下界のヒカリ
大晦日に自堕落な自分を捨てるということ
レビュアー:牛島 Adept
12月31日の話をしよう。少し長くなるかもしれないが、お付き合い願いたい。
その日の朝を私は完全な徹夜で迎えた。前日(というか深夜)まで年末年始の臨時バイトをいくつかいれていてひどく疲れていたのだが、そのとき私を包んでいたのは睡眠が必要な疲れではない。自堕落な時間が必要な疲れだったのだ。だらだらごろごろふとんの中で一日潰したくてしかたがなかった。
結果、私はその日の予定をすべて無視することに決めた。友人知人への年末の挨拶も、年越しの大祓も、実家へ帰って紅白を見ることも、なにもかもがとにかく面倒臭かったのだ。知り合いにも神様にも家族にも会いたくなかった。別に彼らと過ごさなくても死ぬわけでもないのだし。
やることがなくなってしまったのならもうどんな時間の使い方をしても構わない。私は自室のベッドに寝転んだままスマートフォン片手にTwitterを開きだらだらしていた。そんな時間潰しをしていたときに、星海社社長・杉原幹之助氏のこんな発言が流れてきた。
大晦日はカレンダー小説!/泉和良がおくる「カレンダー小説」第六弾『下界のヒカリ』、本日より公開!
そうか、そういえばそんな告知を見ていたな。それにしても珍しく朝から更新されている――なんて思いながらURLから最前線を開いた。
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大晦日のカレンダー小説『下界のヒカリ』は一人のどうしようもない男の物語だ。
男はなぜかとある家庭の屋根裏に住んでおり、そこで毎日鬱屈しながらだらだらと生きている。作中で明言されてはいないが、おそらくこの男は貧乏神のような存在なのだろう、彼が屋根裏に住んでいることでその家の人間はどんどん不幸になっていく。そのことに罪悪感を感じながら、そしてその家に住むヒカリという幼い少女にそれなりの愛着を持ちながら、男はただ「面倒臭い」という理由でだらだらと何年も居座り続ける。ときおり下界であるヒカリの生活を覗きながら、申し訳ないと思いつつ彼は(どこからか調達した)PS3に逃避する。彼が存在するだけで及ぼす悪影響で、ヒカリは大晦日だというのに一家団欒することもなく、一人で母親の帰りを待つことになってしまっていた。
しかしふとした偶然から、ついに男はその家を離れる決心をする。
出不精で怠け者な自分の持てる力の限りを振り絞って、うっかり何年もいてしまうほど居心地のよかった、出るに出られないコタツのような屋根裏を飛び出していく。ただ、ヒカリの未来を願って。
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ところでカレンダー小説の魅力とはなんだろうか。
企画としてのおもしろさはどこにあるのだろうか。
それはやはり「ライブ感」だと思うのだ。情報は一度公開されたら過去の物になるのが常識であるネットで、期間限定の公開をするという試みに出る。しかも、コンテンツはその公開時期に対応した小説である。内容もさることながら、そこには読者が一種の「お祭り」に参加しているような楽しさがある。
そこで今回の『下界のヒカリ』である。この物語はそうした「ライブ感」を非常に強く感じさせてくれた。思わず作中の男に感化され、用事を済ませて実家へ帰るほどに。
大晦日は、程度の差こそあれ、人はだれもが疲れているんじゃないかと私は思う。一年を通して溜まった疲れからなにもかもがどうでもよくなって――そして、自堕落に過ごしたくなるんじゃないか。そんな「誰もが疲れている日」に公開されたこの『下界のヒカリ』は、どうしようもなく自堕落な男が、それでも一歩外に出る姿が描かれていた。そこには確かに希望がある。大袈裟に言えば、私はこの小説に少し背中を押してもらったようなものなのだ。
……別に年末の挨拶回りも参拝も、家族で年を越すことも、本当はやらなくていいのかもしれない。一人で年を越すのだってそれなりに乙なものだろう。
けれど、私が地元に帰って、久々に友人や家族と顔をあわせたり、年越しを賑やかに過ごせたのは、やはりこの小説のおかげだと思うのだ。
2012年の大晦日も、きっと私は頑張れるだろう。
その日の朝を私は完全な徹夜で迎えた。前日(というか深夜)まで年末年始の臨時バイトをいくつかいれていてひどく疲れていたのだが、そのとき私を包んでいたのは睡眠が必要な疲れではない。自堕落な時間が必要な疲れだったのだ。だらだらごろごろふとんの中で一日潰したくてしかたがなかった。
結果、私はその日の予定をすべて無視することに決めた。友人知人への年末の挨拶も、年越しの大祓も、実家へ帰って紅白を見ることも、なにもかもがとにかく面倒臭かったのだ。知り合いにも神様にも家族にも会いたくなかった。別に彼らと過ごさなくても死ぬわけでもないのだし。
やることがなくなってしまったのならもうどんな時間の使い方をしても構わない。私は自室のベッドに寝転んだままスマートフォン片手にTwitterを開きだらだらしていた。そんな時間潰しをしていたときに、星海社社長・杉原幹之助氏のこんな発言が流れてきた。
大晦日はカレンダー小説!/泉和良がおくる「カレンダー小説」第六弾『下界のヒカリ』、本日より公開!
そうか、そういえばそんな告知を見ていたな。それにしても珍しく朝から更新されている――なんて思いながらURLから最前線を開いた。
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大晦日のカレンダー小説『下界のヒカリ』は一人のどうしようもない男の物語だ。
男はなぜかとある家庭の屋根裏に住んでおり、そこで毎日鬱屈しながらだらだらと生きている。作中で明言されてはいないが、おそらくこの男は貧乏神のような存在なのだろう、彼が屋根裏に住んでいることでその家の人間はどんどん不幸になっていく。そのことに罪悪感を感じながら、そしてその家に住むヒカリという幼い少女にそれなりの愛着を持ちながら、男はただ「面倒臭い」という理由でだらだらと何年も居座り続ける。ときおり下界であるヒカリの生活を覗きながら、申し訳ないと思いつつ彼は(どこからか調達した)PS3に逃避する。彼が存在するだけで及ぼす悪影響で、ヒカリは大晦日だというのに一家団欒することもなく、一人で母親の帰りを待つことになってしまっていた。
しかしふとした偶然から、ついに男はその家を離れる決心をする。
出不精で怠け者な自分の持てる力の限りを振り絞って、うっかり何年もいてしまうほど居心地のよかった、出るに出られないコタツのような屋根裏を飛び出していく。ただ、ヒカリの未来を願って。
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ところでカレンダー小説の魅力とはなんだろうか。
企画としてのおもしろさはどこにあるのだろうか。
それはやはり「ライブ感」だと思うのだ。情報は一度公開されたら過去の物になるのが常識であるネットで、期間限定の公開をするという試みに出る。しかも、コンテンツはその公開時期に対応した小説である。内容もさることながら、そこには読者が一種の「お祭り」に参加しているような楽しさがある。
そこで今回の『下界のヒカリ』である。この物語はそうした「ライブ感」を非常に強く感じさせてくれた。思わず作中の男に感化され、用事を済ませて実家へ帰るほどに。
大晦日は、程度の差こそあれ、人はだれもが疲れているんじゃないかと私は思う。一年を通して溜まった疲れからなにもかもがどうでもよくなって――そして、自堕落に過ごしたくなるんじゃないか。そんな「誰もが疲れている日」に公開されたこの『下界のヒカリ』は、どうしようもなく自堕落な男が、それでも一歩外に出る姿が描かれていた。そこには確かに希望がある。大袈裟に言えば、私はこの小説に少し背中を押してもらったようなものなのだ。
……別に年末の挨拶回りも参拝も、家族で年を越すことも、本当はやらなくていいのかもしれない。一人で年を越すのだってそれなりに乙なものだろう。
けれど、私が地元に帰って、久々に友人や家族と顔をあわせたり、年越しを賑やかに過ごせたのは、やはりこの小説のおかげだと思うのだ。
2012年の大晦日も、きっと私は頑張れるだろう。