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「私のおわり」のレビュー

銀

私のおわり

私をおわらせる爽やかさ

レビュアー:6rin NoviceNovice

ぼくは小説を読んだりアニメを鑑賞するのが好きで、作品についてぼんやりと考えを巡らすことがよくあります。
そうやって思いついたことを、ときには誰かに読んでもらうテキストにします。しかし途中で、こんな下らないこと書いても意味がないとか、もっと別の言い方があるんじゃないかとか思って筆が止まり、時間がたってしまいます。生活があるので、テキストにばかり時間をかけるわけにはいかない。だから、書きあぐねるのをどこかで切り上げ、テキストの質を無視してとにかく書くことに(あるいは書かないことに)決めます。
そのとき、書きあぐねることから解放され、妙に爽やかな気分になります。書こうとするテキストの質の低さが気になっているのに、気分が爽やかなのが妙なのです。
同じような妙な爽やかさが『私のおわり』からも感じられました。

『私のおわり』は、大学生のサヨが幽霊になる物語です。死んだサヨは、想いを寄せる天霧くんとの関係が全く進展していないことに未練があり、あの世に連れて行かれる船から逃げだします。人間が死んだらあの世へ行くのが道理。サヨはその道理を身勝手な理由で犯したのです。海に飛び込んだサヨは溺れ流され、天霧くんの部屋で目を覚まし、その部屋から出られない地縛霊として過ごします。天霧くんのことだけ考える身勝手なサヨの視野つまり世界は、天霧くんしか存在しない狭いものです。サヨが天霧くんの部屋に閉じこもる地縛霊であることは、その世界が狭いことを表しているかのようです。
この世に戻ることに成功したサヨですが、道理に反するこの滞在が許されるはずもありません。サヨはこの世に長くいられないことを突き付けられます。

サヨはこの世から消えることを恐れます。それはやはり、想いを寄せる天霧くんとの関係を進展させられなくなるからです。しかしやがて、サヨは天霧くんとの恋愛を諦めることで死をそれほど恐れなくなります。ただ、天霧くんへの想いがサヨから無くなったわけではありません。サヨは天霧くんへの想いに執着する自分=「私」を捨て、天霧くんを想う自分に蓋をしたのです。『私のおわり』は、執着する「私」を捨てる=おわらすことを描いた物語なのです。
恋する自分に蓋をしたサヨは、あの世へつながる大海原に天霧くんの部屋から連れ出されます。ここでは、サヨが執着する「私」から解放され天霧くんの外にも視野を広げたことが、天霧くんの狭い部屋から大海原へという変化でダイナミックに表現されています。
こうしてサヨは天霧くんだけを見る身勝手な人間ではなくなりました。だから、サヨはかつてのように感情に流され自分の死から逃げようとしません。今のサヨなら、死を嘆く彼女を溺れさせ、その体のコントロールを奪った海の上を行くことが出来ます。涙と成分が似ている海。その匂いのする空気を切って、サヨはあの世へ向かいます。ぼくはその姿に爽やかさを感じました。サヨは天霧くんに対する恋愛感情を無くしたわけでもないし、死が全く怖くなくなったわけでもない。それでもサヨは死を全うしようとする。その爽やかさは、ぼくがテキストの質の低さを気にしつつ、テキストを受け入れ書くことに決めた時に感じる妙な爽やかさと同じものです。拒否しつつ受け入れることの爽やかさです。とはいえ、サヨとぼくの爽やかさではスケールが違います。前者は死という人間の大問題に対処する姿勢の爽やかさであり、後者はゴミみたいなテキストに対処する姿勢の爽やかさです。

ぼくは趣味で書くテキストというちっぽけな問題ですら自意識に振り回され、やっとのことで切り抜ける人間なのです。死ぬときには、きっと序盤のサヨのようにのたうち回ることでしょう。終盤のサヨのようにはとても振る舞えない。あんな風に、避けられないことを爽やかにさらさらと受け入れて問題を片付けたい。だから、ぼくはこれからも『私のおわり』の描く爽やかさに惹かれることをやめないでしょう。

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2012.04.02

「私のおわり」のレビュー

銅

私のおわり

海がこの胸に広がっている

レビュアー:6rin NoviceNovice

 この小説には「電子海」というネットゲームが登場する。「電子海」のプレイヤーは船を操り広大な海を移動する。ゲームに定められた目的はなく、そこでなにをやるかはプレイヤー次第である。海に浮かぶ沢山の船は、晴れた空の下を四方八方好きに移動する。とても自由度が高いゲームである。また、「電子海」の海の上にいるプレイヤーの数は広さに比べ圧倒的に少ない。そのため、プレイヤーの一人である大学生のサヨによると船乗り仲間は貴重な存在であり、ゲームの中だけにおいても普通以上に親密になるそうだ。
 サヨにもゲームの外の現実で会うようになるほど親しくなった「電子海」の仲間が数人できた。そして、そのうちの一人である天霧くんにサヨは恋をしている。サヨは歳が幾らか上の天霧くんにまだ想いを伝えていない。
 天霧くんは「電子海」の管理人である。サヨと「電子海」を通じてできた仲間たちは頻繁に天霧くんの部屋に集まって遊んだ。サヨはネットでも仲間たちと繋がっており、仲間たちがいる「電子海」の海へと出掛けるのを日課としていた。サヨと仲間たちを出会わせ、結びつけている「電子海」はサヨと仲間たちの絆の象徴たる場所といえよう。しかし、「電子海」で繋がるサヨの仲間たちとの幸せな日々は、ある日唐突に終わる。

 大学からの帰り道の途中で、サヨは車にはねられて死ぬ。
 愛しの天霧くんに告白したい。付き合いたい。これからも仲間たちと楽しく過ごしたい。サヨのこの世への未練は非常に大きい。サヨはあの世へ連行される道中、この世へと逃げ出してしまう。
 サヨが戻ったこの世は、サヨが死んだ日から四日前だった。幽霊となったサヨは天霧くんの部屋で生活する。部屋には仲間や生きていた時のサヨが来ることがあるが、見えない幽霊のサヨが近くにいることに誰も気付かない。そんな状況でサヨは、自身が幽霊としても長生きできずに間もなくもう一度死ぬことを予感している。サヨは死んでみんなと別れ、独りになるのが怖い。
 本作は「航海日誌その一」から「その四」までの四章から成り、主人公サヨの人生を航海に見立てている。それに倣うならば、今のサヨは一隻だけで漂う船の甲板に立ち、冷たい風のなか死を見つめていると表現できる。サヨの前方には何もない闇があるばかりだ。
 サヨは穏やかな気持ちで人生の最後を迎えたいと願う。しかし、死に感じる恐怖、寂しさを抑えるのは簡単ではない。
  
 しかし、死と向き合うサヨは幽霊である故に、過去の生きている自身を間近から第三者の視点で捉えることができる。だからサヨは、天霧くんと仲間の一人である七原と生きているサヨが流し台に仲良く立つ幸せな光景を外から見ることができた。そんな風に自身を外から眺める幽霊として過ごす中で、サヨは生きている時には気づかなかった、恋敵でもある七原との友情みたいなもの、家族みたいな仲間たちと自分の姿といった小さな喜びが感じられるものをいくつも見つけていく。やがて仲間たちとの大切な絆を再確認したサヨは言う。「みんなの様子をもう一度見られて、おかげであの世へ行く覚悟が少しづつできた」
 この時、サヨは死がもたらす孤独の不安から解放されていて、サヨの船は人生の航海において穏やかな海を進んでいる。前方にあった孤独の闇は消え、周りには仲間の船がいくつも見える。その海は仲間たちとの絆の象徴「電子海」の自由な海である。仲間はいい奴ばかりだ。死後も仲間たちのなかでサヨは生き続け、仲間たちとの絆を失わず「電子海」の海を航海するだろう。そして、僕はサヨの人生の航海にスポーツ選手のプレーを重ね見る。 
 スポーツ選手が最高のプレーをするとき、競技中の緊迫した状況で自身や手の動き、あるいは周囲の様子を冷静に観察する特殊な意識領域に達することがあるらしい。その状態の選手は幽体離脱して自身を外から見るような感覚になるという。同様にサヨも幽霊となり第三者の位置から自身を見つめた。それによって、死に対する不安の暗闇からの出口を見つけ、仲間がいる「電子海」の海へと脱け出した。それは人と人の絆の強さを死に見せつける最高のプレー、最高の航海だと思う。僕はそれを目撃した。

 サヨの船が海に描いた軌跡は陽を反射し、きらきらと輝く。僕は船の後ろ姿を見送り、その情景が収まった胸の扉を、本と同時にそっと閉めた。

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2012.03.09

「私のおわり」のレビュー

銅

「私のおわり」 泉和良

夜の航海のはてに

レビュアー:ややせ NoviceNovice

『私のおわり』の頁をめくりながら、私は読んだばかりの別の小説が二重写しのように重なるのを感じていた。
恋人の死体を盗み出して、物言わぬその物体と同居していた静謐な悲しみの話。
『死体泥棒』である。

共通しているのは、死による断絶を受け入れられず、もがいていることだろうか。
いつだってメールできた、会って話すことができた。昂ぶった気持のままに抱きつくことだってきっと、できた。
ただ、しなかっただけ。
そのコミュニケーションの可能性が失われたこと。コミュニケーション自体ではなくて、あくまでもその可能性が失われたことを痛がるのは、確かに切ない。愚かしいとすら言えるかもしれない。

ひねくれたことを言うならば、どこにでもいるような普通の人物が物語の主人公になるには、「死」にご登場願うのが一番手っ取り早い。日常に劇的なドラマを立ち上げるためには、既存の「劇的なドラマ」を模倣するのがいい。
誰もが逃れられない死という運命、それにまつわる悲嘆。
サヨは死神船長の船から逃げ出して自らが死ぬ四日前にたどり着くが、誰かに触れることもできず、言葉を交わすこともできず、まさに表紙の絵のごとくにじっと涙をこぼしているしかない幽霊のような存在だ。

淡々と過ぎていく四日間は、寄せる波のように静かにサヨの心残りをなだめていくものの、このまま死を迎えてもいいのだろうか、という気持ちが芽生えてくる。
せめて生きている過去の自分に思いを伝えさせてあげたいというサヨのストーリーと、いつ死んでしまうか分からないのだから生きている今を精一杯生きなければならないという読者へのストーリーとが妙な正当性を持って合致したとき、そこに初めて独自の物語が生まれたのではないか。

誰にとっても、自分の生死ほど大きな特別な問題はない。
それに他者をどのくらい巻き込んでいいのか、費やしても許されるのか。
私は終わっても、世界は終わらない。
サヨの選択と新たな悩みから、この小説の本当の切なさが始まるのだ。

ところで、航海日誌は後悔日誌のことでもあるのだろう。
『死体泥棒』の主人公が死んだ妻を取り戻そうとしたオルフェウスならば、『私のおわり』のサヨの旅はプシュケのそれに似ている。
冥府に下り、試練を乗り越えて、やがて神々の列に迎え入れられるプシュケの物語をなぞるかのように、サヨの行き先も清明な光に満ちているといいなと思う。
先立つ者と残される者の痛みを比べることなんて、結局どうしたって無理なのだ。
無理なのだけれど、知りたくて。
物語は語られ続け、私たちは頁を巡りつづけるのだろう。

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2012.02.18

「私のおわり」のレビュー

銀

泉和良『私のおわり』

物語のかおりとカタチ

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 キンモクセイの香りに包まれ、私はこの本を読み始めた。
そう、ちょうどキンモクセイの香りが最盛期の時期に読んだのだ。

 けれど、この本にまつわる私の記憶の中に、キンモクセイの香りはほとんど無い。
代わりにあるのは、そう――潮の薫りだ。
 それは、死に直面したサヨの涙の香りだろうか?
サヨが死神船長と出会ったヨモツ比良坂の海の薫りだろうか?
それとも、サヨと天霧君たちを最初に繋いだ電子海の薫りだろうか?
あるいは、サヨの中にある、父親との思い出の海の香りだろうか?

「あなたはこのうちのどれが聞こえてきたと思う?」
 そう問われたならば、私はおそらく最後を選んだだろう。


 父親との記憶は、もう戻らない/戻れない証だ。


 最後の4日間の傍観に、サヨは父親を含んだ家族血縁ではなく、恋慕の情を抱く天霧君を選んだ。
それは、選ばない方を選んだことに同義だ。
一番の未練である天霧君の為に、サヨは父親との最後を棄てた。

 だからこそ、私は父親との思い出に、この作品一番の切なさと刹那さを感じ取る。


 この作品はサヨの主観に拠って編まれているから、父親に関する部分はひどく少ない。
思い出語りとサヨ自身の思いだけが、この物語で父親を構成するパーツだ。
父親の登場なんてなければ、セリフだってサヨの記憶の中にしかない。
もちろん、サヨとサヨパパの別れもこの本の中には書かれていない。

 だが、それゆえに、胸が締めつけられた。
ちっとも出てこないくせに、この父親との記憶/エピソードは、私の涙腺をがっつり刺激するのだ。
別にファザコン属性もエレクトラコンプレックスも持ち合わせていないのに。
油断すると泣いてしまいそうになる。濃い潮の香りが聞こえてくるのだ。

 同時に、今の自分と父親との関係を再認識せずにはいられない。
私は海でのエピソードのような思い出は持ち合わせてはいないけど。
それでも、かえりみらざるをえない。
私は今、死んで関係が途切れても、決して後悔しないのか…と。



 この本は、サヨの「おわり」を見届ける本だと思っていた。
でも、ホントは家族とのカタチを再認識できる本でもあるのかもしれない。

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2011.12.20

「私のおわり」のレビュー

銅

私のおわり

海のむこうがわ

レビュアー:ラム AdeptAdept

天霧君は電子海というネットゲームの創造主。
世界を見守る神様だ。

運命に逆らい流れ着いた天霧君の部屋でみた、死ぬ4日前の光景。

電子海を見守る天霧君が、どんなに幸せそうかサヨは知った。

あるいは天霧君のいない部屋を見守り、天霧君以外の人がいる部屋を見守った。


サヨは死んで、海をただよいいつか神様になる。

電子海における天霧君と同じ立場になる。

それはきっと、天霧君の部屋を見守った4日間の延長上にある。

天霧君のいる世界を見守るのだ。

だから、サヨは寂しくないのだと思った。

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2011.09.30

「私のおわり」のレビュー

銅

私のおわり

他者の時間を思うこと。

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

「私のおわり」の物語の舞台となる空間は、ほぼ一つの部屋に限定されている。
 そして、そのことと対照的に、作中に流れる時間の流れはいくつも存在し、それらは物語中、時に互いに接近し、時に離れて行く。
 サヨ、七原、パリオたちがたまり場としている天霧の部屋は、そのような場所として描かれる。年齢も職業も生活リズムも違う四人は、同じ部屋で時間を過ごすことによって、互いに時間を共有し合う。それはとても優しい時間として描かれている。

 けれど、幽霊となったサヨは、その時間に戻ることができなくなってしまう。
 同じ部屋、同じ空間にいても、そこに流れる時間を生きた人間と共有することはできない。
 かつて過ごした優しい時間を喪失してしまったサヨの悲しみは深い。
 その時間は、もう二度と取り戻せないものだからだ。
 サヨは最初、自分の存在と彼らに流れる時間が無関係であることに耐えられず、生きている自分を誘導し、天霧に告白させることで、自分と彼らの時間の関わりを取り戻そうとする。
 しかしその試みは、結果として天霧たちを傷つけることになってしまうのだと、サヨは気づく。
 私は、この気付きこそが「私のおわり」の中で最も重要なポイントだと思う。
 
 自分と他者に流れる時間は異なっていて、しかもそれは時として完全に断絶されてしまう。二度と関わることのできない相手がいることを、サヨは知る。
 そして同時に、自分が二度と関わることのできない相手にもまた、自分と同じように、その人の持つ時間が流れて行くことも理解する。
 
「私が本当に考えなくちゃいけないのは、自分のことでも、もうじき死ぬことになる生きている私のことでもない。
 私が一番に考えなくちゃいけないのは、私が死んだあとも生き続ける人達のことだ。」

 私の時間が終わった後にも、生き続ける人たちの時間は終わらない。
 サヨはその人たちの時間を思うことで、自分の人生と死を受け入れて行く。
 サヨにとって大事なことは、喪失したものを取り戻すことではなく、喪失したものについて、それを失ったまま、それでも思いを馳せることだったのだ。

 ラストで、サヨは「ミタマ=神様」になることが示されている。
 ミタマになるということは、離れた場所にいる人の時間や、二度と会えない人の時間について思いやることを意味している。
 物語前半のサヨではミタマは務まらなかったかもしれない。
 けれど、他人の時間を思うという大切なことに気付いたサヨには、ミタマになる資格は十分にあると思う。

 他者の時間を思うこと。
 サヨはその大切なことに気付くことができたから。

 この物語が、不可避な「死=おわり」を描いているのに、気持ちのいい読後感を残すのは、そんなサヨの気付きがあるからだと思う。

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2011.09.30

「私のおわり」のレビュー

銅

私のおわり

さぷらいず

レビュアー:ラム AdeptAdept

星海社の泉和良担当とはわたし合わないのかな、と思った。
また帯にイラって。
「せつない」って、先に言われたらテンション下がるー。

せつないのかー泣くのかなー、って。
読む前に言われると展開がわかってしまって楽しみが減る。
わたしはびっくりするのが好きなのだ。

なんて思いながらまぁ、28ページで涙腺がゆるくなって、号泣する準備はできていた。嘘、めっちゃこらえた。

サヨが死神船長の船の上でみた、小さいときに海でおぼれた夢が好きだ。
疲れてるお父さんに我がままを言って、海に来たけどお父さんは寝てしまって。
一緒に楽しみたかったのに、やっぱり休ませてあげるべきだったんだって、帰ろうとするんだけどゴムボートから落ちちゃって。
お父さんに買ってもらったゴムボート、流されちゃうって。
溺れてるのにゴムボートのことしか気にしてなくって、お父さんに怒られちゃうって。
お父さんは気付いて蒼白な顔でやって来て、
「ちゃんと戻ってきてくれて良かった」って。
ゴムボートを指さしてごめんなさいって泣くけど、お父さんはゴムボートのことなんて何も言わなくて。

泣いちゃうって。

今もちょっと、思い出すとうるってなっちゃう。自分の父親にはなんとも思わないのにフィクションの親子関係はどうしてこうも私の胸を打つのか。
嘘、お父さんが優しくて泣いたことある。

お父さんが好きだから一緒に遊びたいけど、お父さんが疲れてるから遊ぶのやめる。
天霧君が好きだけど、好きって言うと天霧君が困っちゃうから言えない。

自分の思いを伝えたいという気持ちと、天霧君の気持ち。
死ぬから伝えたいより死後で悲しむ天霧君を優先できるサヨの優しさが愛しい。

サヨは泣いてばっかいて、イラストは表紙しかないけど表紙だけでも十分サヨってる。
報われないまま終わっていたらせつないと思ったかもしれない。でも、ミーヨや死神船長に優しくしてもらってよかったね。素敵な話だったよと思ったよ。

そして後ろのあらすじを見て驚いた。
「せつなさ100%の星海社SF」

あれっ、これってSFだったの!?

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2011.09.08

「私のおわり」のレビュー

銅

私のおわり

GoodEndじゃなかろうと

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

『私のおわり』の「おわり」ってなんだろう? なんだか暗い。
1番分かり易くて絶対的な「おわり」は「死ぬこと」だ。そして『私のおわり』は「死ぬこと」の物語。
死んだサヨ。死後の世界に旅立つ為の死神船長の船から逃げ出すことで、サヨは「死ぬこと」を延長させた。足掻いて足掻いて延長させた。そして延長した結果辿りついたのは片思いの相手の部屋。そこでサヨは当たり前だった風景を見ることになる。当たり前が当たり前じゃなくなったことで気づけたことは、サヨを「死ぬこと」に向けて前進させる。
「死ぬこと」に向けて前進するって変かもしれないけど、「おわり」って、前進することだったのが泉和良著の『私のおわり』。
前進するなら全てが悪いことでもない。だから安心して終りまで読んでみよう。

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2011.08.17

「私のおわり」のレビュー

鉄

泉和良『私のおわり』

いつか必ず死ぬことを忘れるな

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

『私のおわり』という物語はなんて残酷なのだろうと思った。
この物語は、主人公である「私」が死んでしまったことからはじまり
ひょんなことから死んでしまった四日前に、
幽霊として現れるところから話が動き出す。
「私」は死ぬ前の四日間を再び見ていくことになる。
そしてラストはまた、『私』の死で閉められる。
「私」のおわりからはじまり、「私」のおわりでおわる、
死からはじまり、死でおわる、
なんて残酷なのか。
この物語がせつなさ100%だと謳うなら、
それはどうしようもない残酷な死のせつなさだと思っていた。
再び死へと向かう「私」を思うと、目が潤んだ。

たしかに、「私」は死に向かっていった。
けれども、「私」は死に向かい合っていった。

「私」は当初、死を受け入れてはいなかった。
だからこそ再び、死ぬ前の日常を見ることになった。
なにげない、しかし今となっては特別な日常を目の前にして、
叶わなかった恋を実らせようともがいていって、
「私」はようやく、自分の死を認識していったのだと思う。
友人の語る未来に、好きな人の未来に、
いると思っていたし、いたいと思っていた。
死を受け入れられなかった「私」は、
なにげない未来を思い、初めて未来がないことを認識する。
「私」と、友人や好きな人との間を隔てる、
生と死の溝はあまりに残酷だった。
潤んでいた私の瞳に、涙が流れた。

しかし、「私」の最期の四日間は、
それだけでは終わらない。
「私」はそれから、死と向かい合っていくことになる。
逝ってしまう者よりも残された者の方が辛いのだと、
そんなふうに残された友人たちを案じた。
なによりも辛いのは、死にゆく「私」の方なはずなのに。
つい四日前まで死を受け入れられなかった「私」が、
死と向かい合い、自ら死に向かって歩みを進める。
そんな姿に、涙が溢れた。

たしかに「私」のおわりのはじまりは、残酷なはじまりだったと思う。
けれども「私」のおわりのおわりは、優しいおわりだった。

この物語はせつなさでいっぱいだった。
残酷な死のせつなさが胸に突き刺さった。
残酷な死と向き合う「私」の優しさに、
胸はせつなさでうめつくされた。

「私のおわり」はせつなさ100%の物語だ。
そのせつなさは、残酷だけど優しい。
この物語も、残酷だけど優しい。

読めばきっと涙する。
その残酷さに、
その優しさに、
そしてそのせつなさに。

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2011.07.14

「私のおわり」のレビュー

銅

私のおわり

サヨへの祝福、羨望と嫉妬

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

僕は主人公のサヨを羨ましく思う。そして妬んでもいる。
彼女は天霧君、七原、パリオ君とよく一緒にいる。彼ら4人は仲の良いコミュニティだ。
しかしサヨは恋をしてしまった。天霧君を好きになってしまった。
ところが、なんと七原までもが天霧君に思いを寄せていたのだ。
ここでサヨは大きな選択を迫られることになる。
そう、自分の恋をとるか、それともコミュニティの存続をとるかである。
もし天霧君に告白をしてしまえば、どうしても4人はギクシャクした関係になってしまうだろう。決して今まで通りにはいられまい。

何と重たく気の滅入る悩みであろうか。
実は僕も似たような経験をしたことが、恋と仲間の二択に陥ったことがある。
「自らの欲望に従えばいいじゃないか」
あのときの僕も確かにそう思った。けれど一度ラインを踏み越えてしまえば、いまこの面子で楽しく笑っている時間が消え去るかもしれない。そんな恐怖に僕は怯えていた。
だが結局のところ僕たちには、自分の思いに真っ直ぐになるしか道はなかった。どれだけ辛い未来が待っていようと、いま恋を患う痛みには、耐えきることができなかった。
サヨと僕は前者を、恋を選んだのだ。

やがて僕のコミュニティは崩壊した。
それは当然の帰結であったとはいえ、僕の精神をいたく蝕んだ。
自分に全ての責任があるのだから。言い知れぬ憂鬱が僕の背中に覆い被さっていた。
それはサヨも同じだった。彼女のコミュニティは完全に崩れ去りはしなかったけれど、そこに傷が入ったことに変わりはなかった。
彼女は自らの愚行を恥じて、激しい後悔と自責の念に苛まれた。
そしてそれは同時に、僕の痛みでもあった。

さてここまでが『私のおわり』の物語であれば、僕はサヨと同じ感情を抱いたまま、彼女と傷を共有しながら、本を閉じることができたであろう。
けれどもサヨは僕と違った。彼女は僕よりも強い心を持った女の子だったのだ。

自らの恋が終わったとき、より未練がましいのは男性であると聞く。それが正しいか否かは知らないが、少なくともサヨと僕には当てはまっていた。
あのときの僕はコミュニティの崩壊を受け入れるとともに、それを悔やむことしかできなかった。
同時に、自らその再生を拒んだのである。いままで通りの日常へ回帰する機会を与えてもらったにも関わらず、僕はその手を振り払ってしまったのだ。いわば逃げたのだ。
一方でサヨは違った。彼女は自分らの責任を感じ取った上で、それを超越しようとした。
彼女は自らのコミュニティを何とか復活させようとしたのである。
(実は作中でのサヨは既に死んでおり、魂だけが過去の世界、まだ自分が死ぬ前の世界に戻って来ているのだが)何にも触れられない、誰にも声が届かない状況でも、彼女は何とかしたいと願い続けた。確定している未来に、自分が死んだその先に、残りの3人がいままで通りの仲間でいられるようにと、祈り続けたのだ。
それは本来なら僕だってすべきことだった。僕がしなければならないことだった。
なのにやらなかった。
僕はサヨの悲痛ながらも強い叫びに、過去の自分がいかに愚かで弱い人間であったかを思い知らされていた。

そんな彼女を、決して天は見放さなかった。神様が微笑んだのだろう。
サヨは天霧君に「ごめんなさい」と「ありがとう」を告げる機会をえた。
彼女の願いは聞き届けられたのである。
そしてその二言は、サヨが傷つけたコミュニティを修復するには、もう十分すぎるほどであった。
これで彼女は自らの死を受け入れられる。
だってサヨが死んだ後も、残り3人の関係が壊れてしまうことなんて、きっとないはずだ。

だから僕はサヨを祝福したい。
おめでとう。
恋は叶わなかったけれど、君は大切な人たちを、4人の絆を守り抜いたんだ。
僕にはそんな君がとても羨ましい。君のその強さが、仲間への愛情が。
だから少しくらい、君を妬んでもいいよね。
「おわり」を迎えたそのとき、前を向くことのできた君のことを。

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2011.07.14

「私のおわり」のレビュー

銅

私のおわり

神様の隣

レビュアー:matareyo

「私」こと山上沙代子さんが想いを寄せる天霧君。
天霧君は神様だ。
電子海というネットワークゲームの創造主。
天霧君は働いてはいない。
電子海のカンパウェアで食べている。
作り手との近い距離感。感謝の気持ち。慈善の気持ち。お賽銭みたい。
不安定だけれど、それでも食べてはいける。
なくてはならないものだから。
その世界がかげがえのないものだから。
そういう神様を、神々を、神さんを、私たちは知っている。
これはそんな親しみやすい神様の、その隣に寄り添いたかった物語のような気がする。
でも天霧君は神様のひとりに過ぎない。
みんないつでも隣にいるのかもしれないね。

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2011.07.14

「私のおわり」のレビュー

銅

泉和良『私のおわり』販促ダイレクトメール

本の国から抜き打ちで

レビュアー: k.d.q.

『STEINS;GATE』の話をしながら家族に行ってらっしゃいを言って、玄関のドアを閉めがてら郵便物受けに手を突っ込んだらhuke氏のイラストが入っていたから驚いた。いま閉めたばかりの玄関をがばっと開けて家族を呼び止め「シュタゲの絵の人の絵が入ってた!」と報告したものの誰が何のために入れたのかその時点では分かっておらず、真っ先に頭に浮かんだのは毎週末我が家が夜中にシュタゲのアニメを視聴しているその音量が大きすぎることに対する近隣のどなたかからの無言の警告という可能性だった。しかしよく見ればハガキの右上には「料金特別納郵便 SEIKAISYA」の青い文字。よかった、迷惑しているご近所さんはいなかったんだ、とホッとしたものの改めて考えてみるとhuke氏の絵ハガキの差出人が星海社だった事実は我が家のテレビの音量が大きすぎない保証に全くなっていない。以後、今夜放送のシュタゲ第10話からさっそく、深夜のアニメ鑑賞には静粛を心がけたい。

 そんなふうにして御近所トラブルから我が家を未然に守ってくれたのかもしれない星海社からのハガキについて、感謝の気持ちでレビューしてみる。
 
(1)サイズ

 ハガキではあるが通常のハガキの寸法ではなく、ハガキを縦方向にやや間延びさせたような具合。以前星海社から星猫ストラップが届いたときに使われていた封筒と同じサイズ。この紙を横長に使って、切手を貼るほうの面の(料金別納郵便なので切手の欄に切手は無く、星海社のマークが入っている)右側ほぼ三分の一が宛名とリターンアドレスが記され、残りの面積がhuke氏描く女の子と白黒猫のバストアップ絵に充てられている。 
 横長の用紙を横向きに使ったことでどことなく「招待状」っぽい雰囲気が出ていて、手に取ったとき(正確にはそれが御近所からのブラックメールではないと理解したあとで)嬉しかった。通常サイズのハガキで日々無味乾燥に送りつけられてくる有象無象のダイレクトメールとは受け取った気分がちょっと違う「プチ特別」感、とてもよい。

(2)記載内容

『……そう。これは/私が死んでしまう/四日前の光景。泉和良/私のおわり』
『“死(エピローグ)”から始まる物語。/2011年6月15日星海社FICTIONSより発売予定』
 以上の文面がピンクの活字でhuke絵の印刷されたほうの面に記載されている。ではもう片方の面には何が、と裏返すと、青い背景にでかでかと星海社FICTIONSのロゴ。それだけ。青々とした広大な余白はこれを見る者に「なるほど、このハガキは星海社の新刊の案内のために送られてきたのであってそれ以上でも以下でも以外の何物でもないのだな」と良くも悪くも分からせてくれる。

(3)要望
 
 まず第一に、この家にはオタクが住んでいるということを郵便屋さんに知られて恥ずかしいのでこのハガキはできたら封筒に入れて送付していただきたかった。しかし過ぎたことを言ってもはじまらない。オタクはオタクなのだから逃げ隠れせず開き直って生きろという星海社からの檄として受け取っておく。
 第二に、星海社のロゴで片面丸ごと使うんだったらそっちの面にこそhuke絵を割り振ってほしかった。あるいは、ロゴの左の贅沢な余白に泉和良氏のコメントなり竹さんの星猫イラストなり太田克史のキスマークなり、何かしら書き足してあったらもっと嬉しかった。いや、キスマークは嬉しくないかもしれない。でも貰ってみたら意外に嬉しいのかもしれない。
 
(4)嬉しさ

 タダで貰っておいてああだこうだと要望を書き連ねたけれど、このハガキを郵便受けから出したときの嬉しさはちょっとしたものだった。たぶん他の人たちもだいたいみんなそうだったろうと推察する。と言うのは、星海社の読者層は(私のように星海社の出版物には今のところ手を出しておらず、ただサイトだけを日々覗いているエア講読者も読者の定義に入れていいものとして)読むのと同じに書くのも好きな人間によって結構な割合を占められているのではないかと端で見ていて感じるからだ。
 ものを書くのが好きな人間は出版社から郵便物が来ると嬉しい。今回の星海社からの抜き打ちハガキは私にとって、遠い異国の地から絵葉書が届いたような(この場合「本の国」から)ささやかな非日常体験だった。

(5)レビューの〆としての昭和生まれブルース

 一律に印刷されて一斉に送付される新刊本宣伝ダイレクトメールのハガキ一枚であっても、「郵便物」が届くのは同じ宣伝目的でEメールが届くのとは気分がこんなにも違う。不思議なものだ。同一文面一斉送信の宣伝Eメールは「不特定多数に対して言うだけ言って言い捨てる」感が強く、読んで損した気分になるのに。
 私が昭和生まれだからだろうか? 星海社のこれからを支えていくだろう若い世代にとってはインターフェイスが紙であろうと液晶モニタであろうと大して違わないのだろうか? WEB展開と電子書籍への取り組みに意欲的な星海社からのダイレクトメールでこんなことを考えさせられるなんて皮肉な気もする。

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2011.06.17


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