紅玉いづき『サエズリ図書館のワルツさん 1』
人の魂と人の形
レビュアー:USB農民
(高井舞香を支持)
私はこの本の次の言葉に、強い感銘を受けた。
「データは魂かもしれない。けれど、魂には、なんの形もない」
以前、京極夏彦の『魍魎の函』を読んだ時、強く記憶に残った場面がある。首から上だけを鉄の箱に入れられた男が、こんな姿となった自分の意識は、もはや人間ではなく、魍魎だと語る場面だ。魍魎の詰まった箱である自分は、魍魎の函だと、男は語っていた。怖い場面だった。
人間には魂がある。意識がある。でも、それだけでは人間ではない。魂があって、人間としての体があるから、人間なのだ。
本も同じなのだと、『ワルツさん』を読んで思った。
文字はデータだ。本の本質は、その内容=データにあるのかもしれない。でも、その本質(データ)が「本」として存在するためには、「本としての形」が必要なのだ。
人間も本も同じなのだ。
魂には形が必要だ。
形がなければ、私たちは「本」や「人間」を認識することができない。
そして、形のないものを、愛し続けることも難しい。
『ワルツさん』では、たくさんの出会いと別れが描かれる。人と人の出会い。人と本の出会い。そして、人と人の別れ。人と本の別れ。
それらはすべて、人が人を愛することについての寓話にもなっている。
作中の台詞に、こんなものがある。
「わたしが死んでも、本は残る」
魂が失われても、その魂を宿した形が残ることもある。
だから、誰かが死んでも、必ずしも、その人への愛がなくなるわけではない。
この、失われることに対する、前向きさを示すメッセージが、私にはとてもすがすがしく感じられた。
私はこの本の次の言葉に、強い感銘を受けた。
「データは魂かもしれない。けれど、魂には、なんの形もない」
以前、京極夏彦の『魍魎の函』を読んだ時、強く記憶に残った場面がある。首から上だけを鉄の箱に入れられた男が、こんな姿となった自分の意識は、もはや人間ではなく、魍魎だと語る場面だ。魍魎の詰まった箱である自分は、魍魎の函だと、男は語っていた。怖い場面だった。
人間には魂がある。意識がある。でも、それだけでは人間ではない。魂があって、人間としての体があるから、人間なのだ。
本も同じなのだと、『ワルツさん』を読んで思った。
文字はデータだ。本の本質は、その内容=データにあるのかもしれない。でも、その本質(データ)が「本」として存在するためには、「本としての形」が必要なのだ。
人間も本も同じなのだ。
魂には形が必要だ。
形がなければ、私たちは「本」や「人間」を認識することができない。
そして、形のないものを、愛し続けることも難しい。
『ワルツさん』では、たくさんの出会いと別れが描かれる。人と人の出会い。人と本の出会い。そして、人と人の別れ。人と本の別れ。
それらはすべて、人が人を愛することについての寓話にもなっている。
作中の台詞に、こんなものがある。
「わたしが死んでも、本は残る」
魂が失われても、その魂を宿した形が残ることもある。
だから、誰かが死んでも、必ずしも、その人への愛がなくなるわけではない。
この、失われることに対する、前向きさを示すメッセージが、私にはとてもすがすがしく感じられた。