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「私の猫」のレビュー

銅

私の猫

「私の猫」と「僕の犬」

レビュアー:6rin NoviceNovice

この小説は、小説家の男とその飼い猫の十四年を描いたものである。男は自分の飼い猫を「猫」「自分の猫」と言い表し、「おまえ」と呼ぶ。猫の名前が男の口から出ることはない。猫は名前を付けて貰えなかったのではないか。男の口から猫の名前は出ずとも、猫をけなす言葉は出る。同棲する女の猫をかわいいと褒める一方、自分の猫の姿や声を醜いと言う。
男の言葉に、飼い猫がかわいそうに思えてくる。しかし小説を現実の戯画であるフィクションとして捉えれば、男の名前を付けない冷たい態度も、また違うものとして見えてくる。

僕はおととしまで十数年、犬を飼っていた。男の猫がいきなり手をかんだり、走りまわって執筆の邪魔をしたように、僕も犬に手を焼いた。犬は室内で遊ぶと興奮して、狭い家の中を走りまわった。犬自身や家族が怪我をする恐れがあるのでやめてほしかった。夜に寝るときは僕のベッドで眠ることが多かった。最初は僕の邪魔にならない姿勢で眠るのだが、眠っているうちに、横通しにした30kgの体の脚を気ままに伸ばし、僕はベッドの端へ押し出された。襖など、いくつかのものが引っ掻いたり噛まれたりされ壊されたこともあった。だが老いるにしたがい、犬がそういう風に荒ぶることは少なくなった。犬は足腰が弱くなり息切れしやすくなり、散歩の距離も短くなった。僕が帰宅しても、犬は眠りこけて出迎えに玄関に来てくれないことが頻繁になった。
犬はやがて立つことも歩くこともできなくなった。腰の骨をやられたのが原因だった。
それからはあっという間だった。朝、床ずれ防止のマットのうえで犬の身体は冷たくなっていた。男の猫も背中の骨が原因で歩けなくなりそれからすぐに亡くなっており、そこもまた僕の犬と重なるのだった。

犬が家に居ないのは不思議な気分だった。
帰宅しても犬はいないのが不自然だったし、つい癖で、寝ころがった犬を気づかずに踏むことがないよう足元に気をつけるのは、犬がいない状況では馬鹿みたいだった。僕がテレビの向かいにあるソファーに座っているとき視界に犬がいなければ、犬は大概、僕の斜め後ろ大きな食卓の下の辺に寝そべっていた。だから僕はソファーに座っていると時々、死んで存在しない犬の気配を斜め後ろに感じた。振り返って食卓の下にいないことを確認するのだけれど、それでもそこに犬の姿が見えた気がした。見えないはずの盲点が盲点として見えているみたいだった。長い時間を一緒に過ごしたので、犬の存在がそれだけ僕の身体に染みついていたのだと思う。犬がいなくなって、僕は初めて犬の存在の大きさを理解した。犬を亡くした僕の心には、犬の形をした穴がぽっかりとあいていた。
犬の大切さを実感した僕は後悔した。体調がいい食欲旺盛な時期にもっと好きなものを自由に食べさせてあげればよかったとか、散歩をサボったり短くしてごめんとか、どうしてもっと構ってあげられなかったのだろうとか、自分への疑問や反省が渦巻いた。犬の存在が当たり前すぎて、僕はその大切さを見過ごし、犬との接し方がぞんざいになっていたのだと思う。
主人公の男はかかりつけの動物病院のいい加減な診察に感じた疑問を見過ごした。別の病院で診てもらっていれば、猫が死なずに済んだかもしれないと、男は後悔する。男が猫をわが身のように大切にしていたら疑問を見過ごさなかったはずだ。ペットに対するぞんざいさは主人公の男にもあるのだ。「自分の猫」と言ったりして名前を呼ばない、猫との距離を感じさせる男の態度は、ペットの存在に慣れきったがゆえに我が身のこととして考えられない、僕のような飼い主の戯画的表現としては正しいと思える。

骨になった猫と帰宅した男はその晩、小説を書きたくなり、パソコンの画面に「私の猫」と書く。これは、本作『私の猫』が男の手による小説だったという解釈を導く。『私の猫』はペットを我が身のことと考えられない自覚を持った男が書いたのだ。この解釈が、猫に名前を付けないことを、ダメ飼い主の戯画的表現として読むことへ誘い込む。
さらに、男が『私の猫』を書いた、と解釈するならば、男は名前を付けもしないダメ飼い主として自分を書いたことにもなる。
男は猫の死後、猫にはせめて十七歳まで生きていてほしかった、女の腹にいる赤ちゃんを見てほしかったと言う。男にも猫を想う気持ちが強くあったのだ。猫は、何人もの女性と別れてきた男が嫌な目にあいながも辛抱づよく付き合ってきた、切っても切れない家族同然の存在なのだ。だから、男が家族の一員になる赤ちゃんを猫に見せたくなるのは当然だと思う。猫を大切に思う男がダメな自分を反省し、ダメな飼い主として自分を小説にして書いた結果、小説内の男は猫に名前を付けなかったのではないだろうか。
このように、ダメ飼い主を表現するフィクションとして猫に名前を付けないことを捉えることで、男の後悔とそこに含まれる犬への優しいまなざしが小説に感じられるのだ。猫に名前を付けない男の冷たい態度は、ただ冷たいだけではない。

人とペットの絆を主題にした映画や小説には、両方のダメな部分をあまり見せず、いいところを強調、誇張するものが結構ある。しかし、この作品は両方のダメなところをしっかり描いていて、そこに強いリアリティが感じられた。小説家が主人公であることを踏まえると、作者・十文字青が実体験をもとに書いた小説ではないかとも思える。男と猫は、僕と犬に重なるところが多く、僕は飼い始めてから死ぬまでの犬との暮らしを思い出し、泣いてしまった。「私の猫」は短い小説だけれど、僕にとっては心にズシンとくる、フィクションとは思えない重みのある作品なのだ。

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2012.05.18

「私の猫」のレビュー

銅

私の猫

自分の小説

レビュアー:akaya NoviceNovice

なぜか知らない世界だけどノスタルジックを感じる。これが昭和という奴なのか。
いまの大学生がこんな生活していたら瞬く間に親に怒られて就職も出来ず嘆き途方にくれるだろう。まあ作中の男も就職できない日々を過ごすのだけれど。そういう自堕落な様を描いた小説に、最前線で触れられるとは思わなかった。

そんな作品であるが、"自分"という単語だけがただただ曲者な文章である。この作中では常に"俺の"や"私の"に置き換えられる。このせいで時折混乱するのだ。"女は一週間がかり自分の部屋を片付け"と書かれたら普通は女自身の部屋である。ここでは否だ。ギター男の部屋なのである。
自分の猫はというのもギター男の猫だ。とにかく1人称を貫き続ける。日本語の持つ素晴らしき文脈というパワーを反故にしてまでも貫き続けるのだ。そういう手記のような小説なのだ。

この最前線で読むには何処か古臭くて、それが新しい。

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2012.03.09

「私の猫」のレビュー

銅

十文字青『私の猫』

これまでとこれからの、全ての「あっという間」の出来事

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

「猫はあっという間だからね」
 主人公の妹が言ったこの言葉は、『私の猫』という作品の本質を一言で言い表している。

 主人公にとって、生活の中に猫がいるのは当たり前で自然なことだった。『私の猫』は、その当たり前が崩れ去るまでを描いたお話だ。
 主人公の飼う猫の体調が悪化し始め、力尽きるまでの期間は、それまで主人公と猫が積み上げてきた時間と比べて、あまりに短い。
 そして、上記の台詞は、「猫」という言葉を、別の「そこにいるのが当たり前の存在」に置き換えても意味は通じる。むしろ、自分にとっての「当たり前の存在」に置き換えてこそ、その本当の意味が理解できる。

 そこにいるのが当たり前の存在ほど、失われる時は「あっという間」に感じられる。 小さな話で言えば、例えば私の場合、小学校時代に仲の良かった親友が、突然転校することになってしまった時など、自分の生活の一部が消えてしまうような喪失感を覚えたことがある。小学生にとって大事な放課後の時間の多くを共有してきた親友は、親の都合で「あっという間」に遠い場所へと行ってしまった。それきり長い間、私は彼と会えなかったし、再開した時には、お互いが当時とは変わっていて、小学生の頃に彼と共有していた時間はもう過ぎ去ってしまったことを実感させられた。

 私にとって『私の猫』という小説は、そんな感情を思い出させてくれる作品だった。
 そしてまた、小説のラスト、一緒に住む女から子供ができたらしいことを主人公が告げられる場面は、人生にはこれからも「あっという間」な出来事が続いていくことを示唆している。
 子供と過ごす時間は、きっと猫との共同生活よりも長い時間続くのだろうが、しかし子供の成長は早く、一瞬一瞬が本当に「あっという間」に感じられ、足早に時が過ぎ去っていくことだろう。
 そんな風に、私たちの人生には「あっという間」の出来事がこれまでもこれからも起こり続ける。『私の猫』は、そんな全ての「あっという間」の出来事について考えるきっかけをくれる小説である。

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2012.03.09

「私の猫」のレビュー

銅

「私の猫」十文字青

ねこと、ものかき

レビュアー:ややせ NoviceNovice

猫とは、自由気ままな生き物らしい。性格にもよるのかもしれないが、まず飼い主の意のままにはならないのだとか。
飼うとか所有するという感覚とは程遠く、なんだか一緒に住んでたり空間を共有したりしているがよく解らない存在、らしい。

「私の猫」の猫も、そういう意味ではまことに猫らしい猫だと言える。
愛嬌がなく、可愛げのない声。甘えたい時だけすり寄ってきて、抱っこすると引っ掻くくせに、新参猫にも追いやられるような、なんだかぱっとしない猫。

思い通りにならない、良い面ばかり見せてくれないというところが、時に世の中のつれなさを見せているかのようで。
上手くいかないときに同じように不調になっていくのが、飼主自身を映す鏡のようでもある。

猫とは、もう一つの目のようなものなのだなぁと思った。
その目の方へ、一時こころを遊ばせることも逃避させることもできる。
「自分の猫」「自分の猫」という無造作な、そして愛のある呼び方に、思わず微笑んでしまった読者は多いだろう。
物書きに好まれる訳である。もはやそこは、飼主のこころの置き場所でもあるのだ。

ミギーの描く猫は、共にいる人間のこころのよりどころとしての、ふわりとミステリアスな雰囲気に満ちている。
あら、こんなところにいたの、と思わず手を伸ばしたくなるような。
猫もかすがい、になれるのかもしれないと思った。

(追記:創元推理文庫の谷原秋桜子のシリーズで描かれたミギーさんの猫も、大好きです)

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2012.03.09


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