物がメフィストという文芸誌を編集しており、その後ファウストという文芸誌を創刊したこと、その雑誌の分厚いが故の読みにくさ、ジャンル構成の奇妙に溌剌とした印象、また本文に使われた紙がたいへん私の好みであったことなど、断片的な記憶しか残っていない。祖母の家に泊まる際、暇つぶしとして買い求めたファウストがどうなってしまったのかについては、いまの私には全く興味の無いことだ。

現在、出版界のみならず、我々を取り巻く環境、エンターテインメントについては、日々消費の加速が続いている。
刺激に慣れた我々は恋愛を忘れ、巨大な情報の海の中でシナプスとなることを選んだ。かの梅棹忠夫が外胚葉産業と呼んだ時代の最中に、今の我々は確実に存在している。
黎明、日足、それではこの後に訪れるのは黄昏だろうか。悪食となった我々は互いに身を食い合い、海辺に屍を並べるのが似合いだろうか。
答えは未だ出ない。

だが、我々人類は何者かが物語を語るようになった瞬間から、起こりうる悲劇と同等以上の英雄譚を好んできた。
この混沌とした澱のような世界に、彗星のような何者かが現れても良いのではないか。かつて我々の祖先が軽々しく、且つとんでもない願い事をした星が、ネメシスの重力を受け、さらにとんでもない夢を乗せて遠い旅から帰ってきてもいいのではないか。
私はそう思う。

星海社の事業理念には、あなたの「人生のカーブを切らせる」と書かれている。
騙されてはいけない、カーブを切った先にこそ、危険な崖が待っているかもしれない。そしてあなたも名もなきひとつの星になるのかもしれない。だが危険を恐れぬ者にこそ、フロンティアの開拓者となる資格がある。

挑戦したい者は新人賞だけでなく、ツイッターのダイレクトメールや星海社のお問い合わせあてに攻撃をするといい。無論、電話も歓迎する筈だ。某社のように賞だけが未開の地への渡航窓口であるとは、彼らは一言も言っていない。また、誂えられた入口から入って来る者だけを待つような気風でもないだろう。

既に書き尽くされた物語が星のように空を埋め尽くす世紀である。そんな星の海を呑み込み、多次元世界にまで希望を与えるような巨大な彗星の飛来を、我々はいま、地平の最前線に予感している。

参考文献:情報の文明学(37p『情報産業論』) 著:梅棹忠夫 中公文庫

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2011.08.17

「星海社」のレビュー

鉄

星海社

虫けらの救難信号

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

レビュアー騎士団の常連たちのtwitterを見ていると、あるいは#sai_zen_senのタグのツイートを見ていると、ふと感じることがある。
「ここにいる人達は太田克史が講談社でファウストを作っていた時から、太田克史の作品を楽しんでいた人たちなんだ」
恥ずかしながら、私は星海社が出来てから太田克史の存在を認識した。メフィスト賞や講談社BOXは知ってはいたけれど、特に興味を示さずに過ごしてきてしまった。それは勿体ないことだったのかもしれない。
そこで己の世界の狭さを知った私は、西尾維新の『クビキリサイクル』(ちなみに『化物語』だけは読んだことがある)舞城王太郎の『煙か土か食い物』を読んでみた。なんておもしろいんだ。刺激的で飽きさせず、最後に大きなどんでん返しが待っている。まるで(非道徳的な)エンターテイメントの教科書を読んでいるようだと思った。
星海社文庫と星海社FICTIONSで読んだ作品も太田克史が集めただけあってその因子を持っており、私はとても満足していた。だから私は星海社のコンテンツが好きになった。太田克史は大した人だ。

そして第1回星海社FICTIONS新人賞『ブレイク君コア』が発表された。

太田克史が星海社FICTIONSで求めている作品だ言っていた作品。太田克史が絶賛していた作品。確かに面白かった。作者の小泉陽一郎が新しい才能だというのも頷けた。でも、どこかに引っかかりを感じてもいた。
それがなんだったのかはっきりと確信したのは、やはり私よりもっと前から太田克史を追ってきた人たちのツイートからだった。
「西尾維新や舞城王太郎の影響を感じる」
これに気づいた時の私の不安が誰かにわかるだろうか。背中に冷たい汗が伝わり、息がなんだか苦しい。急に世界が狭くなったかのようだった。
怖い。
『ブレイク君コア』の主人公がヒロインと○○○ピーなことをするのは『煙か土か食い物』に似ている。惨殺された死体は『iKILL』に似ている。ヒロインへの直球な気持ちは『化物語』に似ている。太田克史という世界の境界線を見た気がした。
私は星海社が好きだ。活発で勢いがあって楽しい星海社のコンテンツが好きだ。でもそのコンテンツの中心である星海社FICTIONSの大事な第1回新人賞が、太田克史がこれまで手がけてきた作品と同じ匂いを発している。もしかしたら星海社を好きになるということは、太田克史を好きになることなのかもしれない。
そう思うことが怖いのだ。
始めにも書いたが、私が太田克史を認識したのがかなり最近のことになる。だから他の人よりも太田克史に対する信頼というものが薄いのだ。星海社的に言うなら、「太田克史の魔法にかかっていない」私はこれから星海社の作品や(特に)新人賞の作品を読むたびに、「あっ、太田克史っぽい」と思うことになるのは絶えられない。新鮮な空気を吸いたくなって、いつか星海社から離れてしまうだろう。
本当に星海社のサイトは「最前線」なのか?
新しい才能を見つける目はいつも同じ方角を見ているんじゃないのか?
これからも私は星海社のコンテンツを楽しみ続けられるのか?
この不安を語ると「ビビリ」とか「にわか」とか「じゃあ止めればいい」と言われそうで気が滅入る。でも自然災害に真っ先に気づいて逃げ出すのは、虫や鳥やネズミなどの弱い生き物だ。もし私の不安に虫けらほどの価値しかないのなら、これは逆に危ないのかもしれない。

だから私は祈らずにはいられない。
山中武さん、太田克史を超えてください。
岡村邦寛さん、最前線を変えてください。
平林緑萌さん、星海社をあなた色に染めてください。
今の星海社は太田克史一色です。そこに不安を感じずにはいられません。
私は星海社が大好きなんです。大好きでい続けたいんです。

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2011.08.17

「星海社」のレビュー

銅

第2回星海社FICTIONS新人賞 編集者座談会

マゾヒスティック新人賞

レビュアー:mizunotori

星海社の未来は暗い。
次代を担う優秀な新人作家が今後は現れないかもしれない。

星海社のアシスタントエディターである山中先生は、期待の星と目された投稿者に対して以下のような苦言を呈している。

「前回の座談会で他の作品について僕たちが言った意見もぜんぶ採り入れようとしてる」
それが故に今回は受賞作が無いのだ――と。

投稿者たちが「座談会の意見を取り入れよう」とする気持ちは、私にも分かる気がしている。もちろんのこと、彼らとて万夫不当の投稿者のはずである。編集者の意見を鵜呑みにすれば受賞できるだろうといった、どろ甘い考えの持ち主であるはずがない。では、どうしてそのようになってしまったのか。

座談会が面白すぎるからである。

底知れぬ才気迸る山中先生。
建築系比喩をドヤ顔で言い放つ岡村氏。
地味にフォローに回っている気がする柿内氏。
励ましの言葉の中に強烈な一撃を混ぜてくる太田副社長。
そして、歴史物に冷徹なまでのこだわりを見せつつも、ふとした折に優しさを滲ませる平林氏。

業界でも指折りに優秀な、そして個性的な編集者たちが、未熟な投稿作を片端から撫で斬りにしていくのである。痛快に思わない人間がいるだろうか。

このような座談会を読んでしまえば、さしもの投稿者たちもその影響を受けざるを得ないであろう。 あるいは既に、「新人賞を受賞したい」と願う投稿者よりも、「座談会で扱き下ろされたい」と望む投稿者のほうが多いのではあるまいか……? そのような邪推を抱いてしまうほどに、座談会メンバーが投稿者たちを“食ってしまっている”ことは明らかである。

星海社の未来を憂うならば、この座談会はやめたほうがいいのではないか。
そのような思いがふと胸を過る。
しかし同時に読者としての私が叫ぶのである。

やめてもらっては困る! この座談会をもっと見ていたい!

……と、いかにも葛藤しているような感じであるが、よくよく考えれば新人作家が出てこないで困るのは私ではない。一読者としてはこの素晴らしい座談会をできるかぎり長く続けていただきたい次第である。

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2011.07.14

「星海社」のレビュー

銅

星猫ラバーストラップ

星猫といつでも一緒

レビュアー: k.d.q.

 春先の星猫ストラップ先着1000名プレゼントには滑り込み900番台で間に合った。ネット上であれオフラインであれ個人情報を漏らすことに神経質な私だが私の個人情報で星猫グッズが貰えるのなら住所でもスリーサイズでも初恋の思い出でもどうぞ好きなだけ持って行っていただいて構わない。
 星猫ストラップを私は最初、机の上に常置してあるクリップボードにダブルクリップで留めてみて、それだと書類を置くと隠れて見えなくなると気づきデスクライトのアームにマグネットで固定し、それではライトの位置を動かすたびちらちら揺れて、立体的なデザインであれば前も後ろも見えれば二倍可愛いだろうが平面的なこのストラップの場合裏返った状態は残念であると思い知りここで初めて携帯電話に着けてみたものの(先客の清涼飲料水販促品シャアとアムロのストラップはPSPケースに引っ越させた)後述する心配な点から一時間と保たずに外し、毎日使うがめったに外には持ち出さないポメラのストラップとして装着されて落ち着いた。余談だがその後携帯には名前を知らない眉毛の太い軽音部員がぶら下がっている。
 流浪の星猫に安住の地を提供できたところで、このストラップの気に入っている点とそうでもない点を順に並べていきたい。

【気に入っている点】

 まず、大きいこと。可愛いものは大きいにこしたことは無い。いっそ携帯電話より大きくてもよかった。
 そして星猫の鮮やかに青い輪郭線がイラストレーター・竹氏の描線のタッチを意外なほど伝えていること。この点、私はこのストラップが立体ではなく(いや、三次元的な立体物であるのだが)平面的にデザインされたことと併せて高く評価したい、と言えば偉そうになる。嬉しいです。竹氏のイラストの線の柔らかさと闊達さがいつでも手元に愛でられて幸せだ。
 目のデザインも良い。これまでサイトで見ることのできた星猫のイラストでは気づかなかったのだが、まん丸い両目に青い水面がゆるやかに波打っている意匠はあたかも真夜中の舷窓を思わせて幻想的だ(駄洒落だ)。
 そして尻尾。近眼のためかパソコンの液晶画面ではいまひとつどうなっているのか分からずにいた尾の先端だが、これは万年筆のペン先の切り割りに星があしらわれているのだろうか。星猫がイメージキャラクターを務めるところの星海社文庫をまだ私は買っていないが、このレーベルの印象として私は「読みもすれば書きもする」人を対象としていると感じる。この尻尾が万年筆の先っぽであり、書く人に近しくある猫であるというデザインであるならば、書くのが好きな人間のひとりとして励まされる思いがする。もしかしたら全然そんな意味はこめられていないのかもしれないが、そうだとしても勝手に励まされていたい。勘違いの瓢箪から生まれる駒もある。
 
【そうでもない点】

 この星猫ストラップから携帯ストラップとして毎日持ち歩ける実用性、信頼性を大いに損なっているのが首の細さだ。
 これだけ細くて材質がラバーとなると、頻繁に持ち歩き鞄からポケットから日々出し入れするほどに首チョンパの可能性が高まると想像される。毎日見ていたいという愛が星猫の首をもいでしまうという残酷なジレンマは星海社FICTIONS新人賞に応募するに足る文学的モチーフを与えてくれるかもしれないが、私はできれば星猫グッズで心に傷を負いたくはない。竹氏の優しい絵柄は心の傷を癒すことにこそ適している。今後あまたあるだろう星猫グッズの製作企画時には「使用により星猫が恐ろしい有様になりはしないか」との視点を忘れないでいただきたい。
 あと、裏面が(c)seikaisha/takeと白く印刷されただけの黒くつるつるなのっぺらぼうなのはちょっと寂しい。無料で貰っておいて厚かましい言い分だとは思うので、値段の付いた製品版星猫ストラップの出る暁には裏面も可愛いといいなあと言い添える。

 以上が星猫ラバーストラップを今日まで使用と言うか愛玩しての感想である。長々と書いたが、ひとことにまとめると、とても可愛い。首がもげるのが怖さに実物を持ち歩いてはいないが携帯のカメラで撮影して壁紙に設定したので星猫とはいつでも一緒の毎日だ。

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2011.07.14

「星海社」のレビュー

銅

「星海社FICTIONS」新人賞

FUTURE STAR

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

 広大な海のように広がる宇宙で
 まだ見ぬ星をさがす
 まだ見ぬすばらしい星をさがす

 ”ほしうみ”とよばれる人たちがいた
 彼らはどうやら本を作っているらしい
 輝く星の光をもう一度伝えるような本を
 輝く星の別の一面が見えるような本を
 
 そして
 誰も見たことのない星の光を届けるような本を


新人賞というのは、最高にロマンがあると思うんだ。
だってさ、まだ誰も見たことのない、
そんなすばらしい星をさがすようなもんでしょ?

まぁでも、すばらしい星は無人探査機でも見つけられちゃう。
けどさ、それじゃあロマンが足りないでしょ?
下読みを使ってみつけても、やっぱりそこにはロマンがない。

星海社のような下読みを使わない新人賞は、
たしかに規格外の大物をみつけられるかもしれない。
たしかに編集者としての力が鍛えられるかもしれない。
けど、おれにとってはそんなのどうでもいいこと。
自分の足で一つ一つ星をさがしていくようなロマンがあるから、
おれはこの企画が大好き。
めっちゃ応援してる。

星海社の人たちが見た、
惜しいなって思うような星、
ダメダメじゃねぇかって星、
おもしろいって感じるような星、
そんな星の話が聞ける座談会もすごく楽しみ。

星海社新人賞は、男のロマン!

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2011.07.14

「星海社」のレビュー

銅

星海社FICTIONS新人賞編集座談会

見守りたいのと参加したいのの50:50

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

読書が趣味って言うけれど、「読み物なら何でもいい」なんてことはない。
大抵お気に入りの著者だったり周囲の評判を聞いてだったりで、読む本は決まってくる。それを「ココの右端から並んだものぜーんぶ読みなさい」ってことになったらもう趣味じゃない。仕事だ。
読書が仕事の星海社編集部の会話に興味がある。きっと趣味読書の人間とはレベルの違った読み方をしているはずだ。星海社FICTIONS新人賞座談会を読む理由はそんなものだった。
読んでみると拍子抜けと驚きの50:50。
編集陣の会話は私たちが本を語るのと変わらない。
真剣で、なによりも楽しそうだった。少なくとも座談会の会話からは仕事ではなく、個人として投稿作品に向き合っているよう思える。どういった作品がおもしろいか語られる様は、私たち受け手も安心して近づけていける空気があった。その中で自分には無かった読み方の視点を探していくのはおもしろい。
これが趣味読書の立場。
ただ読んでいる方は気楽なものだ。

これを投稿者の気持ちを想像して読んでみる。
立場がニュートラルなので……辛いのと喜ばしいのの50:50。
想像するだけでMP(精神力)が削られる。
私の経験では精々レビュアー騎士団か大学時代の講評しかないので申し訳ないが、数百枚単位で書いた作品に評価をもらうのは勇気がいる。その中で少しでも褒められれば小躍りしてしまうだろうし、否定されれば首を吊りたくなる。
想うに、座談会で語られる「前回の座談会で他の作品について僕たちが言った意見もぜんぶ採り入れようとしてる」人や「ツイッターで僕らと馴れ合ってる」人は喜ばしいの割合が50をオーバーしているのかもしれない。
厳しい意見を言っているように見えて、編集陣の批評には愛が溢れているからだ。

新人賞第2回には知っている書き手も投稿していた。それを知って実際にその人の名前が挙がるとなんだか羨ましい。そして投稿者の気持ちで読んでみると、自分もなにか書いてみたくなるから不思議だ。小説の書き方なんてわからないのに。……もう一度座談会を読んで勉強してこよう。
新しい楽しみを見つけた期待感と深みにハマってしまった不安の50:50。

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2011.07.14

「星海社」のレビュー

銅

星海社のDM(ダイレクトメール)

裏こそを眺めていたい。

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

2011年6月11日、星海社から一通のDMが届いた。
縦10cm、横23cmの細長いポストカード。
表面には僕への宛名と、今月発売の泉和良『私のおわり』の表紙イラストが描かれている。

ふむふむ。星海社FICTIONSから15日に出るのか。
ふむふむ。「“死”(エピローグ)から始まる物語」なのか。

そして僕はDMを裏返し、あることに気づくのだった。


( ゜Д゜)……青一色……!?


なんとDMの裏面は、青一色に塗りつぶされていたのだっ。
ただ一つだけ、白抜きで星海社FICTIONSのロゴマーク。

なんてスタイリッシュなんだろう。美麗だし、もらって嬉しいDMだなぁ。
――とも思ったけれど。

いやいやいやいや、可笑しいやろっ。
「最前線」の会員は千人単位でおんねんから、DMを送るだけでもそれなりの金になるはずや。
せやのに、一面丸々ムダにするやなんて!

……おっと思わず興奮して素が出てしまった。
とにかくだ、これはおかしい!
6月に発売される星海社の刊行物は、Fateやひぐらしなど他にもあるはずだ。
せっかくお金を使ってDMを送るんだから、裏面にも何かしらの広告を載せてしかるべきだし、だいたいDMってのはそういうものだ。
星海社と一緒に入っていた電気屋のDMなんかは、裏面に乾電池の割引券がついてたよ?

でもだからこそ、僕はなおさらこのDMに感心するしかなかった。
『私のおわり』一本に広告を絞り、裏面には鮮やかな星海社ブルー。
広告だらけのDMよりも、読者がちょっと幸せな気持ちになれるから。

やっぱりこのDMは、どう考えたって、完全に効率を度外視してる。
だけれど星海社は、あえてこの美しいデザインを選んだ。
その心意気に惚れながら、僕はこのDMを飾るのだ。

――裏面を上にして。

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2011.06.17

「星海社」のレビュー

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2011.5.20のニコ生「いくぜ!星海社」について

手を伸ばせば届く距離に彼等は存在していた

レビュアー:zonby AdeptAdept

とてもとても遠いところにいると思っていたのです。
出版社とは頭の良い人達が集結した、一部の人のみが触れられる場所であって、もちろんそこで働く編集者なる人は一般人とは違う人種なのだと思っていたのです。物語の奥付には必ず彼等の名前があって、物語を書いた作家さんも、あとがきでお礼を述べていたりするくらいの人達です。
編集者とは、つまり雲の上におわすお方なのだと思っていたのです。
しかしニコ生で見た彼等は…。

超フレンドリー&オープン!!
ニコニコ動画独特の匿名のコメント機能のせいもあってか「やっほー、見てますよー」ってな具合ですよ。
いやー、もう興奮した興奮した。ニコニコ動画で絶対コメント打たない派の私ですら、コメント打っちゃったもんね。今まで雲の上の人間だと思ってた人達が、いきなり下界に降りてきたんですもん。「降臨」ですよ。「降臨」。
太田さん含め、山中さん。渡辺先生に、佐藤先生。紺野さんと、星海社ファンとしては夢のメンツ。フルメンバーなら発狂ものです。画面を多い尽くす程の弾幕が見れたことでしょう。
で、ニコ生見た人なら分かるでしょう?
生放送ですよ?な・ま・ほ・う・そ・う!
つまり自分がパソコンの前でヘッドホン耳に当てて、食い入るように画面見てるのと同時に、彼等も東京のあの場所で喋ってたわけなのですよ。同じ時間をリアルに共有してたわけなのですよ。同じ空気を…(だんだん自分が気持ち悪くなってきた)

ごほごほ。
さて、何が言いたいかというとですね。ここまで下に降りてきてくれる出版社及び編集者は、まだ他にないんじゃないかなー、ということです。読者キャンペーン?大いに結構。サイト更新?当たり前。編集者がツイッター?うん、最近は多いね。出版社でニコ生出演!?しかもあんなフリーダムな感じは星海社が初めてでしょう。流石「最前線」を名乗るだけのことはあります。
あとね、当たり前のことなんですが彼等も同じ時代を生きてる「人間」なんだなーと思いました。
いや、馬鹿にしてるわけではなくてでして。
少なくとも私にとって編集者というのは職業の区分ではなくて「編集者」という生物。私と同じ「人間」という認識ではなかったのですよ。作家さんの話によく登場する、決して姿の見えない小人のような存在。黒子のように暗躍する正体不明の生物。作家さんにならないと遭遇できない生物?それが私の中の「編集者」なのでした。
でも、実際に動いて喋って私達が抱えている問題を共有していたり、新しい企画を楽しそうに発表したり、作り込まれていない彼等の生の表情や声を聴くことができて、とても安心したというのがホントのところでございます。
「編集者」や「作家」ではなく。編集をしている人間と、作家である人間だということが肌で感じられた時間でした。

出版に携わる人達は、雲の上の姿の見えない何者なんかではない。
人間と人間なのだから、手を伸ばせば届くはず。
5月20日のニコ生は、私がずっと出版社や編集者に持っていた
「自分の声はそこまで届かないんじゃないか」
「彼等にとって私の声は、ただの雑音の一つでしかないんじゃないか」
という思いが見事に払拭された放送でした。

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2011.06.01

「星海社」のレビュー

銅

レビュアー騎士団に見る星海社の思想

「愛情」が繋ぐ、幸せな共犯関係

レビュアー:大和 NoviceNovice

『想像してみてください。『さやわかの星海社レビュアー騎士団』ってどんなページかな? どんなレビューがあるのかな? と思って読者が見に来たら、『さやわかの星海社レビュアー騎士団』とはどんなものか? という議論が書いてある。その不思議な状態は、レビューというものや、このコーナーが目指さねばならないものからむしろ離れてしまうと思います』

『そこまで「レビューすること自体」について考えているならば、その考えを踏まえて、さまざまな作品についてのレビューを書いてみることの方をずっとオススメします』

 これは、さやわか氏が横浜県氏のレビューに対して寄せた講評の一部である。ここで語られていることに僕は全面同意する。だがその上で、僕はとても感銘を受けた『レビュアー騎士団』というコンテンツに関して語らずにはいられない。だからここでは、レビュアー騎士団に関して語りつつ、その背後にある星海社の思想そのものについてレビューする、ということに挑戦してみたい。そのために、まずは「愛情」に関して触れる必要がある。

 説明不要かもしれないが触れておこう。レビュアー騎士団とは読者投稿型のレビュー企画である。読者が星海社に関するレビューを書き、レビュアー騎士団へと送る。団長であるさやわか氏が優秀だと判定したレビューは、レビュアー騎士団のページに掲載される。
 レビュアー騎士団のジャッジ方法は「愛情」「論理性」「発展性」の三つを軸に行われる。
 紹介ページより引用させていただこう。

『上にあるものほど重要で、例えば「論理性」があっても「愛情」がなければ掲載や得点ができないことがある。三つの要素をすべて満たすと、例外なく最高得点である「金」が与えられる。』

 つまりレビュアー騎士団のレビューにおいて、最も重要視されているのは「愛情」なのだ。これを見て、違和感を持った人もいるのではないだろうか? 何故なら「論理性」「発展性」はある種の客観性に立脚しているが、「愛情」は主観性の強い概念だからだ。通常、批評≒論文的な高度さを追求するのであれば、主観的な文章は極力排除される。中には対象を通して自分を語ってしまうものも多いが、少なくとも体裁としては主観性が混じらないことが是とされる。だがレビュアー騎士団は「愛情」を最も重要だと位置づけることで、レビューに主観性が混じることを強く肯定する。ここで示されているのは、あらゆる主観的なレビュー≒個人の価値観を全て肯定する、という態度だ。しかし、全てのレビューが掲載されるわけではない。

『採点はレビュアー騎士団の団長であるさやわかが単独で行う。採点にあたって、レビューの内容が作品に対して好意的であるかどうかは問わない。優れたレビューは必ず掲載し、高い得点を与える(さやわか保証)。』

 ここには一見して矛盾がある。レビュー者の主観性を肯定するのであれば、レビューを選ぶ人間の主観性も肯定することになってしまう。それは結局、レビュアー騎士団においてはレビューを選ぶ人間の主観こそが正しい価値観なのだ、と標榜してしまうことにならないだろうか。

 さやわか氏はその矛盾を注意深く回避することに成功している。それはレビュアー騎士団というコンテンツが、一定のルールに基づいたゲームとして設計されているからだ。恐らく、さやわか氏が最も気を配ったのはこの部分ではないか。例えばレビュアー騎士団は、さやわか氏や他の作家達が審査員を務める、という形式にもできたはずだ。だがそれでは先述の通り「審査員の価値観こそが正しい」という立場に繋がってしまう。そこでレビュアー騎士団は、ゲームルールという外部の基準によってレビューを選別する。さやわか氏は「レビューを(主観的に)審査する」のではなく、「レビューがゲームルールの基準をクリアしているか否か判定する」ことで、<「選ばれなかったレビュー≒価値観」の否定>を巧妙に回避しようとする。一見して遠回りながら、レビュアー騎士団は確実にその「愛情」を成立させることに成功している。

 このことから分かるのは、レビュアー騎士団は「究極のレビュー」とでも言うような一つの到達点を目指すのではなく、多種多様なレビューをこそ読者に提示しようとしている、ということだ。それは「作品の楽しみ方」を提供することに他ならない。
 僕らの趣味やライフスタイルはあまりにも拡散してしまっている。例えばtwitterのタイムラインは個人個人によって全然違うし、同じ教室で何年も一緒に暮らした奴が全然知らない音楽を聞いて全然知らない漫画を読んで全然違う文化に触れていたりする。そんなことは今や当然過ぎて、是非を問うことすら馬鹿馬鹿しい。
 そんな世界に置いて重要なのは、「どの作品を選択するか」ではなく「どんな態度で作品に接するか」なのだ。レビュアー騎士団というゲームは、一つの視点に縛られない多用な見方をプレイヤーに要求する。そして「愛情」「論理性」「発展性」という、あくまで文章的な基準をクリアしたレビューを掲載し、あるプレイヤーの「作品の楽しみ方」を他のプレイヤーに対し提供する。このゲームの目的は星海社の作品を褒めることでは無い。レビューとして優れていれば貶していても構わないという。これもまた、重要なのは選択そのものではなくそのレビューに至った視点なのだ、ということを語っている。様々な視点を身につければ、それだけ作品を楽しめる可能性が増える。レビュアー騎士団が僕らに与えてくれるのは、その「可能性」なのだ。

 また、レビュアー騎士団は夢中になればなるほど星海社のコンテンツに触れざるをえないように作られている。例えば一つの作品だけで五つも六つもレビューを書くのはかなり厳しい。レビュアー騎士団が盛り上がれば盛り上がるほど、プレイヤー達は星海社に関するあらゆるモノに触れようとするだろう。これを「星海社のコンテンツをよりたくさん消費するよう仕向けた罠」と捉える人もいるかもしれないが、それはあまりにも認識が一方通行すぎる。むしろ星海社は、いかにして読者と出版社の新しい関係――双方向的に影響しあう関係を築くか、ということに腐心している。Ustreamによる配信や新人賞の賞金システム、最前線セレクションズ、最前線のトップページに表示されるツイート等を見れば明らかだ。
 そういった双方向的な関係を築くための柱となるコンテンツがレビュアー騎士団なのだ。プレイヤーが夢中になればなるほど星海社のコンテンツは消費される。そしてレビューが投稿され、レビュアー騎士団が盛り上がる。盛り上がれば盛り上がるほど様々な優れたレビューが掲載され、プレイヤー達は新たな「物語の楽しみ方」を得る。新たな視点を得たプレイヤー達はそれを持って再び星海社のコンテンツを消費する。盛り上がりは新たなプレイヤーを呼び寄せ、レビュアー騎士団が作りだす消費のサイクルに巻き込まれる。
 これは確かに星海社のコンテンツを消費させることを狙っていながら、それでいて誰もが得をするような、幸せな共犯関係だ。星海社とその読者が互いを高め合う関係。僕は何よりも、二者を繋ぐための言葉が「愛情」であるということが素晴らしいと思う。このことが何よりも星海社の思想を象徴していると言ってもいい。読者や出版に対して強烈な愛情を持っていなければ、こんな関係性は思いつかないはずだ。だから僕はレビュアー騎士団が僕らのレビューを「愛情」という言葉で肯定するように、僕もレビュアー騎士団、ひいてはレビュアー騎士団に賭ける星海社の想いを、愛情をもって肯定したい。

 願わくば、この繋がりが読者と星海社だけに終わらず、作品の作り手達をも巻き込むものになってほしい。僕らのレビューが作家に届き、作家はそのフィードバックを受けてより自身の作品を高める。これほどまでに幸せな関係があるだろうか? 誰もが相手を高めるために死力を尽くす。そんな関係になれたら、僕らの想いは本当に、地球を飛び出て星の海を突きぬけてしまうに違いない。

 以上でレビューを終わらせていただく。後半はいささか主観的にすぎる文章となってしまったが、これも僕なりの愛情表現だと受け取っていただければ、幸いである。

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2011.03.01


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