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「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

「サエズリ図書館のワルツさん2」

【生と未来と永遠と】

レビュアー:jakigan bla NoviceNovice

「もう一度探し出したぞ。何を? 永遠を。/ それは、太陽と番(つが)った海だ。」『永遠』(ランボー作/堀口大學訳)
 本は歴史的、貨幣的価値が高いから尊重されるのか?そうではない。本は生きている。数多の情報を、知識を、物語を、そして感動を内包しつつ息づいている。いや、本は「生」そのものであるからこそ尊重され、愛されるのだろう。しかし、本は時代を越えて継承されていく内、疲れて病気にもなれば怪我もするし、放っておけばやがて朽ちて死んでしまう。本が人の手と指とによって紡ぎ出された以上、生き永らえさせるのもまた人であり、その技術を持つ専門家のことを「図書修復家」と呼ぶ。
 サエズリ図書館でボランティアをしながら、図書修復家を目指す若い女性、「千鳥さん」は、当代随一の老図書修復家、「降旗先生」に、何度も弟子入りを志願するが、彼はその申し出を「本には未来がない」から「本には延命する価値がない」、だから「わたしの仕事にも価値がないのだ」、と拒絶し続ける。しかし、千鳥さんは思う。「終わる世界に、本が残るかもしれない」、と。だから「命のかぎり、本を直せば。誰かがそのあとを、つないでくれるかもしれない」、と。奇しくも「生きることは働くこと。そして、技術が残れば、生きた証が残るだろう。」という、かつて若き日の降旗先生の言葉通りに。
 ところが弟子入りも叶わないまま、降旗先生は「生」とは正反対の状況に直面し、右手に後遺症が残る事態に陥る。天賦の才能故に、図書修復家の呪縛から逃れ得なかった彼は、千鳥さんに自分が選択できる輝かしい「未来」を見つけなさい、と勧める。しかし千鳥さんは、先生の右腕となることを選ぶ。本という「生」を手助けすることによって、また自らの「生」の意味を問い、「未来」へ進もうと決意する。「生」は確かに有限なのかもしれないが、その弛まない継続と積み重ねとが「未来」へと繋がって行く。そしてその「未来」を繰返し紡ぐことが、いつしか「永遠」へと繋がって行くことを信じて。そして千鳥さんの決意を知った降旗先生もまた、彼女の手を借り、ピリオドと呼ばれる数多の「生」を奪った人類史上最大の人災後の時代に、一度は諦めかけた、図書修復家としての「生」を取り戻し、「未来」へと繋げようと決意する。その二人を支え、貫くものは「愛」。これもまた「生」の、「未来」の、「永遠」の一つの形である。
 そう、「サエズリ図書館のワルツさん2」は、本という「生」を介して巡り会った一人の若い女性と、一人の年老いた男性とが、各々の、そしてお互いの「生」を、「未来」を、「永遠」を探し続けようとする物語なのである。(了)

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2014.06.18

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

「サエズリ図書館のワルツさん2」

A Book is a Book is a Book.

レビュアー:オペラに吠えろ。 LordLord

 つらいことがあったとき、本を読むといいらしい。

 誰もが経験では知っていることだろうけど、海外の大学の研究でも同様の結果が出たそうだ。わたしは専門家ではないので多くの文字数を割くことは避けるが、読書は大脳を活性化させ、それが結果的にストレス軽減につながり、孤独感を薄めてくれるのだという。

 本書「サエズリ図書館のワルツさん」は、そんな読書の効果を改めて教えてくれるシリーズだ。本書を読んでいる人が癒やされるのはもちろん、物語の中ではさまざまな立場の人が読書、ひいては本を通じて、心の傷や悩みを乗り越えていく姿が描かれる。

 シリーズ2作目となる本書では、本が壊れたり汚れたりしてしまったときに本を直す人=図書修復家の話がメインになっている。図書修復家というのは現実にもある職業だが、本書の舞台になっている「紙の本が希少なものとして扱われている」近未来では、さらにその重要性が増している。紙の本がもう出版されていないため、現存する本が破けてしまったからといって簡単に買い直すわけにはいかないのだ。だから、本を“直す”。

 人の心を癒やしてくれる存在である本は、人の手によって書かれ、また直される。それはつまり、本を介してではあるものの、人が人を癒やすということだろう。「サエズリ図書館のワルツさん」では、本によって人と人とがつながり、そのつながりによって人は安心感を得る。本書を読んだときに心が癒やされる気がするのは、作者が本に注ぐ、優しいまなざしを感じるからということもあるだろう。だがそれ以上に、まだ見ぬ誰かが、いつか自分とつながるかもしれない。そんな予感に満ちた物語だから、という気もする。

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2014.03.27

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銀

「サエズリ図書館のワルツさん」

携帯図書館

レビュアー:zonby AdeptAdept

携帯できる、図書館みたいな本だな、と思う。
「サエズリ図書館のワルツさん」は。
本の中に、本物の図書館みたいに莫大な知識や空間がある訳ではない。
中にあるのは活字と物語とイラスト。見た目は他の本となんにも変わらない。
それでも、私は本棚の中に、鞄の中に、手の中にこの本を持つ時、図書館の中にいるような気分になる。
それはきっとこの本には図書館の空気や雰囲気、本と本に関わるすべての人たちの息遣いが、丁寧に凝縮されているからだ。
本を守る人。本に救われる人。本を渡す人。本を愛する人。それに、本を傷つける人。立場も関わり方も違うけれど、その間には必ず本があって、人を繋いでいる。
世界に一冊しかない本も、もう存在しない本もどんなに高価な本も、「サエズリ図書館」では同じ本だ。それを扱う人間だけがその周囲で本の持つ「価値」や「意味」について、様々な意見をもっている。

本について語る時の彼らのことを、とても愛おしく感じる。
物語の筋だけが重要であったなら、「図書館みたいな本」とは感じなかったはずだ。バトルも、推理も、怪異も、一度タネが分かってしまうと何度も楽しむことは難しい。しかし本書で描かれるのは、本さえあれば自分にも起こりそうな人とのささやかな関係や、気持ちの変化である。読む度に、私は本を巡るいろいろな立場の人になり、「サエズリ図書館」を訪れる。

私は図書館が好きで、本のある空間が好きで、静かな雰囲気が好きだ。
何か分からないことがあって困っていても、図書館の本棚を見ているととても安心する。だってこんなに本があるのだ。大丈夫。悲しいことがあっても、図書館に行く。図書館でなら、丁度良い距離感でさびしくなれる。本を一冊とってめくれば、一人だ。そして本を読んでいる一人の人は、図書館にたくさんいる。みんな一人だけれど、一人じゃない。
「サエズリ図書館」も、そんなところだといいな、と思っている。
本がたくさんあって、静かで、少しさびしい。
そんなところ。

私は今日も、本棚に、鞄の中に、手の中に「サエズリ図書館のワルツさん」を携帯する。
大丈夫。
ここには、本がある。

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2014.02.25

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

サエズリ図書館のワルツさん 2

手から手へ、あなたへ

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

 滅多に怒ることのなかった祖母に、珍しく注意されたことがある。それは置きっぱなしにしていた本を、ひょいと跨いだときだった。なんと言って叱られたかは覚えていないが、本を片づけておかなかったことではなく、跨いだことを怒られたのが子供心にずしんと堪えた。
 どんなものであれ、物を粗末に扱うのはいけないことだろう。しかし、それとはまた別の想いから、祖母にとって「本」は跨いではいけないものだったのだ。
 『サエズリ図書館のワルツさん』の2巻は、前巻から引き続き、「三十六時間の戦争」、事実上の第三次大戦といわれた戦争後の世界を描く。この時代では情報を得るのも文章を読むのも端末で行い、「紙の本」は美術的な価値を求めて高値で取り引きされる骨董品のようなものになりさがっている。そんななか、貴重な紙の本を閲覧・貸出している稀有な施設がサエズリ図書館だ。2巻では内定が得られない就活生の千鳥が、このサエズリ図書館を訪れるところから話が始まる。
 千鳥がなりたいと思うのは、終わりつつある紙の本を直すという、図書修復家である。老いた図書修復家が、みずからの人生と仕事とを共に終わらせていこうとするのに出会い、後を継ぎたいと願うのだが、その図書修復家には断固として拒まれてしまう。
 就職が決まらないことへの逃避なのか、体調不良はその言い訳にすぎないのか。思い悩む千鳥は、もがくようにしてサエズリ図書館で「本」の価値を見つけだそうとしていく。

 この物語で語られるのは、「紙の本」への愛着、執着である。しかしそれは、安易な「紙の本」対「電書」の構図をとらない。いや、とれないのだ。この世界では、物資の不足、合理、効率、経費削減といったあらゆる理由で「紙の本」が存在する余剰はなく、それでもなお「紙の本」を読みたいというのは酔狂か、贅沢なわがままということになってしまう。
 サエズリ図書館に集うひとびとが「紙の本」で心の傷みを癒されたように、寄る辺ない不安に確かに「本は効く」のだろう。けれど、どうしてそれが「紙の本」でなくてはならないのか。端末やデータだけではだめなのか。そこはなかなか明確にはならない。おそらくそれは些末なことで、手触りだとか匂いだとか厚みだとか、そういう要件を電書が兼ね備えることができたとしても、それは「紙の本」とは違うから、ただ「紙の本」とは違うといい続けることしかできない類の問題なのだ。
 物語の終盤で千鳥が辿りついた答えは、「端末は、データは結局、繋がるためのツールであり、本は、断絶のためのツール」ということだった。
 繋がるということは、その便利さはいうまでもなく、心理的にも何でも知ることができるような高揚した万能感を感じさせる。その即時性も、今ではツールとして必要不可欠なものだ。
 しかし、一人になりたいとき、自分がいる場所をじっくり確認したいとき、周囲から隠れたいとき、プライベートが守られていないと感じるとき。
 人は本を開く。ほっと息をつく。
 その光景は場を作る。話しかけてはいけないと思わせるような、疎隔された場を。
 それは合図でもある。集中と空白、緊張と弛緩の。
 網の目のような情報の間で動き回っている自分を捕まえ、自分で自分を抱きしめてやって、そうして初めて、どこが傷んでいるのか、調子が悪いのか、確認することができる。情報や誰かの助けを求めて繋がりたいと思うのは、おそらくその後の段階なのだ。

 生きることは働くこと。
 「仕事」を見つけだし、どんなに価値がなさそうな仕事でも選び選ばれ、それに人生を捧げることをむしろ喜んで千鳥は泣いた。そんな千鳥の手が支えていくのは、終わりゆく「紙の本」の時代の延命である。
 本とはやわなものだ。破れたり頁が取れたり、濡れたり黴びたり虫に喰われたりする。手垢がつき、開き癖がつき、日に焼けて色が変わる。
 だが、同時に、本とは案外と丈夫なものだ。適切に管理し修復すれば、思いの外、保つ。手になじみ、傷んだ風合いも持ち主にとっては愛着となる。そのタフさ、痕跡を残していくことから、人は本に対して同じ時間を生きている同志に近い感情を持つのだろう。
 本の著者が、小説なら登場人物が、勇気をもってその人間性や知性を曝けだそうとするなら、読者もまた居住まいを正して向き合うのが礼儀なのかもしれない。
 間違ったことが書いてあるかもしれない。古かったり、とても賛成できないような主張がされているのかもしれない。けれど、一冊の本の章と章、頁と頁、あるいは文と文のあいだの襞に折り畳まれたそこには、やはり「誰か」がいる。「誰か」が生きて為してきた「仕事」が、膨大すぎて見渡すことのできない世界から断絶され、切り取られてきて、ありのままの姿で今手のひらの上に乗っているのではないか。
 本を跨いではいけないというのは、つまりはそういうことなのだと思う。
 紅玉いづきは、ずっと「大事なもの」を書いてきた作家だ。それもどちらかというと、誰もが大事だからと保護するような、当たり前の「大事なもの」ではない。小さかったり目に見えなかったり、壊れやすかったり歪んでいたりして、どこか途方に暮れたみなしごのような、そんな存在に執拗に激励といたわりのまなざしを向けてきた作家である。
 インタビュー等によると、彼女は手書きの作家でもあるらしい。大学ノートを必死に埋めたエピソードなどを読むと、微笑ましいのと鬼気迫るのと、まるで正反対の印象を受けるが、その一番最初にできあがる原稿が「紙の本」であることはきっと偶然ではない。
 作家とこの小説の題材も、出会うべくして出会った天命、幸福なマリアージュだったのだ。

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2014.01.29

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

サエズリ図書館のワルツさん

紅玉いづき史

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

 作家だって歳をとる。
 たとえ少年少女を描いてきたライトノベル作家であっても、今は一般レーベルで執筆する機会がどっと増えた。そうなると描かれる主人公も高校生ではなく、大学生や社会人であることが多い。作家の加齢と共に、物語の主人公も大人になっていく。ライトノベルがデビューではないが、分かりやすい例を挙げるなら綿矢りさの作品などまさにその通りだ。17歳でデビューした綿矢りさも作品の主人公は生き生きとした、しかし人物像としてはかなりけだるげな女子高生だった。そして30歳も目前に控えた現在は、職場や恋愛や結婚適齢期に悩む女性を主人公に描いている。間違いなくデビュー当時は書けなかった作品だろう。こんなことを言うと性差別だと怒られそうだが、一般に女性作家の方が時と共に主人公の年齢が上がりやすい気がする。学生就職結婚出産と、人生における環境の変化が劇的で、機会も多い為かもしれない。

 そして『サエズリ図書館のワルツさん』の作者紅玉いづきも、綿矢りさと同じく時と共に作品が変わってきた作家の一人だ。

 私は紅玉いづきのデビュー作、『ミミズクと夜の王』が大好きだった。ライトノベルより児童文学に近いファンタジー作品で、主人公のミミズクと名乗る少女は元奴隷で不幸な生い立ちにもかかわらず、あっけらかんとしていて芯の強いところが魅力だった。今でも私のデスクにはいつでも手に取れるように、未読の本のすぐ隣に『ミミズクと夜の王』が並んでいる。

 デビューから数作、紅玉さんはファンタジー作品を書いた。ミミズクと同じく、一本芯の通った少女が主人公。手に取るたびに私はいつも泣かされた。しかし変化が如実に感じられたのは4作目、メディアワークス文庫で出された『ガーデン・ロスト』だった。これはファンタジーではない。仲良しだった女子高生4人が、お互いの未熟さで傷つけ合って仲違いしたりする。そこには理想も魔法もなく、ただ現実が横たわっていた。作家が時と共に作品を変えていくのは悪いことではない。同じく歳をとって生きている私だって、成長すれば感じ方も変わるし環境も変わる。中学生の頃なら無理だったかもしれないが、当時『ガーデン・ロスト』は面白く読めた。
 しかしそれでもデビュー作に感じたものは、もう新しい作品では読めないんじゃないかという不安があった。

 作家だって歳をとる。私が紅玉さんの作品で次に読んだのは『青春離婚』だった。高校生の物語であるが、夫婦と離婚をテーマにした悩ましい人間関係を描いた作品だった。

 そしてさらに次が『サエズリ図書館のワルツさん』。とうとう主人公は大人の女性になった。私は出版されてからしばらく手に取れなかった。私の好きだった紅玉いづきの作品ではないかもしれない。恋人や友人と傷つけ合ったり、職場や結婚に悩んだりするのは別に嫌いな物語でもないが、好きかと問われればまあ普通。面白く読めても作家の変化に寂しい気持ちになるかもしれない。実際に読んでみると、いまいち主人公のワルツさん同調できない自分がいた。作家だって歳をとる。

 この寂しい気持ちに変化が訪れたのは、『サエズリ図書館のワルツさん』を読んでしばらく経ってからだ。『サエズリ図書館のワルツさん』がコミカライズされた。ビジュアル化されたサエズリ図書館は美しい近未来の図書館で、司書のワルツさんも魅力的な女性だと改めて思った。けれどきっかけは別のところにある。作中でワルツさんがカミオさんに薦めていた本のタイトルが絵の中に映り込んだ。原作では大人の都合か、作中紹介される本のタイトルが一切でない。私はずっと気になっていた。そのタイトルは『モモ』。せっかくだから私も読んでもみた、もちろん図書館で借りてきて。

 『モモ』の主人公モモは身寄りのない女の子で、施設から逃げ出して都会のはずれにある劇場跡地に住んでいた。モモの特技は悩んでいる人の話を聞くこと。人々はモモに話をしている内に、自然と答えが見つかって晴れやかな気分になった。ゆっくりとした時間の中で生きるモモに、すべての人間から時間を奪おうと目論む時間泥棒の魔の手が伸びる。助けてくれたのは友人たちと、時間を司るマイスター・ホラ。清浄で芯の強い少女が困難に立ち向かう、そんな話だ。 

 私には自然と連想するものがあった。『モモ』のモモと、『ミミズクと夜の王』のミミズクはよく似ている。どちらも不幸な生い立ちの、芯の強い女の子。
 ワルツさんはそんな本を悩める社会人カミオさんに薦めた。ワルツさんにとってモモの物語は何か感じるものがあり、カミオさんにもきっと得るものがあると思ったのだろう。それが分かると、私の中でワルツさんを見る目が大きく変わった。ワルツさんもまた、モモやミミズクと似た過去をもっている。戦災孤児で施設に入れられ、義父となった割津義昭に引き取られた。義父の愛情と本の魅力に触れる内、今の明晰さをもつワルツさんになったのだ。そして愛する義父を亡くした。

 ワルツさんはモモでミミズクだった。『ガーデン・ロスト』の少女たちで、『青春離婚』の佐古野さんだった。不幸を背負ってなお立ち、愛情と幸福を獲得し、それを失い傷つき大人になった。不幸も幸福も経験し、傷つき挫けることがあっても、なお強く自分の意志を貫こうとするワルツさんの姿は、紅玉いづきの描いた主人公たちの到達点であり、未来への通過点でもある。ワルツさんは強い意志こそ持っているが、どこか歪さも併せ持っている。お腹の子供に絵本を読んであげたい女性に、本の一冊も譲らない。あくまで貸すだけ。自分がずるいことも分かっているが、それは元々愛する義父の本で、自分にはどうしようもないと諦めている。

 作家は歳をとる。だけどそれは変わってしまうことではなく、作家も作品もかつての自身を土台にして存在している。私はもう紅玉いづきの新しい作品を読むことに寂しさを感じたりはしないだろう。時間と経験を経て書かれたそれらを読むのは、かつて好きだった作品の続きを読むのと同義だと思ったからだ。

(高井舞香を支持)

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2013.07.08

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

サエズリ図書館のワルツさん

花を探しに行きませんか?

レビュアー:jakigan bla NoviceNovice

「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花が好きだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。」―星の王子さま―
 さえずり町という名の、のどかな街の素敵な図書館にも、幾つもの「星」があって、そのどれかに咲く「花」を探しに、今日もいろんなお客さんが訪れます。お客さんの好きな花の色や形、咲いている場所や季節はまちまちですから、やみくもに探しても迷うばかり。でも大丈夫。素敵な図書館には、そこに似合いのとびきり素敵な「司書」さんがいるのです。ここ、サエズリ図書館の全ての星=本を統べる人、それが「ワルツさん」です。
 図書館は映画みたいに、戦争をする所ではありませんが、残念ながら、戦争によって失われてしまう所ではあります。過去には、蔵書70万巻(当時の本は巻物)を誇ったアレクサンドリア図書館が、異教徒による攻撃によって喪失しました。そしてワルツさんの生きる「未来」では、身の丈に合わぬ大量破壊兵器を手にした人間の引き起こした「三十六時間の戦争」によって、世界中のありとあらゆる図書館が喪失しました。この戦争によって戦災孤児となった彼女を救ったのが「パパ」であり、分身である「本」でした。だから彼女は時折パパの形見の煙管を燻らし、全身全霊を込めて本を愛し、守るのです。USBメモリ一つに置き換えられ、PCで瞬時に、自在に取り出せるものなんて、「情報」であって「本」じゃない。それぞれの本の中に、それぞれの花がある。本の中には人生がある。だから擦り減ったり、ちょっぴり折れちゃったりする。本の中には命がある。だからそれぞれの固さや重さを感じる。そして、本の中には心がある。だから愛おしく抱きしめられる。本は内容だけではなく、本それ自体に価値がある。ワルツさんはきっと、そう考えているのでしょう。「書物は一冊一冊が一つの世界である」と、かつてワーズワースが言ったように。
 さて、あなたの好きな「花」も、きっとサエズリ図書館の「星」のどれかに咲いているはずですよ。とっておきの紅茶でも飲みながら、ちょっと気の利いた音楽でも聴きながら、探しに出掛けてみてはいかがですか?いつでもワルツさんがご案内します。そして、「やわらかで若々しい、けれど落ち着きのある笑顔」を見せながら、あなたにこう言うのです。「それでは、よい読書を」と…。

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2013.07.08

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銀

サエズリ図書館のワルツさん1

本にまつわる物語が多い理由

レビュアー:オペラに吠えろ。 LordLord

 本にまつわる物語を読むのはわたしにとって、とても心躍ることだ。本好きには、きっと同じことを思う人は多いだろう。

 「古本屋探偵の事件簿」(紀田順一郎)、「ビブリア古書堂の事件手帖」(三上延)、「れんげ野原のまんなかで」(森谷明子)、「夜明けの図書館」(埜納タオ)、「本屋の森のあかり」(磯谷友紀)、「愛についてのデッサン」(野呂邦暢)、「晴れた日は図書館へいこう」(緑川聖司)、「おさがしの本は」(門井慶喜)……ちょっと考えただけで、これだけの本にまつわる物語を思いつく。ここにわたしの知らない物語を加えたら、その数がどれだけ膨れあがるのかはわからない。それだけ、「本」と「物語」の組み合わせがいいということなのだろう、きっと。

 「サエズリ図書館のワルツさん」も、そうした系譜に連なる物語の一つだ。ただし、舞台は「本」がとても貴重になった近未来。電子書籍が当たり前になっており、本(紙でできた書籍)は嗜好品になっている。「サエズリ図書館」はそんな世の中において膨大な数の本をそろえている場であり、そこでさまざまな人が出会い、物語が紡がれていくことになる。

 そんな設定なので、本に対する考え方は、今を生きるわたしたちとはだいぶ違う。それはもう、ファンタジーといってもいいほどに。そこに至るまでには、何らかの戦争が起こったことが一つの要因になっていると作中に示されているので、世界観自体が現在からは隔たったものであることは確かなのだけれど、それは物語の序盤ではほとんどストーリーに絡んでくることはない。だから言ってみれば、「本」に対する扱いが一つ違うだけで、世界はここまで違ったものに見えるのだ、というのが驚きだった。

 だけど、これまで言ってきたことと矛盾するかもしれないけれど、そんな本書を読んでいるあいだ、わたしはずっと、物語の中の出来事が他人のことだとは思えなかった。生きる時代も、場所も、価値観も違うのに、どうしてわたしはこんなにも彼らの気持ちがわかるのか。本にまつわる人々の思いはいつも変わらないということなのかもしれない。作者の腕が優れているからなのかもしれない。でも、そうしたこととは違う何かがあるような気がずっとしていた。「リアリティー」というのとはちょっと違う、彼らの世界が、わたしたちの世界と地続きであるような感覚が。

 だからこそ、作者の紅玉いづきがあとがきで、「二〇一一年の春、この国をおそった震災の中、もしかしたら、本はなくなるのかもしれない、と思いました」と書いているのを見たとき、すべてが腑に落ちた。この本で描かれているのは、そういう世界なのだと。作中では戦争が要因の一つだと描かれているけれど、それは「災害」でも置き換え可能だった。いや、もしかしたら、何かのきっかけで「本」が貴重になり、本の中で描かれているようなことが現実でも今、起こっているのかもしれない。実際、2年前にはわたしたちの身に起こりかけたじゃないか、と。

 こうしたことを書くと、この物語を説教くさいものだと思う人がいるかもしれない。でも、それは間違いだ。わたしが上で書いたようなことは、この物語のほんの一側面でしかない。けれどもわたしは、そのことに気が付いたとき、作中で描かれている本と人との出会いが、そして人と人との出会いが、たまらなく愛しいものに思えたのだ。人がいつか死ぬように、本はいつかは朽ちる。だからこそ、人と本が出会ったとき、そこには物語が生まれる。

 それが、本にまつわる物語が生み出され続けている理由なのかもしれない。

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2013.07.08

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銀

サエズリ図書館のワルツさんI

本への愛を伝える人たち

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

 本はあくまで手段であって、目的は本の中身を読むことだと思っています。だから僕にはワルツさんが遠過ぎて見えませんでした。資源が枯渇し、紙と本自体が希少価値を持つようになってしまった世界で、図書館を守るワルツさんの愛は、深く重くどうやって理解すればいいでしょう。
 どうか教えてください、カミオさん。
 本を読んだことがなかったカミオさんは、装丁の工夫や紙の質、どれも新鮮で価値のほどを計ることができません。さればこそ、その視点は僕が本を目にするものと近いと分かります。カミオさんがワルツさんとサエズリ図書館に触れる内に気づいた紙の本の魅力はなんだったか。
 しおり代わりの本付属の紐、時間経過の紙の色、または自分が読んだ証の開き癖でした。
 些細なことかもしれません。僕も同じ作品が出版されている新潮文庫と岩波文庫、どちらを選ぶか悩んだことがあります。しおり紐が付いていて柔らかい紙の新潮文庫か、作品の持つ重厚感を紙質と表紙の厳粛さで表現した岩波文庫か。気分によって選びました。本屋に行って目的の本を手に取る際、平積み一番上の本を除けて、二番目の本を購入したりもします。みんなやるよね。
 これらは些細な、しかし確かな紙の本への愛です。カミオさんがサエズリ図書館に通う内、徐々に本への愛に目覚めていく様が作中では描かれます。彼女はワルツさんを追っている。遠過ぎて見えなかった姿が、僕もカミオさんの足跡で追っていると見えるような気がしてきます。
 あえて一つ挙げるのなら、ワルツさんの信じる本の魅力は、決してなくならない本を手に取る人の思い出。図書館という場所で、紡がれ折り重なっていくそれは摩耗ではなく、熟成されていく味でした。読書初心者のカミオさんが手に取るのも、ワルツさんにとっては嬉しいコクとなっていきます。
 僕にとって各話毎に語り部となる本を愛する(または愛するようになる)登場人物すべてが、この作品の司書役でした。そしてもし物語がさらに続くのなら、いずれワルツさんの本への愛も全景が見える位置にたどり着ける。そんな楽しみをこの作品は有していると思います。

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2013.06.22

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銀

サエズリ図書館のワルツさん1 サエズリ図書館のカミオさん

ヒト本を読む

レビュアー:Panzerkeil AdeptAdept

「アレキサンドリアを忘れるな」この物語のキーワードです。それはアレキサンドリア図書館を意味する。この図書館は紀元前300年頃にエジプトのアレキサンドリアにあって世界の叡智を収集していたと言われています。
例えばホメーロスの作品群を最初にテキスト化したのは、アレキサンドリアの司書達だったと言われています。しかし、この図書館はやがて、その価値を理解しない侵略者によって完全に焼かれ、破壊されてしまいました。
ホメーロスの今に残るオデュッセイアは、その精華の残ったごく一部分に過ぎないという話もあります。例えば源氏物語はそのうちの数帖しか残っていないとしたらどうでしょうか?僅かに残る断片がこれほど輝かしいものであるならば、消滅してしまったものにどれほどの価値があったでしょう?
ただ、このキーワードには、ただ本を守る事が重要だ、というだけでなく、もう一つの意味があると思います。それは、本は人に読まれてこそ、その存在に意義があるという事です。僅かであっても、破壊を免れた本は人の目に触れることで永遠の存在となりました。どんなに素晴らしい本であっても、誰にも手にとって貰えなければ、その本は存在しないのと同じなのです。
ちょっとツイてない事が多く、気分が沈んでいたOLカミオさんが、たまたま出会った私設の「サエズリ図書館」と司書のワルツさん。
最初はごくごく平凡な本好きの人々の物語だろうと考えていたのですが、徐々に世界観が見えてくると、思いのほか重いテーマも含んでいるお話でした。
紙の本が何度も消滅しかけ、更には電子書籍のデーターさえ失われつつある世界に残された、いまある「アレキサンドリア図書館」を守る人々。
しかし、図書館の書庫がどんなに貴重な稀覯本ばかりであっても、ワルツさんは本の貸し出しを止めることはありません。本は人に読まれるために存在している事を彼女は信じているからです。
人は何故本を読むのか、それは本が好きだから、確かにその通り。
自分もかつては本が大好きでした。中学生の時に昼食のパンを買うために貰ったお小遣いを使わず、空腹を何日も抱えても好きな本を買った事を思い出しました。
今ももちろん本が好き。もはや本を読むのは人生の一部となっています。この作品はKindleで読みましたが、紙の本もまた捨てる事はできません。
そんな想いを触発される作品です。

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2013.06.11

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

サエズリ図書館のワルツさん

触れられるということ

レビュアー:カクラ・メロンソーダ AdeptAdept

電子書籍と紙の本の違いは、物語という意味では全く差がないです。電子書籍に否定的な意見はよく聞きますが、本の本質は物語なのだから、どちらでも良いということになりそうですが、じゃあ何故紙がいいのだろう?と思うと『触れられる』ということしかないと思います。この物語りは多分10〜30年後位の日本の、ある図書館の話なのですが、教科書が電子書籍子化していて、子供達が紙の本を珍しがっています。紙の本を未だに大切にしている主人公の割津さん(司書・眼鏡っ娘)、上司に怒られてばかりでマイナス思考な上緒さん(20台前半OL)、古藤さん(ジャージ眼鏡っ子人妻)など、ポイントを抑えた登場人物は、キャラ立ちし過ぎることなく、物語の本筋を優しく飾ってくれています。触れられるということは多分、それを読んだ頃に自分は何をして過ごしていたか、どんな事が好きだったか、そんな記憶も強く紐づくんじゃないでしょうか。だから、きっと紙がなくなることはないんだろうな、と気付かせてくれる物語です。

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2013.05.29

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

サエズリ図書館のワルツさん

電子書籍が普及した後の話

レビュアー:カクラ・メロンソーダ AdeptAdept

本が好きな人に理由を聞くと、『触れられる』ということが多いと思います。あと、電気のない地域でも読むことができますよね。この物語りは多分10〜30年後位の日本の、ある図書館の話なのですが、教科書が電子書籍子化していて、子供達が紙の本を珍しがっています。紙の本を未だに大切にしている主人公の割津さん(司書・眼鏡っ娘)、上司に怒られてばかりでマイナス思考な上緒さん(20台前半OL)、古藤さん(ジャージ眼鏡っ子人妻)など、ポイントを抑えた登場人物は、キャラ立ちし過ぎることなく、物語の本筋を優しく飾ってくれています。触れられるということは多分、それを読んだ頃に自分は何をして過ごしていたか、どんな事が好きだったか、そんな記憶も強く紐づくんじゃないでしょうか。物語を楽しむだけであれば、電子書籍は本に何も引けは取らないとこの話の中の一文にあります。この本を電車などでひっそり読んで、これからの本の行く末に思いを巡らしてみると面白いと思います。

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2013.05.29

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

『サエズリ図書館のワルツさん』 紅玉いづき

物語を守る人

レビュアー:zonby AdeptAdept

ワルツさん。
職業はサエズリ図書館代表、特別探索員。
本というものが、本として製本されたものを読むことが珍しく、贅沢な趣味となった時代。
彼女はそこにいつも存在し、訪れた人に最もふさわしい、必要な、求める本を静かに差し出す。

ずっと、図書館の人になりたいと思っていた。今でも、結構まじめに思っている。
いつでも自分の好きな本に囲まれて、新刊や個人では手に入らない貴重な本。それらに触れて毎日を過ごす。
私は本が好きだ。
だからそんな毎日を過ごせたら、きっと楽しいだろうな、と想像する。
想像だけ、する。

けれど、本当に本を、物語を好きなだけではなく、「守る」ということは、楽しいだけでは済まないし、何かを負わねばならない時もあり得る、ということを、私はこの本を読んで考えるようになった。

本を読む趣味なんてなかった人、本を本当に必要としている人、本に思い出を持つ人。本に対していろいろな想いを持つ人が、サエズリ図書館を訪れる。
その中で私にとって一番強烈なエピソードは、一冊の本を盗んでしまった人の話だ。本を図書館に戻すためにやってきたワルツさんに、その人は言う。
「一冊ぐらい、一冊ぐらい、いいじゃないですか!!」
その本は一冊しかなかったのだ。
本当に、一冊しかなかったのだ。
ワルツさんは、渡さなかった。
ただ、こう言った。
「本は死にません」「わたしはここにいます」
と。
本が好きだから知っている。狂おしいほど手元な置きたい本があることを。
本が好きだから知っている。何冊もの本が、茶守ることのできる者の手になければ、いとも容易く消えていってしまうことを。

私はただの本好きで、図書館の人ではない。ワルツさんはキャラクターで、サエズリ図書館も存在しない。でも本だけは確かにここにある。本は、死なない。
私はワルツさんにはなれないけれど、でも、本を、物語を守る人にはなれるかもしれない。
だからせめて、こう言おう。
私の力では守り切れないものはたくさんあるだろうけれど。
それでもせめて。
本に触れる全ての人に。
「それでは、よい読書を」
と。

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2013.05.29

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

銅

紅玉いづき『サエズリ図書館のワルツさん 1』

人の魂と人の形

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

(高井舞香を支持)

 私はこの本の次の言葉に、強い感銘を受けた。

「データは魂かもしれない。けれど、魂には、なんの形もない」

 以前、京極夏彦の『魍魎の函』を読んだ時、強く記憶に残った場面がある。首から上だけを鉄の箱に入れられた男が、こんな姿となった自分の意識は、もはや人間ではなく、魍魎だと語る場面だ。魍魎の詰まった箱である自分は、魍魎の函だと、男は語っていた。怖い場面だった。
 人間には魂がある。意識がある。でも、それだけでは人間ではない。魂があって、人間としての体があるから、人間なのだ。
 本も同じなのだと、『ワルツさん』を読んで思った。
 文字はデータだ。本の本質は、その内容=データにあるのかもしれない。でも、その本質(データ)が「本」として存在するためには、「本としての形」が必要なのだ。
 人間も本も同じなのだ。
 魂には形が必要だ。
 形がなければ、私たちは「本」や「人間」を認識することができない。
 そして、形のないものを、愛し続けることも難しい。

『ワルツさん』では、たくさんの出会いと別れが描かれる。人と人の出会い。人と本の出会い。そして、人と人の別れ。人と本の別れ。
 それらはすべて、人が人を愛することについての寓話にもなっている。

 作中の台詞に、こんなものがある。
「わたしが死んでも、本は残る」
 魂が失われても、その魂を宿した形が残ることもある。
 だから、誰かが死んでも、必ずしも、その人への愛がなくなるわけではない。
 この、失われることに対する、前向きさを示すメッセージが、私にはとてもすがすがしく感じられた。

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2013.05.29

「サエズリ図書館のワルツさん」のレビュー

金

『サエズリ図書館のワルツさん』 紅玉いづき

小さなものになりたい

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

 わたしは図書館には縁のない子供だった。
 家の近くに図書館はなく、学校の図書室は決められた時間以外には鍵がかけられていた。田舎であれば大きな書店もなく、いろんなジャンルの本が視野を埋め尽くすという経験をしたのは、本好きの割には遅かったような気がする。
 制限の多い状況で、それでも読みたいときどうするか。ひとと貸し借りをした。
 友人にライトノベルを借り、近所のひとに児童文学の全集を借り、同級生のお父さんやお母さんからSFや大河小説を借りたこともあった。もはや誰の所有なのか分からないくらいに教室内を回っている本もあれば、自分の本がすっかりくたびれて返ってきたこともあった。
 何人もの人間の手のひらに置かれ、読みとられ、熱心に繰られたものが、まだ原形を留めて変わらずに残っていることがわたしには不思議だった。初めて「存在」について考えたのは、思春期らしい自己のことではなく、本についてだったと思う。

 『サエズリ図書館のワルツさん』の舞台となる世界は、大きな戦争があり、紙やあらゆる資源が貴重となっている。本は高値で取り引きされる嗜好品であり、ほとんどのひとは端末でデータとして文章を読む。本、というと、好事家や学者のためのものであり、紙媒体で読むということは、よっぽどの変わり者か無駄に資源を使う金持ち趣味の持ち主、ということになる。
 ネットワークに頼りきっているのに電力の供給は不安定、汚染物質だらけの都市、長生きできるか分からない子供たち、不安と不穏に慣れたひとびとの心の表層は、それでも凪のように静かだ。あきらめなのか許容なのか、それぞれが分相応の範囲、持てる能力で、生きていかなければならないという意識が、そこにはある。
 不便だが、それほど酷くはない。食べることができ、いつ殺されるか分からないという状況ではないのだから、言うほど最低最悪でもない。
 けれど、それが息苦しくない、泣きわめきたいくらいつらいわけじゃない、ということにはならないのだ。

 作中で読書について表現される言葉が「遠くまで飛べる」だ。
 登場人物のひとり、娯楽の読書だけでなく、図書館のレファレンスサービスもよく利用するコトウさんは言う。

 DBで調べたら、調べたことしか、わからないだろう?
 わたしはねぇ、ワルツさん、
 知らないことを、知りたいんだよ。

 狭い人間関係のなかで、好みでなくてもそれしかないという理由で読んだ本。もううっすらとしか覚えていない、たくさん積み上げてきた本。
 思えば、それらの本は、わたしを遠くへ飛ばしてくれた。理解などできなくても、窓を開けてくれ、道を造ってくれた。決して膨大な選択肢のなかから選んだわけではないけれど、彼らはわたしのなかに「知らないこと」を、たくさんの果実をつけた木が無造作に身をゆするように落としていった。
 必要な部分だけを拾い読む読書法もあるし、調べものをするときに一冊まるまる読み通すこともない。けれど「本」というひとつのコンテンツを与えられたとき、最初から最後までつい目を通してしまう、関係ないところまで読んでしまう、あるいは呼ばれたかのように別のページ、本棚の前にいるのなら別の本、に手が伸びる。
 終末に近づいているように見え、悪い方向にしか向いていかないように思える社会、それらの圧迫感は凄まじいが、それらよりも必ず死ぬと決まっている人間の方がずっと小さい。人間のその小ささに気づいたとき、未知の、空白の部分が、ようやく知性としてわたしたちを自由にする。
 「知らないことを知る」こと。「知らないことが在る」ことを知ること。それが「遠くへ飛ぶ」ことなのだろう。
だからワルツさんは、どんな貴重な本でも原則貸出をすることにし、コトウさんは高価で前時代的な「本」を娘にあげたいと思うのだ。

 紙媒体以外の電子書籍、タブレットやコンピュータのディスプレイで文章を読むことが増えてきた現在のわたしたちにとって、ここで描かれる世界は遠く隔てられているわけではない。どちらも一長一短があるが、電子書籍の便利さには紙の本はたちうちできないだろうし、新たなメディアができた分だけ読書人口は増加するかもしれない。それは単純に喜ばしいことだ。
 データは魂だと、ワルツさんはいう。登場人物たちは、本によって、少しずつぬくめられ養分を得て、変質していく。それがデータだけでは起こり得なかった反応だというのが、読んでいくうちに分かる。
 わたしは貸し借りのすえにすっかりぼろぼろになった本を思い出し、紙の本も、書店も、古本屋も、図書館も、なくならない世界/社会であってほしいと、こころから思った。左手から右手へ頁を繰っているうちに、なにか大きなものを操っているような、自分の時間とは別の砂時計を傾けているような、そんな気分を愉しみつづけたいという我儘のために。

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2013.05.29


本文はここまでです。