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「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銅

「星の海にむけての夜想曲」

「救いのなさの中の光」

レビュアー:zonby AdeptAdept

まず、正直に言おう。
驚いた。
「星の海にむけての夜想曲」には「救い」がある。

佐藤友哉という作家の小説を、私は今まで「救いのなさ」と共に読んできた気がする。
妹を殺され、犯人の娘や孫を誘拐してゆく「フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人」から連なる鏡家サーガ。個人で小説を完成させる小説家ではない、集団で物語を完成させる「片説家」なる職業を創造し、小説を書くことについて語り尽くした「1000の小説とバックベアード」。姥捨て山を題材とし、老婆VS.ヒグマという異色の死闘を描いた「デンデラ」...。
そのどれもがしっかりミステリとして解決し、物語として完結し、戦いとして完了していたが、読んで救われたような気になることはなかった。
むしろどこか追い詰められるかのような、閉塞感。息苦しさや、陰鬱で荒んだ印象だけが蓄積されたように思う。
「星の海にむけての夜想曲」にもそれらの痕跡は色濃く出ている。
しかし、この荒んだ描写の中にあって尚感じられる光のようなものはなんだろう。

描かれているのは、もうどうしようもなく終わってゆく世界の姿だ。
空は色とりどりの花に埋め尽くされ、蔓延した「花粉病」によって人類は殺し合う。当たり前のことがこの世界では全て否定され、見出した希望にすら殺されることもある。瓦礫と化した町を捨て、人は地下に潜り、子供は大人になることより大人になれないまま死ぬのではないかと、未来を恐れている。
そんな世界の物語に、私はまごうことなき「救い」を、見た。
それは万人が納得するような完璧なものではないだろう。
破壊と破壊の掛け合わせ。人類を救いたいなんて大義からではなく、その時に生きる人間が、自分のために、あるいは自分の目の前の人間を救うためだけに起こした行動。誰も自分の起こした行動が、百年後、千年後に繋がるなんて思いもしなかっただろう。
花に覆われた千年の中で、切り取られたのはほんの数場面だけれど、千年の間にはそんなやり取りがいくつもあったに違いない。
物語の中で誰が救われて、誰が救われなかったのかということはあまり関係がない。
救われたのは私だ。
救われるのは読者だ。
目の前に立ち塞がる理不尽なものを前にあがき続ける、人の姿。
あがいた結果へし折れてしまっても残る想いに、確かに私は千年を越えて届く星の光のような「救済」を見たのだ。

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2014.02.25

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銅

星の海にむけての夜想曲

佐藤友哉は何処に!?

レビュアー:レディオ NoviceNovice

まずレビューを書く前に言っておこう。
私は佐藤友哉という作家は嫌いではない。
むしろ面白い本を書ける作家だと評価している。
しかしこの本では私の好きな佐藤友哉は何処にも居なかった・・・
さてレビューに入ろう。

正直何が言いたいのか分からなかったというのがこの本を読んでの第一印象だ。
これは私の読解力の無さが原因かもしれない。
しかし万人に理解できるストーリーを書けない作家は三流だと思っているのであえて批判する。

ストーリーは一人の少女の思いが受け継がれていくというのは想像できるが、
この空に咲く花に意味はあったのか?全く伝わってこなかった。

この花は我々が生活している中で犯している様々な罪の結果なのだろうか?
いずれ我々の行動が人類を滅ぼすということが言いたいのだろうか?

しかし最終的には未来のために今の人類を滅ぼしても構わないと
(正確には滅亡しないだろうから滅亡させようとしても問題ないと)結論づけており
今の世の中と何ら変わらない思想が繰り広げられている。

とても3.11を生き抜いてしまった僕らのために書いた本とは思えない。
このあたりが非常に残念だ。
しかしこれは作家だけの問題ではない。
このような形式で連載させた編集者にも責任がある。

個人的な印象ではストーリーテラーである佐藤友哉という作家がこのような連載物に向いているとは思えない。
同じ題材で長編を作っていたらと思うと残念だ。編集者の力量の無さのたまものだと感じている。

最後に結論としてはこの本を読むときには佐藤友哉が書いたということは忘れて読んでもらいたい。
結末が意味不明だったり、意外に伏線が薄かったりすることを除けばそれなりに楽しめる作品であるといえる。
興味が沸いた方は是非読んでもらいたい。

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2013.07.08

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

金

佐藤友哉『星の海の夜想曲』

「負の遺産」にまつわる千年記

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 表題作を含めた最初の三つの作品で描かれているのは「脱出劇」であり、これは佐藤友哉が2003年から2004年に連載し、2005年に書籍化した『鏡姉妹の飛ぶ教室』を想起させる。(ちなみにこの作品も、初出はWeb上の連載だった)
 地震によって沈下していく校舎に取り残された人々の群像劇だった『飛ぶ教室』は、急展開を繰り返すごとに、少年少女たちの希望と絶望がオセロの石のようにパタパタと反転を繰り返していたが、それに比べて『星の海の夜想曲』は逆にオセロの石が絶望を向けたままぴくりとも動かないような物語だ。
 同じ作者の十年前の作品では、絶望と希望は等しくペラペラの紙切れのように扱われ、そのことが一層、お互いの性質を強調するような構成だったが、十年経って書かれた作品では、絶望はただひたすらに巨大で強大で強圧で重い。『飛ぶ教室』の絶望がオセロの石の一枚にすぎないとするなら、『星の海の夜想曲』のそれは、ゲーム盤全体を覆ってしまう程に大きな一枚の石だ。
 そしてこの石をひっくり返すことが、この物語の主題でもある。
 絶望を希望に。
 空に星を。
 地に花を。
 そのために用意された物語は千年記だった。
 様々な時代の様々な場所で行われた小さな足掻きが実を結ぶには、非常に長い時間を必要とする。それは大変な犠牲を強いられることであり、一つの意志を遠くへと運ぶ必要のあることだった。皮肉なことに、それを可能にしたのは、空を覆う花々が、人類共通の「負の遺産」の役割を果たしたからだろう。物語の中で、人類はかつての絶望を忘れずに生き延びた。忘れるはずもなかった。空にはいつも花があるのだから。
 そしてまた、見えない希望を忘れることもなかった。
 物語の主要人物たちは知っていたから。
 花の向こうには、いつも星があることを。

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2013.05.29

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銀

『星の海にむけての夜想曲』 佐藤友哉

闇夜にこそ星は

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

 『星の海にむけての夜想曲』は星海社2周年記念作品と銘打たれているだけでなく、3.11後のわれわれを意識して発表された作品だ。なので、少しだけ震災のことに触れたい。
 震災から今日まで、議論されるべきことがあぶくのように次から次へときりなく湧いてきた。それは今現在に至るまで様々なことの道筋を変えたり、あるいは強化したり、物事の見方やコミュニケーションの在り方、価値の比重などを揺るがしに揺るがした。
 生命や生活に一番縁遠そうな芸術やエンターテイメントの分野でもそれらは起こり、震災を意識したものを意図的に作るのか、あえて触れないようにするのか、賛否両論だったと記憶している。
 この小説がどういう点で3.11を想起させるかは、読者それぞれの受け取り方に任せたい。
 ただ、花が全天を覆い隠して空を見えなくしてしまったのなら、星以外にもっと恋しいものがあるはずだ。
 なぜ、太陽ではなかったのだろうか。

 結論から言うならば、それは星が遠いところにあるからだろう。光の速さでも何年、何十年、何百年とかかる距離にある星の光は、何年、何十年、何百年も前に発せられた光だ。今星の光が見えていても、今その場所にその星があるとは限らない。すでに寿命がきて、無くなってしまっているかもしれない。
 この小説でも、A.D.2011年から始まって、何年、何十年、何百年ととびとびに短編が続き、最後の話は3011年の設定になっている。
 空の花がすべて枯れ星空が見える現象に説明をつけようとした少女・江波がその奇抜な発想を残し、花粉病からの生還者が確認されつつも、人々は地下に潜り、どんどんその数を減らしていく。人類滅亡までのカウントダウンは止まらない。

 なぜ、星だったのだろうか。
 おそらくこの世界の住人たちの大半は、太陽の明るさや暖かさに毎日焦がれていただろう。健康面への影響、食料のこと、様々な問題があっただろう。今日明日を生きていくために必要な、最低限のラインの問題が誰しもの頭を毎日悩ませていたに違いない。人類の存亡のことなど、考える余裕もなかっただろう。
 この小説は、そういう日常の渇望からは大きく舵をきる。日常の喜怒哀楽に左右されながら、身近なひとを好いたり失ったりしながら、それでも星をみるという行動が「今」役に立たなくても、「いつか」役に立つかもしれないという希望を謳う。実際、星を見ようとして起こした些細な行動のひとつひとつが、何年、何十年、何百年か後に意味を持ってくる。

 星を見ようとすることは、遙か過去に思いを馳せることであり、同時に遙か未来へと繋がる現在を言祝ぐことだ。これをほのぼのとした日常系へのアンチテーゼといったら、言い過ぎだろうか。
 星は確かにきれいだが、それでお腹はふくれない。星は星でしかなく、太陽のふりをしたり代わりになったりはできないのだ。ならばせいぜい、星は遠くて馬鹿らしく思える希望の光を、弱々しく発し続けるしかないのだろう。
 だが、星自身も、星を見ようとする者も、いつか、どこかで、奇跡が起こりうることを強く確信している。
 その星のひとつが、この小説なのだ。

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2013.05.29

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銅

星の海にむけての夜想曲

思いは未来へ

レビュアー:ラム AdeptAdept

『奇跡は起こるよ』


このフレーズを視認しただけで、魂のルフラン~♪と脳内に響く。
何度も繰り返されるこのフレーズがリフレインを表しているのだろう。
だってユヤタンもエヴァが好き。だからきっと間違ってない。

Webで読んだとき、どうしてあんなに私は怒ったのだろうと思った。
今回の書籍、佐藤友哉が大好き。好きで良かったと、なんていい話なんだととても面白く読めた。相変わらず、泣かなかったけど、だからダメだなんて思わない。

あのときと何が違うのか、
私か ユヤタンか
あるいは両方か




どうして星を見ただけで死んじゃうの?

最初読んだときは分からなかったけど、今なら分かるような気がする。

認めようではないか。

泣ける小説を期待して勝手に裏切られた過去の私。
それはきっと、見れるはずのない星を見たことによって絶望して死んでった人たちと同じ。
私は満足したわけではないけれど。

見たい(読みたい)と強く思いすぎると、叶ったあとに絶望はやってくるのです。

でも、奇跡は起こるよ何度でも

私は何回だって佐藤友哉を好きになる

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2013.04.16

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銀

星の海にむけての夜想曲

それでも、星を見上げる

レビュアー:matareyo

幼い頃、私にとって星は希望の象徴だった。そこに輝いている。じっと目を凝らしてみても正体のつかめない、未知の何か。そこで図鑑を見てみる。壮大な宇宙が広がっていた。それでもわからないことはたくさんあるらしい。図鑑には私が大人になった未来のことも描かれていた。未来の私たちはスペースプレーンや軌道エレベーターで宇宙に飛び出し、月に基地を造り、更にその先へと進み続け、未知を解明していた。星を目指す未来は輝いていた。無邪気に夢見ていた。大人になってしまった今、未来はそんなに単純なものじゃあないんだっていうのは、わかっているんだよ。

2011年7月7日~14日の期間限定で星海社Web「最前線」に掲載された佐藤友哉「星の海にむけての夜想曲」は宇宙へ飛び出すどころか、天災によって星も空も見えなくなってしまった、今からさほど遠くない未来の物語。「花粉病」なる奇病が発生し、子供たちが未来に絶望している未来。七夕の日、軍によって外出を禁じられているこの日、ある学校で先生と生徒が出会う。「星なんて見えるわけがない」と言う天文部の顧問。対して「見えます」と固く信じる天文部員の少女。絶望的な世界で、それでも星という希望を追いかける。そんなお話し。

この作品、実は設定がありえない。星空の見えなくなった原因の天災というのがこれまた荒唐無稽なんだよ。近未来の地球を舞台にしているけどかなりファンタジー。そんなこと起こるわけないだろう!
――って、思ったはず。2011年3月11日を経験する前だったなら。これはあの震災を経て書かれた作品。震災を経て、その先にある未来を描いた作品。この作品を今読んだからにはそこに触れなければならない。なぜかっていうと私が明らかに震災以後を意識して読んでしまったから。その時思ったことを隠して何かを言うと嘘になってしまうような気がする。

作品自体はこの現実と地続きの「リアル」な未来を描いているわけではないんだよ。でも読んでいるとそれをまざまざと見せつけられる。天災。花粉病。子供たち。他にも、他にも。そういうキーワードが重なってしまう。今騒がれている様々な事実に。あるいは想像に。この作品を読んで、その世界が「ありうる未来」と思うほど現在の現実を反映していた。
今、この作品を読む人はどのような気持ちになるんだろう(これを書いている2011年8月26日現在では掲載終了のため読むことができないのが残念)。私は今年2011年の3月まで学生だった。そして4月に社会人となった。震災ににまつわる事態に対して自分の立ち位置に困惑気味なんだ。年齢の上では大人とはいえ、学生ならばまだ「無責任なオトナたち」に無邪気に反抗できた。どんな夢を語ったってお構いなし。でも社会人になった途端、そんな無邪気なことはできなくなったのね。責任ある大人として自分たちの下の世代のことだって考えなければならない。自分の中の「常識」がそう思わせてしまう。でも学生が社会人に身分を変えたって、劇的に自分の中身が変わるわけじゃあないでしょ。社会ではまだまだひよっこ。でも責任がうんたらかんたら。無闇に希望を語ればそれだって無責任なんだよ。現実を見ろって。私はどこに想いを置けばいいのだろう。情けないでしょう、いい大人が。でもそうなんだよ。

今思えばこの作品を読んだ時、私は先生に自分を重ねていたように思う。若い教師。でも子供の頃みたいにやたらめったら純粋に無闇に希望を追いかけたりはしない。そういう大人。自分もなってしまったんだなぁって少し寂しく思いながら。だけど更に追い打ちをかける場面がある。少女が先生に質問する。

「先生は、織姫と彦星との距離をごぞんじですか」
「…十四・四光年。メートル換算で、百三十六兆二千二百四十億メートル」

答えたよ、先生……。っていうかメートル換算まで聞いてないよ!
と心のなかでつっこみながら私は先生がとても愛おしくなった。だって知ってるじゃん! 「見えるわけがない」とか言いながら、覚えてるじゃん! 希望を捨てられないじゃん!
先生だって子供の頃があった。希望を追いかけたことがあった。少女と同じだ。先生になったからってあの時と断然しているわけがない。ずっと地続きの自分なんだ。
そして少女はもっと強かった。

フィクションがイコール「嘘」ではないと思う。物語は単なる夢物語ではないと思う。それに触れて心を揺り動かされる私がいるから。いつ描かれたか。いつ読んだか。そこから離れれば現実がある。ありのままに語れば笑われてしまうことも、フィクションだからこそ力を持って伝えられることもあると思う。こうやって現実に迷っておどおどとしている私だけれども、そんな迷いを絶ち切ってくれることだってある。

僕はそれでも希望を忘れることができないんだ。

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2011.09.08

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銅

カレンダー小説 星の海にむけての夜想曲

終わった先に見える星空

レビュアー:げんきゅー

佐藤友哉に私が出逢ったのは中学生の頃のことだ。

当時、書店でよく見かけていた西尾維新なる斬新な名前、そして惹かれるカバーデザイン。
前々から気になっていた作家であり、シリーズの完結も間近と聞いていただけに、そろそろ読んでみようかと書店を訪れたある日。『クビキリサイクル』を手に取り、せっかく来たしもう一冊何か読んでみようかと思ったところ、となりにあった白い本が目に入った。
女性の口元がゼリービーンズを食べようとしている、タイトルの書き文字にどことなく90年代の古くささを感じる、時代錯誤にも見えるデザイン。

タイトルは、『フリッカー式』。それが、私と佐藤友哉との出逢いだった。

家に帰って、すぐに二冊とも読み終えた。デビュー時期も近く世代も近い二人。ミステリで青春でエンターティメントで、同じメフィストから世に送り出されたというのに、これほどに書き出す言葉が異なるのかと驚いた。
クビキリサイクルはどこまでもエンターティメントとして描き出されているのに対し、フリッカー式の行間に感じるのは、誰彼構わず向けられた憤りと、諸手をあげて高笑しているようなぎらぎらとした達成感だった。登場人物の誰もが、心の中でざまあみろ!と叫んでいるような、何かもわからない目の前の肉の塊を、ナイフで切り刻んでいるような、どろどろの世界。
視覚化されていれば、真っ先に都条例の対象になりそうな、このぐつぐつと煮えたエナメルの世界に、当時の私はすぐに飲み込まれていった。
『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』『クリスマス・テロル』。
そして『テロル』の終章には、唐突な引退宣言が記されていて。
読み終えたとき、私の瞳からは涙が溢れてきた。
こんなに面白く、素晴らしい作家が、これだけで終わってしまうのか、と。

    ※

そして、彼が世に出て10年が経った。
この節目を記念して執筆された星海社のカレンダー小説企画『星の海にむけての夜想曲』は、氏のこれまでの作品とはどれとも異なる一作だ。
とは言え、それがこれまでの作品に劣るということでは決してない。
登場人物達全員は叫んでいるし、ナイフで切り刻んでいるし、誰彼構わず向けられた怒りは、今でも行間に充ち満ちている。そんな相変わらずの青春劇。
けれども、この物語の中で、男と女は、その怒りの先にきらきらと光る何かを、見つけてしまうのだ。
闇雲で、報われるはずの無かった、佐藤友哉の怒り。
30歳になり、青春状態が終わったと語る彼は、それをあっさりと捨ててみせたのである。

    ※

涙の後の後日談。単純な時系列の勘違い。

『クリスマス・テロル』が世に送り出されたのは2002年のこと。
そして、私がフリッカー式を初めて読んだのは、2005年。
あれだけの遺言状をぶちまけて見せた佐藤友哉は、実はそのあとも見えないところでちゃっかりとナイフを振り回していて、飛び散った血が凝固して生まれた二つの復活作──『鏡姉妹の飛ぶ教室』『子供達怒る怒る怒る』──も、すでに世に送り出されていたのだ。
傷心の私が書店に足を運び、書棚をふと眺めてへにゃりと力が抜けたのは、また別の話。
あの本気の涙を返せ!と思ったのも、また別の話。
けれどその足で、その二つを手に取ったのは、今に繋がる昔の話だ。

     ※

この世界には数多の作家がいて、『青春』というキーワードで絞ろうとしても、一生かかっても読み切れないほどの検索結果をgoogle先生は返してくる。
けれど、今まさに現在進行形で、自分の『青春』が終わり、日和ったことを自覚し公言しながら、それでも『青春』を描き続ける作家なんていうのは、きっとそうそういないに違いない。

自分の武器であった『青春』をしっかり終えてみせ、それをひとつの作品として提示した『星の海にむけての夜想曲』。
それを活字として再び目にするには、1年以上先の単行本化を待たないといけないけれど。
その時、佐藤友哉がどのような『青春』を世に放っているのか、私はそれが楽しみでならないのだ。

さて、ここからが面白い。

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2011.08.17

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銅

星の海に向けての夜想曲

待ってた、待ってる

レビュアー:ラム AdeptAdept

アニバーサリーノベル第一弾。星海社一周年。佐藤友哉十周年。
発表があったときから楽しみにしていた。
七夕にうってつけの小説。
そう、空に花の咲いた世界で、唯一星がみえる日。
閉ざされた世界の中で、見ることを許されない星空を君と。
ロマンチックではあるだろう。奇跡的でもあるだろう。

でも読み終わってから思い出した。
太田さんはユヤタンに泣ける話をオーダーしていなかったか。ユヤタンは快諾していなかったか。

泣けなかったよ!
泣く要素なんてなかったよ!
むしろ前向きな良い話だった。
記念日に泣ける話をリクエストした方にも問題がある気がしないでもないが、記念日を涙で迎えるのも趣があると言われたら否定はできない。
果たしてユヤタンはどこが「泣ける」つもりだったのだろう?
星のない1人きりの天文部、が泣けるところ?
昔、彼女が星をみて死んだところ?
その妹がいずれ花粉病で死ぬかもしれないところ?
恋が始まる前に話が終わるところ?
それとも、悔し泣きとか嬉し泣きかな。
何度読みなおしても分からない。

ねぇ私怒ってるんです。
主人公が、彼女の死を悲しんでいるというより彼女を死なせてしまった自分の不幸に酔ってるような気がしたから。
それでは泣いたりできない。
私が男だったら、共感できて悲しめたのだろうか。
そんなのズルイ。不公平。

じゃあどんな内容なら泣けるのかって?
私は、ユヤタンが泣きながら書きあげたような熱量のある作品が読みたい。小手先じゃなく、一途な感情で感動させてほしい。
これが佐藤友哉の3.11に対するアンサーだとかどうでもいい。私にとっては。

どんな佐藤友哉でも愛しているけど。
佐藤友哉の泣ける話を読んで私も泣きたいな。
ただそれだけ。

親愛なる佐藤友哉様。また泣けるカレンダー小説を書いてくださいね。待ちます。ずっと待っています。

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2011.08.17

「星の海にむけての夜想曲」のレビュー

銅

「星の海にむけての夜想曲」

魅惑的な絶望

レビュアー:zonby AdeptAdept

この物語には「悲しみ」が「諦観」が「絶望」が、そういったある種の終末感が小説の末尾に至るまで染み込んでいるように感じる。
それは極めて静かな「絶望」の雰囲気だ。
絶望が恒常化し、ゆっくりと終わってゆく世界を見つめ続けているような。死んでゆく何かに手を伸ばすことをせず、じっとただ側にうずくまっているような。
その世界観を、私はとても魅惑的だと思う。

かつて「戦慄の十九歳」と呼ばれ、出版された作品である「フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人」にも、「絶望」や「悲しみ」、「終末感」などは色濃く漂っていた。しかし、同じ「絶望」や「悲しみ」であっても、そこにあったのはもっと激しい感情を伴っていたように思う。徹底的な暴力描写や、揺れ動く主人公の心の動きはめまぐるしく、読者は読み終わった後に自分の心の中にある暗い部分を掻き乱されることになる。
そんな作品でデビューした佐藤友哉がここにきて差し出してきたこの作品に、彼の辿った十年間を感じさせた。

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星について知ることが規制された世界。
星空が広がるはずの天空は花に覆われ、その花の影響で「花粉病」という病が蔓延する世界。
七月七日。「花粉の日」
七月七日に特別な意味を持つ僕は、本来ならばいてはいけない学校にいて、そこで一人の女生徒に遭遇する。たった独りの天文部員である、江波。どうしてここにいるのか、と問いただす僕に彼女は答える。

「星を見にきたんです」

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短い小説である。
しかし、なぜだか壮大な物語を読み終えたような気分になった。

想像する。
天空を覆う色とりどりの花を。舞い散る花弁の色彩を。諦観した世界を。物語全体にひたひたと漂う終末感を。
静かだ。
でも、綺麗だ。
絶望的だ。
でも、その底にずっと沈んでいたいとも思う。
絶望的な状況を描いた小説だというのに、その世界観は酷く儚く魅惑的で、蠱惑的だ。

物語の最後には、希望もちゃんと用意されている。
けれど、それすらも絶望の内の希望にしかすぎないなどと言ったら、私はこの作品を貶めていることになるだろうか?
だがしかし少なくとも私は、この物語を絶望の物語だと認識する。
とても魅惑的な絶望の物語だと認識する。

終わってゆくことを前提としたこの物語の世界観に、ゆったりと身を横たえていたい。夜空ではなく、花に覆われた天空に静かに絶望していたい。例えばそれをはるかに上回る絶望や奇跡が、一瞬物語をかすめたとしても、そしてそれに感動する人達がいたとしても、私はそれを横目にするだけだ。

星の海は見えない。
簡単には見えない。
星の海は天空を覆う花の向こう側にある。
この魅惑的な絶望の向こう側に。

私はいつまでもそこに浸っていたい、と思う。
絶望的な840年の時間の中に。

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2011.08.17


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