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レビュアー「横浜県」のレビュー

銅

『星海社 ラジオ騎士団』第5回

スタートの合図は、49分53秒のラジオ

レビュアー:横浜県 Adept

ラジオ騎士団が始まって以来、初めてゲストのいない回だということで心配した。
でも何ということもなく、パーソナリティの姫こと古木のぞみさんにスポットを当てた特別編「古木スペシャル」であった。

彼女がラジオ騎士団で主役になることは珍しい。
コーナージングルやゲストへの質問の読み上げを任されるなど、メインパーソナリティを思わせる役回りではあった。
しかし彼女自身をクローズアップするコーナーはなく、焦点が当たるとすれば、団長や平林さんからのツッコミやイジりであり、全体としては聞き手に回る場面が多かった。
だから今回のスペシャルは、今まであるようでなかった「のぞみ姫の一人舞台」だといっていい。

そんな彼女は、参加する声優ユニット「ワンリルキス」がCDデビューし。自身も養成所から事務所へと所属を移し、声優として本格デビューしたばかりだ。
初レギュラーも獲得し、彼女は間違いなく勢いに乗っている。
この「古木スペシャル」は、それを踏まえた上で企画されたのだろう。

だが僕は逆説的に思う。
このラジオこそが彼女のスタートラインになるのだと。
「古木スペシャル」は、彼女が走りだした結果として組まれた特集ではない。むしろこのラジオこそが出立の号砲となる。

番組の中では、「ワンリルキス」のデビュー曲が流された。
声優の「たまご」から「新人」に孵化したことを、さりげなく祝福するyagi_ponさんのお便りも届いた。
さやわか団長からは、デビュー曲に対する力のこもったレビューが贈られた。
ドSの平林さんからは、似合わぬ温かい言葉が寄せられた。
もちろん嬉しいドッキリを企画したスタッフの気配りもある。

そこには彼女の新しい一歩が刻まれていて、その背中を押すみんなの言葉が、音が、気持ちが詰まっている。
彼女が将来もし立ち止まったとき、ふと聴けば旅立ちのときを思い出せるような、そんな番組に仕上がっているはずだ。
ここが古木のぞみの原点になる。
みんなの愛に感涙する彼女の声を聴きながらそう思った。

そして最後にもう1つ。
番組の中だけではない。その向こう側にだって、声優・古木のぞみを応援するファンとリスナーがいることを付記しておく。

最前線で『星海社ラジオ騎士団』を聴く

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2012.05.18

銅

『君の歳にあの偉人は何を語ったか』

偉人あっての名言、筆者あっての名言集

レビュアー:横浜県 Adept

名言集の楽しみ方は人それぞれである。
言葉から元気をもらうもよし、教養の糧とするもよし。
ちなみに私は、筆者の意図に注目するのが好きだ。
変な話だが、世の中には数多くの偉人がいて、無数の名言が生まれてきた。
その中から一定数を選んで本にまとめるのだから、そこには筆者の独自性が表れる。ソクラテスら哲人を多く引用する本もあれば、実業家のスピーチを中心に取り上げる本もあるだろう。それは名言集のコンセプトにも強く影響されるはずだ。
だから文字におこされている偉人の言葉だけではなく、行間に潜む筆者のメッセージを捉えることが面白いと私は考えている。

『君の歳にあの偉人は何を語ったか』の1冊は、そんな私にとって、これ以上なく興味深い名言集であった。
本作は名言が放たれた背景と文脈に重きがおかれている。そのため偉人の当時の年齢と共に紹介されている。かつてないテーマに基づいているといっていい。
試しに27歳の頁を開いてみる。「『それでは会社を辞めます。今日限り辞めます』と稲盛和夫は27歳で言った!」と書かれてある。
これは本作の筆者が特異的な構想を持っていることを示すいい例だ。
「会社を辞めます」だなんて、そこら辺のリーマンでも言ったことのある台詞だろう。本来なら名言でもなんでもない。
それでも筆者は、この一言を読者に伝えたいと考えたわけだ。それは名言の背景や文脈を考慮しているが故である。

ちなみに名言のうしろには、稲盛和夫についての解説や、名言にまつわるエピソードが紹介されている。
そして最後にこうある。「<27歳の稲盛和夫は僕らにきっとこういうだろう> 心の持ち方を変えたとき、それが君にとっての転機となる」
この項目なんて、私にとってはたまらない。
確かに27歳の稲盛和夫は同じようなことを考えていたかもしれない。でもそんな彼の思考を推測して、この言葉を用意したのは筆者だ。
「心の持ち方を変えたとき、それが君にとっての転機となる」と「僕ら」に伝えたいのは、稲盛和夫ではなく筆者なのだ。
これほどまでに筆者のメッセージが伝わってくる名言集など、かつてあったろうか。
ただここで1つ注意すべきなのは、筆者が目立ちすぎてはいけないということだ。あくまで名言を集めたものなのだから、クローズアップされるべきは偉人である。筆者は黒衣でなくてはならない。
その点、本作は偉人と名言を研究しつくした筆者により執筆されているから安心できる。名言の解説は構成が緻密に練られており、稲盛和夫が本当に「心の持ち方を変えたとき、それが君にとっての転機となる」と僕らに語ってくれるのではないか、そう思わされるようにできている。
筆者のメッセージは、偉人というフィルターを通して読者に伝えられる仕組みになっているのだ。

それでもやはり「結局は筆者が捏造した言葉ではないか」という意見は尽きないものだろう。
しかしながら、この最後の一言には重要な役割が備わっている。
実はこれ、名言を普遍化して噛み砕いたものとなっているのだ。
逆に言うと、最後の一言を特殊化したものが名言なわけだ。
一例を挙げると、「<19歳の南方熊楠は僕らにきっとこういうだろう> 阿呆め。好きなことせんでどうする。人生は短いんじゃ」とあり、その具体例が「淫猥のこと一切、禁ず」という南方熊楠の名言になっている。彼は大好きな研究に没頭するため、「淫猥」を禁じていた。名言の解説部には「それほどまでに追求したいものがあったという証であるし、それくらいでなければ自分の目指したい場所には届かないことを悟っていたのだろう」とある。それを噛み砕いたものが「好きなことせんでどうする」という一言なのだ。
名言から教訓を導きだし、それを一般化して読者に伝えようとする筆者の意図は、実にありがたいものといえる。

さて、もうご理解いただけたのではないかと思うが、名言集のあちこちには筆者の伝えたいことが隠されている。
もちろん名言の数々を味わうことが第一だけれど、さらに筆者からのメッセージを読みとることで、より深く、有意義で楽しい読み方ができるのだ。
『君の歳にあの偉人は何を語ったか』は、特にその傾向が強い。
偉人あっての名言であり、筆者あっての名言集。それを体現した1冊である。

ジセダイで『君の歳にあの偉人は何を語ったか』を読む

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2012.04.23

銅

kishidan-review.png(バナー)

レビューが情熱的かはさておいて。

レビュアー:横浜県 Adept

「この作品の情熱的なレビューが読める!」らしい。
どこでかって? ここですってよ。
そう、まさにここ。『さやわかの星海社レビュアー騎士団』
どういうコーナーかって?
星海社の各作品にレビューを投稿する、読者参加型の企画です。

でもレビュアー騎士団は、「書く」と同時に「読む」ためのコンテンツです。
「この作品の情熱的なレビューが読める!」というバナーは、レビュアー騎士団の「読む」面をクローズアップしていると言えます。
ちなみに今までに作られた数々のバナーや広告(?)は、基本的に「書く」ことを推奨するものばかりでした。
だからこのバナーは、レビュアー騎士団にとっては目新しい部類のものになります。

じゃあレビュアー騎士団を「読む」こと自体が斬新なのかと訊かれれば、当然そんなことはありません。
だって投稿者ふくめ誰1人として閲覧しないのであれば、レビューを「書く」意味もなくなってしまいますからね。
そもそも、さやわか団長は1年ほど前にTwitterでこう書いています。
「レビュアー騎士団の作りはジャンプ放送局、糸井重里の萬流コピー塾、ベーマガのホンキ・ホンネという、古い雑誌の投稿コーナーからヒントを得てます」
もちろん参考にされたのはゲームシステムなどではありましょうが、最初からレビュアー騎士団が「読む」ためのものとして意識されていたと読み取れます。

ここで重要なのは、レビュアー騎士団の読み方には2通りあるということです。
1つは、単に雑誌の投稿コーナーと同じ読み方です。
発刊日に雑誌を買って、その号に掲載されている分を読むのと同じように。更新日にレビュアー騎士団を開いて、その回に選考されたレビューを確認するのです。
2つ目こそ、「この作品の情熱的なレビューが読める!」というバナーが指し示す読み方です。
自分の好きな物語について、どんなレビューが寄せられているのか、作品ごとに目を通すのです。
これは雑誌の投稿コーナーではできない読み方ですよね。記事をスクラップしているのなら別ですが、紙の媒体では難しいことです。
レビュアー騎士団がWeb上のコンテンツであり、作品ごとのアーカイブを設けているがゆえにできるわけです。
まぁ別にそういった機能は、昨今たいして珍しくはありません。ニュースサイトがジャンル別に記事を区分しているのも同じことです。
ただ、それが読者の投稿コーナーのことであるとなれば、やはり特異的な点と言えるでしょう。

「この作品の情熱的なレビューが読める!」というバナーは、レビュアー騎士団がただの投稿コーナーではなく、「読む」コンテンツでもあることを教えてくれています。
そして同時に、雑誌の投稿コーナーとは一味違う楽しみ方を推奨しているのです。
レビュアー騎士団の特徴と可能性を伝えてくれていますね。
バナーとは、そのリンク先を紹介するための画像ですから、その役割を十分にこなしてくれています。
このバナーのおかげで、もっとユーザーが増えてくれると嬉しいですね。

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2012.04.23

銅

ならないリプライ

私はいまリプライをならす

レビュアー:横浜県 Adept

『ならないリプライ』とは、主人公の「僕」が『ならせなかったリプライ』のことです。
後輩のNちゃんは「僕」に告白をします。鐘を「小槌で叩いた」ように。
でも「僕」は返事をかえすことができませんでした。Nちゃんが死んでしまったからです。叩かれた鐘は、音をならさなかったのです。

そんな彼らを私は可哀想だと思いました。
伝えるべき言葉を口にできなかった「僕」と、返事を聴くことができなかったNちゃん。2人を襲った永遠の別れは、余りにも無情です。
ただ両者の間には、決定的な違いが横たわっています。
「僕」には救いがあり、Nちゃんにはないからです。
その起因するところは明確であり、生きているのか、死んでいるのか、の違いであります。
Nちゃんは死んでいます。もうどうしようもありません。
一方で「僕」には、生きている限り次のチャンスがあります。
作品の中でも学生にケンカを売り、「それ相応のレスポンス」があったことを、鐘を叩いたらなったことを喜びます。よかったですね。またそれはNちゃんとの一件を反省し悔やむ契機にもなっているのです。

さて私はいま、「僕」に「可哀想」だとか「よかった」だとか、そういった俯瞰的な感想をかけてきました。
でも本作の読者として、それで私は十分なのでしょうか。
『ならないリプライ』はフィクションです。小説です。
「僕」とNちゃんは架空の人物であり、作者が意図的に彼らを動かし、この物語を僕らにみせているのです。
そこには何らかの意図があっても不思議ではありません。
小説では登場人物に具体的な名前を与えないことで、そのキャラクターに普遍性を持たせたり、読者に一体感を与えさせる、ということがあります。
「僕」には一応「健太」という名前があるものの、友人・安立の台詞内にしか出てきません。名前が出てくる以上、本作がそれを狙っているとは言い難いかもしれません。しかし「僕」という人称が強調されることで、そのような効果を持ちうることは事実です。
またここで生死の別が大きな意味を持ってきます。
この物語を読んでいる私は、「僕」と同様に生きています。
死んだNちゃんに自分を投影することはできず、「僕」にのみ重ねてみることができるわけです。

つまるところ読者である私は、俯瞰的に「僕」の失敗と後悔を眺めているだけでは足りないのかもしれません。
作品から目を離して周りを見渡したとき、そこにはならすべきリプライが転がっていないのか。もしあったとして、いまそれを拾い上げなければ、私は「僕」の二の舞になってしまいます。
フィクションから経験則を学び、登場人物の後悔・反省を自らの身に置き換えて考えてみることは、私が同じ過ちを犯さないための有意義な糧となるに違いありません。
せっかく私は、『ならないリプライ』を読むことができたのですから。
「僕」と一緒で、生きているのですから。
この『ならないリプライ』が与えてくれた、いいチャンスだと思って。
忘れたままでいたリプライを、ならしてみようと思います。

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2012.04.23


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