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「20歳の自分に受けさせたい文章講義」のレビュー

銅

「20歳の自分に受けさせたい文章講義」

これは文章読本の「青い鳥」だ!

レビュアー:オペラに吠えろ。 LordLord

 本書「20歳の自分に受けさせたい文章講座」は、自分の気持ちや考えをいかに文章で伝えるのかという点に特化した一冊だ。ライター歴15年の著者は、この中でさまざまな文章上の悩みに答えてみせる。たとえば、「話せるのに書けない!」「伝わらない!」という基本的なものから、「改行や句読点のコツを知らない!」という技術的なもの、さらには「そもそも文才がない」という根本的なものまで、多種多様な悩みの解決法を授けてくれる。

 しかし、こうした“ノウハウ本”にありがちなのは、読んだだけで満足してしまうということだ。読んでいる最中はぼんやりとわかった気になっているものの、いざ自分でやってみようとなると、何が書かれていたかさっぱり思い出せない……そんな経験をしたことがある人は、決して少なくないはずだ。恥ずかしながら、私にもある。学生時代のことだが、数学の問題集を解答を見ながらやっていたら、そこに書いてある「定理」をどのようにして「実践」すればよいか、全く身につかなかった(てへ)。

 その点、本書が優れているのは、これが「文章について、文章で書かれた本」だということだろう。著者は文章について、数学でいうところの「定理」を説明している。そして、その「定理」を「実践」した文章は、今まさにあなたの目の前にあるのである。もちろん、これは全ての文章読本に言えることかもしれない。だが著者は、その「実践」の効果を最大限に引き出すため、簡潔かつ明確な形で「定理」をまとめてくれている。具体的な例としては、文章のリズムを生み出す「句読点」について、著者は下記のようなルールを掲げている。

 それは、「1行の間に必ず句読点をひとつは入れる」というルールだ。(84)

 その瞬間、あなたは上記の文章にはもちろん、その前後の文章にも、それどころかどこのページを開けても「一行の間に必ず句読点がひとつ入っている」ことに気がつくはずだ。つまり、「理論」を「実践」に導くための例文がこの本には満ちていることになる。それはあなたが文章を書こうと思ったときに、大きな助けになってくれることだろう。

 実を言えば、わたしがこの文章を書いたときにも、本書は常に机の上にあった。だからもしかしたら、あなたはもう気がついているかもしれない。

 え? まだ気がついていない、って?

 ほら、よく見て。

 わたしが書いた文章にも、必ず一つは読点が入っているでしょう?

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2014.02.25

「20歳の自分に受けさせたい文章講義」のレビュー

銀

20歳の自分に受けさせたい文章講義

わがままに読み、届くように書く

レビュアー:ヴィリジアン・ヴィガン WarriorWarrior

 メール、ブログ、ツイッターで欠かせない文章力を見つめなおす本。
 本の中に出てくる「主張」「理由」「事実」の3つがマトリョーシカだという比喩がしっくりこなかったのと(入れ子構造ではなく三本柱で支えている印象)、「行動を動かす」という言葉が重複表現のように感じられて気持ち悪かった。
 なぜこんなことを書いたのかと言えば、著者が勧めるように「思いっきりわがままで感情的な読者になろう」という提案には賛成したからだ。
 そういう意味では「行動を動かされた」かもしれない。
 文章の視覚的な見え方と読みやすさ、自分を理解して欲しいという気持ちを誰にどのように伝えるべきなのか、文章を書く上でのヒントがたくさん詰まっている。
 誰かにメールを書くときも、ラブレターを書くときも伝わらなければ意味がない。
 時間をかけた書いたメールや手紙を、ただの文字の羅列にしないために読んでおきたい一冊。

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2014.01.29

「20歳の自分に受けさせたい文章講義」のレビュー

銀

20歳の自分に受けさせたい文章講義

身体でおぼえろ

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

 文章とは、頭を使って書くものだという思い込みがある。確かに、書くことを決めるのも、順番や構成、結論として何を主張するかを決めるのも、頭だ。だが、ブラックボックスのように仕組みが見えない頭だけで書こうとするから、文章を書くことが特に不可解で難しく思えるのではないだろうか。この本はそんな蒙昧な思い込みをすっきりと整理整頓してくれる、いわば文章の技芸の本だ。

 例えば、文章のリズムについて書いてある文章指南の本は多い。しかし、じゃあそのリズムとは具体的になんだというと、あえて言わなくても分かるだろうとでも言うように、読みやすさだとか音読のしやすさ、というところにとどまってしまう。
 しかし、この本では、文体のリズムを論理展開の簡明さ、正しい文章であること、接続詞をしっかり使うことというふうに、まるで国語の授業のようにひとつひとつ教えてくれる。国語の授業と違うのは、授業を受ける私たちがまさにその知識を欲していて、手を差し出しているというところなのだ。その手のひらにぴったりと欲しい知識が収まると、なんとも言えない快感である。
 他にも、眼で構成を考えること、書くときの自分は一体どこに座るべきなのか、編集はどうするのか、など、どの項目も五感になぞらえるような説明が多い。文章のことを文章で説明しようとすると抽象的になりがちだが、この身体を使った例は分かりやすく、分からなくてもとりあえず真似てみることくらいはできる。習いながら、倣うことができるのだ。

 書くことがないわけでもない。まして、言葉を知らないわけでもない。それでも書けなくて詰まってしまうとき、一体自分はなにをインプットして生きてきたのか、考えたことすべてが無駄なような気がして、途方にくれてしまう。
 だが、文章を書くことは、もともと溢れんばかりにある情報や感情を翻訳し、加工し、取り出して、編集することにすぎない。それは作業であり、工程であり、技術だ。
 才能だと思えば、書くことから逃げたくなってしまう。けれど、技術だと思えば、練習して上手くなることもあるだろう。
 それに、文章を書く機会は増えこそすれ、減ることはない。若いときに、文字通り身体全体を使って染み付かせた文章を書く力は、一生ものの技となってくれるだろう。
 たとえ三色しか絵の具を持っていなくても、やり方さえ知っていれば虹を描くこともできる。
 これは、芸術的な名画を描けるようになるための本ではない。虹を書けるようになるためのハウツー本なのだ。

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2013.07.08

「20歳の自分に受けさせたい文章講義」のレビュー

金

古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』

「文体=文章のコード」を意識して、小説を読解するということ

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 文体とはなにか?
 この問いは難問だ。
 いくら文章を読んでも書いても、この問いの答えを、自分なりの言葉に落とし込むことはできなかった。
 その難問に、古賀さんは簡潔な答えを出していた。
 曰く、「文体とはリズムである」と。

 リズム。
 リズムとは一貫した論理性から作り出される。破綻した論理は、読みにくく伝わりにくいリズムとなって文書に表れる。それが本書の重要な主張だ。
 わかりやすいなあ、と思ったし、納得できる「答え」だった。
 文体とはリズムであり、論理である。
 この言葉に出会ってから、文章を書くときの意識が少し変わった。以前よりも自分の文章に自信もついた。
 が、それだけでない。

 ここからが本題。
 本書を読むことで、他人の文章を読むときの意識も変わった。
 特に、小説に対する意識は劇的に変化した。今まで、読んでいてわけのわからなかった作品が、先の言葉を意識することで、途端に読めるようになったのだ。
 たとえば、円城塔や高橋源一郎といった前衛的作風を持つ作家の作品が、以前よりもずっとクリアに読めるようになった。

「文章には、一定の知識や技術、ルールが求められる。音楽でいうところのリズムやメロディ、コード進行などに該当する部分である」

 これは本書でさらりと語られている部分だが、とても大事なことを語っている。普段、私たちが文章を読むとき、あまりこういったことは意識しない。意識する必要がないから、というよりも、文章の技術やルールは可視化が難しいからだろう。音楽の場合、リズムやメロディ、コードは楽譜などの形で表現できるが、文章では、せいぜいが動詞や助動詞といった文法レベルでしか表現できない。
 ここで言う「文章のコード」は、作品全体を支える「論理性」と言い換えていい。つまり「文章のコード=論理=リズム=文体」だ。
 文体を可視化して取り出すことは難しいから、私たちは、その存在を忘れたまま文章を読んでしまう。その結果、ありふれたコードを持たない小説作品(前衛的な作品など)に出会ったとき、どう読めばいいのかわからずに途方にくれてしまう。

 話が抽象的になりすぎないように、具体的な言葉を並べて言い換えてみると、次のようになる。

 日本の伝統的な自然主義文学(厳密な定義は置いておいて、ここでは、現実のリアリティをそのまま描写している作品、程度の意味とする)に慣れ親しんだ読者が、「文章のコード」を意識したことがないとすれば、「文学的作品とは、現実のリアリティに従って書かれるものだ」という価値観が自然に生まれるだろう。しかし、それは「現実のリアリティ」という「文章のコード」が使われているにすぎない。
 そのような読者は、「現実のリアリティ」以外のコードを用いて書かれた作品を読むのにとても苦労するだろう。
 たとえば、アニメやマンガの「お約束」というコードを知らない読者には、ライトノベルは単に現実と乖離したつまらない物語に見えるかもしれない。
 あるいは、円城塔のデビュー作『Self-Reference ENGINE』の「床下から大量のフロイトが出てきた」という一文は、どう頑張っても「現実のリアリティ」というコードでは読解できない。『Self-Reference ENGINE』は「時系列が意味を持たなくなった世界での論理」という特殊なコードで書かれていて、それを意識せずに読んでも、物語は読み解けないし、作品に対する正当な評価も出てこない。
 円城塔の作風は、「数学的論理」といった言葉で表現されることが多い。これは、自然主義的なコードから離れた作品を書き続ける円城塔の作風をよく表している。インタビューなどでは「(自分の作風のような)作品がもっとあってもいいと思う」と語っている通り、勿論、作者は自分の作品のコードが自然主義的でないことに対して自覚的だ。
 このような考え方が、上手く自分の中で整理できたのは、「文体とはリズムである」という言葉に出会ってからだ。漠然と、円城塔の作品は、他の小説と違うことはわかっていたけれど、果たして具体的に何が違うのか、以前は言葉にできていなかった。
 こういう考えを身につけてからは、以前よりも円城塔の作品が読みやすくなったし、より理解できるようにもなった。
 高橋源一郎の『恋する原発』という小説も、東日本大震災の記憶を「現実のリアリティ」ではなく、「ドキュメンタリーAVの制作」という、「この作家以外にはきっと誰も使わないだろうな……」と思わせる特殊なコードで書かれた前衛的な作品だ。高橋源一郎の意図は、現実をありのままに書くことでは掬い取れない情動や言葉を描くことにある。この読解もやはり、「文章のコード」という考え方なしには導き出せなかった。
 
 より丁寧に、より正確に文章を書く技術を知ることは、読む技術の向上にもつながっている。
 念のため付け加えておくけれど、「現実のリアリティ」で書かれた小説が、特殊なコードで書かれた小説に劣っていると言いたいわけではない。私が言いたいこと、実感したことは、「文章のコード=論理=リズム=文体」を意識することは、小説読解の可能性の幅を大いに広げてくれるということだ。

 今の私は、小説を読むときに「この小説はどういうコードで書かれているのか?」ということを意識するようにしている。この認識がずれていると、大抵の場合、何が書かれているのかよくわからなくなる。逆に、あえて作品の持つコードとは別のコードで読み返すことで、その作品の意図とは全く別の可能性を引き出すこともできる。
「文体とはリズムである」という言葉に出会ってから、以前よりも小説を読むのが楽しくなったのは、言うまでもない。

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2012.06.08


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