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レビュアー「横浜県」のレビュー

金

セカイ系とは何か

一冊の本としての評論、その表紙

レビュアー:横浜県 Adept

『セカイ系とは何か』
そう聞かれたとき、僕なら「この表紙を見れば分かる」と答えるだろう。
ほら、この文章の右に見えている画像だ。西島大介氏によるイラストである。

そしてこれはセカイ系と呼ばれるジャンルの特徴を、しっかりと捉えている。
たとえば社会という中間項の搾取を思わせる「きみとぼく」と戦争の描写。猫背でよそ見をする一人語りの激しそうな少年。彼よりも一歩前に立つ、いまにも戦闘に身を投じそうな少女。透き通った空という風景描写。攻撃の身元が分からない「敵の不在」。
考察は尽きない。とりあえず、このイラストがセカイ系の特徴をあわせもった「作品」として成り立っていることが分かっただろう。

しかし重要なことに、ここで挙げられた特徴の多くが、『セカイ系とは何か』の本文において半ば否定されてしまう。著者の前島賢氏は、このような一般に流布するセカイ系の定義が、誤った理解に基づいたまま二転三転したものだということを明らかにする。つまりこの表紙を眺めて「セカイ系っぽい!」と叫んでしまった人たちは、本文を読んでから驚くことになるわけだ。それゆえこのイラストは、後にどんでん返しを控えた、導入に最適な表紙だと言える。

だから、最初に僕が言った言葉、あれは嘘だ。
この表紙を眺めているだけでは、『セカイ系とは何か』を知ることはできない。

ところが、本文を通読してから、もう一度このイラストを見直してみよう。そうすれば、事情も少し変わってくるのではないだろうか。
西島大介氏は、もちろん『セカイ系とは何か』を読んでから、この表紙絵を手掛けたはずである。それでは、ここに描かれた「セカイ系らしさ」とは、何を意味するのだろうか。
それらは、世間一般に流布するセカイ系に対するイメージを、それらが正しいにせよ誤っているにせよ、フォトモンタージュのようにして僕たちに提示する。そこには僕たちの考える、ないし本文を読むまで考えていたところの、「誤ったセカイ系」が表象されている。
しかしそれだけではない、前島賢氏が正史のそれと提示したような「ポスト・エヴァ」としてのセカイ系もまた、この表紙には読み込むことができるはずだ。それは少年の様子にもよく現れているだろう。
このように考えると、セカイ系の「作品」だとしか思っていなかったはずのイラストが、セカイ系に対する「批評」として僕たちに語りかけてこないだろうか。
これは、西島大介氏による、『セカイ系とは何か』という、もう一つの評論ではなかったか。
しかし先述した通り、この表紙を眺めているだけではいけない。本文を通して鑑賞したとき、この表紙は初めて「批評」として僕たちの前に立ち現われる。そして本文もまた、この表紙によって、よりよい形に補完されていると言うことができるのだろう。

さて、最初の問いに、いまの僕ならどう答えるだろうか。
『セカイ系とは何か』
そんなの、この表紙を見れば分かる。ただし、この本に目を通してから、もう一度これを眺めたときにね。

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2014.06.18

銀

メイ・デイ

そのナプキンから目を背けるな

レビュアー:横浜県 Adept

 主人公の「私」は、心が壊れている。離婚した母には見捨てられ、父からも暴力を受けている。それでも父との間に家族のつながりを求めようとする彼女は、典型的な共依存の状態にあり、僕たちに危うさを感じさせる。そんな「私」の心は、壊れているが、しかし、強い。「守られてはいけない」という自負に支えられている。その強さは、小説家だった父の言葉を、魔法のようだと感じたことに由来していた。その魔法を継承した「魔女」として過ごす生活は、「私」にとって、僕たちの考える普通な生活よりも大切なものであった。
 もちろんそれは彼女の思いこみだと、僕たちはそう考えるだろう。「私」の見せる強さは、不安定な自我のうえにかろうじて成り立っているにすぎない。だから彼女が「私は父親の子供ではない」という真実を受け入れたとき、僕たちは「私」を祝福する。彼女もついに現実を直視したのだと。
 しかし彼女はやはり壊れていた。彼女は父との親子関係を解消する代わりに、新しく男女の関係を結ぼうとする。その決意には、以前のような危うさも感じられない。彼女はついに、父親と家族のつながりを結ぶための、たった一つの冴えたやり方に気がついたのだ。
 作者の大間九郎は「この短編は少女の闘争と、さらなる闘争の物語。甘えんな!戦え!って話」とツイートしているが、しかし読者の僕たちは、そのような「闘争」に身を投じる「私」の姿を受け入れることができるのだろうか。きっとその多くは、作中の一般人、校長先生のように絶句をするのが関の山だろう。大間九郎が「守られてる読者の鼻先に使用済みのナプキンぶら下げるような小説」とつぶやいたように、僕たちはどこか複雑な読後感に苛まれてしまう。そしてそれはまた、作者の思うつぼなのであった。
 だがしかし、これは当然の反応であるとも言えるだろう。僕たちは魔女ではない、「私」のような「闘争」に身を置く強さを持たない。だからこそ僕たちは「守られている」。でもそれでよいのかと大間九郎は呼びかけている。もちろんよくはないはずだ、僕たちだって、心のどこかで「闘争」に惹かれているところがあるのではないか。この「メイ・デイ」を読んで面白いと思ってしまったとき、どこか胸糞の悪い思いをしながらも、この作品について、「私」についての考えをめぐらせてしまったとき、あるいは「闘争」について、かえって過剰な拒否反応を示してしまったとき、僕たちはすでに「闘争」への欲求に貫かれていたのではないか。そうでなければ、僕たちにとって「私」の行動は何の意味も持たなかったはずだ。「メイ・デイ」は退屈な小説だったと、ただそのように感じるだけで終わりだったにちがいない。
 「メイ・デイ」を読んだ僕たちが、改めて闘争に身を投じることになるのか、それともこれまでと同じように守られつづけることを選ぶのか。いずれにせよ、「メイ・デイ」は僕たちに「甘えんな!戦え!」と語りかけている。それは父の言葉が「私」にとって「相手に自分の意思を伝える道具」ではなく「相手を支配する、やはり、魔法だ」と感じられたのと同じように、僕たち読者に向けて、大間九郎から放たれた魔法であるのかもしれない。だから彼が「使用済みのナプキン」を僕たちの鼻先にぶら下げたとき、僕たちは嫌悪感を催しながらも、いやそれゆえにこそ、またそのナプキンを嗅いでみたいと思ってしまうのだった。

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2014.05.20

銀

2WEEKS 人形使いのペトルーシュカ

人間的でありすぎることへの不安

レビュアー:横浜県 Adept

 主人公の上代雪介には、死んだ人間を生き返らせる力があった。そんな彼の前に、ホルマリン漬けにされた自分の子供を復活させようと目論む女が現れる。雪介は一度、その要求に従う。しかし彼の能力にも限界はあった。やがてその子供は目を開けなくなってしまう。
女は怒り狂い、再び雪介を呼び出すが、彼は打つ手がないと拒絶する。
 そんなとき、妙生が姿を見せる。やつはネクタールという名前の宇宙人だ。そして妙生は、その子どもを燃やしてしまった。これで生き返らせることもできない。子どもは完全に消滅してしまった。
 この一節を読んだとき、なんと呆気ないのだろうと思った。ヒロインの黒戸サツキが後に語っているが、「好きな人を生き返らせたいと思うのは、自然なこと」である。それには雪介も同意している。それは至極、人間的な感情だった。
 一方で、死者を生き返らせるという能力に対して雪介が見せる拒否反応もまた、きわめて人間的なものであるといえるだろう。彼はその能力を用いて、逆説的な話ではあるが、人を殺す結果にいたってもいる。そのような代物を彼が禁忌として捉えるのも当然だと言える。事実、エピローグの最後で、彼は「僕は、能力で人を殺している。こんな綺麗な涙、ありえない」と自らの能力とそれを用いての行為に対して懺悔するかのような心情を吐露している。
 しかしそんな両者による葛藤は、妙生という超越的な存在によって一蹴されてしまった。彼は「どうせもう生き返らないだろ」とあっさり言い捨てる。もう生き返らせたくなかったはずの雪介でさえ「お前なにしてんだよ!」と驚いているにも関わらずだ。ちなみに女は無言のまま佇んでいた。
 妙生はその後、「理由なんてないんだ。人間見たく余計なことは考えたくない。人間ってさ、不完全な脳があるから、苦しんだり余計なことをごちゃごちゃ考えるんだよ」と説明する。これはとても皮肉だ。人間は誰しもが、つねに考えている。何かしらのものごとについて、悩み、理由を与え、納得しようとする。あるいは受け入れがたいものに対しては抗おうとする。しかし、妙生のように超越的な存在、あるいは運命と呼ぶのがよいのかもしれないところのものは、決してそのような人間の「考え」には囚われてくれない。それどころか、意に介することもなく、突如として妙生が子どもを燃やしてしまったように、呆気ない結末を提示する。
 そして人間は誰しもが、その超越的な力からは逃れられない。黒戸は雪介に対し、女のような子供を生き返らせることに執着して幸せを逃すような、そんな人生にならないようにと誓いを立てさせようとする。雪介はそれを、「あの女の一生に触れて、不安になったのは僕だけじゃなかった」と評する。そして不安になるべきなのは二人だけではない。本作の読者もまた、人間的な感情に引きずられすぎることで、幸せを逃してしまうかもしれない。人生は、そんな感情にかまってくれやしない。
 女の不幸は、つねに自分の不幸でもありうる。妙生が子どもを燃やしたとき、そんな不安を感じた。

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2014.03.27

銀

2WEEKS イカレタ愛

僕たちは「いまここにある世界」を生きていく

レビュアー:横浜県 Adept

 僕はフィクションの世界に憧れている。退屈な日常から、そのルーチンから抜け出したいと足掻いている。しかしその願いは叶わない。美少女が空から降ってくることもなければ、超能力が使えるようになるでもない。「いまここにある世界」から、僕たちは逃れることができない。
 だから僕は、小説が好きだ。小説を読んでいる間だけ、僕たちは非日常の世界に飛び込むことができる。そこでは美少女が戦っているし、僕らもその戦いに巻き込まれてしまうし、とにかく、刺激的だ。僕たちは登場人物になりきる、あるいは彼らに共感を覚えることで、非日常への扉を開くことができるのだ。
 そういった観点から見てみると、『2WEEKS』は少し異質な作品かもしれなかった。新人賞の座談会において、本作は滝本竜彦著の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』との近似性が指摘されたが、また相違点として、戦闘美少女に対応する主人公にも特殊能力がある、という点が挙げられていた。これは瑣末に見えて大きな違いであり、読者のアバターが作中にいるかいないかという違いを意味する。『2WEEKS』には、読者が作品を読むうえで自己を投影しうるようなキャラクターがいない。いや、広い意味での感情移入はできるかもしれないが、厳密に考えたとき、僕らは主人公たちのように超能力を持っていない。彼らの超能力を持って「いる」がゆえの悩みは僕たちの悩みではないし、僕たちの持って「いない」がゆえの悩みは彼らの悩みではない。それらは絶対的に相反している。
 しかしその構造だけを取り出してみたとき、両者の悩みは同じことを意味しているのではないだろうか。それは「いまここにある世界」からの逃避願望である。僕が日常から逃れたく思っていることは既に述べたけれど、『2WEEKS』の登場人物たちも、ことあるごとに現実からの逃避をはかろうとする。自分の能力によって母を壊してしまった過去を持つ主人公。身についた戦闘能力で父の仇をうったヒロインは、わざと殺されるために怪物と戦おうとする。また「いつでも、死ねるように」と睡眠薬を持ち歩く少女も登場する。彼らは自分たちの超能力を呪い、それらを手放したいと、そして「いまここにある世界」から飛び出したいと願っている。僕と彼らの違いは、その「いまここにある世界」に超能力があるかないかの、ただ、それだけのことでしかなかった。
 僕らは、その点においてのみ、彼らの悩みを分有することができる。いやおうなくつきまとう自らの境遇から、彼らがどのようにして逃避をはかるのか。あるいは、それをやめてしまうのか。その構造だけは、僕らもまた身をもって体感することができる。
 たとえば先述した『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』は、「いまここにある世界」から逃れたいと願う主人公が、戦闘美少女であるヒロインと出会い、非日常へと飛び込んでおきながら、結局は彼女と2人で日常に回帰する。それはやはり『2WEEKS』でも同じだった。彼らは自分たちが超能力を持っているという現実を受け入れる。睡眠薬の少女にいたっては、「私はもう、死にたいだなんて思いません」と宣言する。もちろんその過程は複雑で、葛藤の多いものだ。そのプロセスをいかに描いているかという点こそ、この『2WEEKS』が持つ魅力の一つではある。
 では、そのように逃避を諦めてしまうということは、彼らにとってよい結果をもたらしたのだろうか。主人公がエピローグで印象深いことを話している。「あの二週間で、僕らは少しだけ前向きになれたのだろうかと思うことがある」と。彼らは確かに「いまここにある世界」から逃れることができなかった。しかしそれは「前向き」な過程だったのだ。彼は続けて言う。「表面上はなにも変わっていないのかもしれない。でも、僕らはゼロの状態になれた」
 確かに、彼らの世界は何一つ変わっていない。相変わらず彼らは超能力を持っているし、敵対する勢力との対決も続いていく。でも彼らは、「ゼロの状態」になり、「前向き」に現実を肯定しはじめている。それは、彼らが非日常を求めて足掻いたからこそ得られた成果でもある。ただ無批判に現実を受け入れるだけでもない、またいつまでも現実から目を逸らしつづけているわけでもない。
 そうやって彼らが「いまここにある世界」を見つめ直したとき、僕らは何を感じとることができるだろうか。フィクションの世界には遠く及ばない日常、それは時に退屈で、逃げ出したくなるものかもしれない。それでも、僕たちは歩いていかなければならない。そんな力を、本作から得ることはできないだろうか。『2WEEKS』の登場人物たちが、彼らの世界を生きつづけているように。

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2014.02.25


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