2WEEKS イカレタ愛
僕たちは「いまここにある世界」を生きていく
レビュアー:横浜県 Adept
僕はフィクションの世界に憧れている。退屈な日常から、そのルーチンから抜け出したいと足掻いている。しかしその願いは叶わない。美少女が空から降ってくることもなければ、超能力が使えるようになるでもない。「いまここにある世界」から、僕たちは逃れることができない。
だから僕は、小説が好きだ。小説を読んでいる間だけ、僕たちは非日常の世界に飛び込むことができる。そこでは美少女が戦っているし、僕らもその戦いに巻き込まれてしまうし、とにかく、刺激的だ。僕たちは登場人物になりきる、あるいは彼らに共感を覚えることで、非日常への扉を開くことができるのだ。
そういった観点から見てみると、『2WEEKS』は少し異質な作品かもしれなかった。新人賞の座談会において、本作は滝本竜彦著の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』との近似性が指摘されたが、また相違点として、戦闘美少女に対応する主人公にも特殊能力がある、という点が挙げられていた。これは瑣末に見えて大きな違いであり、読者のアバターが作中にいるかいないかという違いを意味する。『2WEEKS』には、読者が作品を読むうえで自己を投影しうるようなキャラクターがいない。いや、広い意味での感情移入はできるかもしれないが、厳密に考えたとき、僕らは主人公たちのように超能力を持っていない。彼らの超能力を持って「いる」がゆえの悩みは僕たちの悩みではないし、僕たちの持って「いない」がゆえの悩みは彼らの悩みではない。それらは絶対的に相反している。
しかしその構造だけを取り出してみたとき、両者の悩みは同じことを意味しているのではないだろうか。それは「いまここにある世界」からの逃避願望である。僕が日常から逃れたく思っていることは既に述べたけれど、『2WEEKS』の登場人物たちも、ことあるごとに現実からの逃避をはかろうとする。自分の能力によって母を壊してしまった過去を持つ主人公。身についた戦闘能力で父の仇をうったヒロインは、わざと殺されるために怪物と戦おうとする。また「いつでも、死ねるように」と睡眠薬を持ち歩く少女も登場する。彼らは自分たちの超能力を呪い、それらを手放したいと、そして「いまここにある世界」から飛び出したいと願っている。僕と彼らの違いは、その「いまここにある世界」に超能力があるかないかの、ただ、それだけのことでしかなかった。
僕らは、その点においてのみ、彼らの悩みを分有することができる。いやおうなくつきまとう自らの境遇から、彼らがどのようにして逃避をはかるのか。あるいは、それをやめてしまうのか。その構造だけは、僕らもまた身をもって体感することができる。
たとえば先述した『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』は、「いまここにある世界」から逃れたいと願う主人公が、戦闘美少女であるヒロインと出会い、非日常へと飛び込んでおきながら、結局は彼女と2人で日常に回帰する。それはやはり『2WEEKS』でも同じだった。彼らは自分たちが超能力を持っているという現実を受け入れる。睡眠薬の少女にいたっては、「私はもう、死にたいだなんて思いません」と宣言する。もちろんその過程は複雑で、葛藤の多いものだ。そのプロセスをいかに描いているかという点こそ、この『2WEEKS』が持つ魅力の一つではある。
では、そのように逃避を諦めてしまうということは、彼らにとってよい結果をもたらしたのだろうか。主人公がエピローグで印象深いことを話している。「あの二週間で、僕らは少しだけ前向きになれたのだろうかと思うことがある」と。彼らは確かに「いまここにある世界」から逃れることができなかった。しかしそれは「前向き」な過程だったのだ。彼は続けて言う。「表面上はなにも変わっていないのかもしれない。でも、僕らはゼロの状態になれた」
確かに、彼らの世界は何一つ変わっていない。相変わらず彼らは超能力を持っているし、敵対する勢力との対決も続いていく。でも彼らは、「ゼロの状態」になり、「前向き」に現実を肯定しはじめている。それは、彼らが非日常を求めて足掻いたからこそ得られた成果でもある。ただ無批判に現実を受け入れるだけでもない、またいつまでも現実から目を逸らしつづけているわけでもない。
そうやって彼らが「いまここにある世界」を見つめ直したとき、僕らは何を感じとることができるだろうか。フィクションの世界には遠く及ばない日常、それは時に退屈で、逃げ出したくなるものかもしれない。それでも、僕たちは歩いていかなければならない。そんな力を、本作から得ることはできないだろうか。『2WEEKS』の登場人物たちが、彼らの世界を生きつづけているように。
だから僕は、小説が好きだ。小説を読んでいる間だけ、僕たちは非日常の世界に飛び込むことができる。そこでは美少女が戦っているし、僕らもその戦いに巻き込まれてしまうし、とにかく、刺激的だ。僕たちは登場人物になりきる、あるいは彼らに共感を覚えることで、非日常への扉を開くことができるのだ。
そういった観点から見てみると、『2WEEKS』は少し異質な作品かもしれなかった。新人賞の座談会において、本作は滝本竜彦著の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』との近似性が指摘されたが、また相違点として、戦闘美少女に対応する主人公にも特殊能力がある、という点が挙げられていた。これは瑣末に見えて大きな違いであり、読者のアバターが作中にいるかいないかという違いを意味する。『2WEEKS』には、読者が作品を読むうえで自己を投影しうるようなキャラクターがいない。いや、広い意味での感情移入はできるかもしれないが、厳密に考えたとき、僕らは主人公たちのように超能力を持っていない。彼らの超能力を持って「いる」がゆえの悩みは僕たちの悩みではないし、僕たちの持って「いない」がゆえの悩みは彼らの悩みではない。それらは絶対的に相反している。
しかしその構造だけを取り出してみたとき、両者の悩みは同じことを意味しているのではないだろうか。それは「いまここにある世界」からの逃避願望である。僕が日常から逃れたく思っていることは既に述べたけれど、『2WEEKS』の登場人物たちも、ことあるごとに現実からの逃避をはかろうとする。自分の能力によって母を壊してしまった過去を持つ主人公。身についた戦闘能力で父の仇をうったヒロインは、わざと殺されるために怪物と戦おうとする。また「いつでも、死ねるように」と睡眠薬を持ち歩く少女も登場する。彼らは自分たちの超能力を呪い、それらを手放したいと、そして「いまここにある世界」から飛び出したいと願っている。僕と彼らの違いは、その「いまここにある世界」に超能力があるかないかの、ただ、それだけのことでしかなかった。
僕らは、その点においてのみ、彼らの悩みを分有することができる。いやおうなくつきまとう自らの境遇から、彼らがどのようにして逃避をはかるのか。あるいは、それをやめてしまうのか。その構造だけは、僕らもまた身をもって体感することができる。
たとえば先述した『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』は、「いまここにある世界」から逃れたいと願う主人公が、戦闘美少女であるヒロインと出会い、非日常へと飛び込んでおきながら、結局は彼女と2人で日常に回帰する。それはやはり『2WEEKS』でも同じだった。彼らは自分たちが超能力を持っているという現実を受け入れる。睡眠薬の少女にいたっては、「私はもう、死にたいだなんて思いません」と宣言する。もちろんその過程は複雑で、葛藤の多いものだ。そのプロセスをいかに描いているかという点こそ、この『2WEEKS』が持つ魅力の一つではある。
では、そのように逃避を諦めてしまうということは、彼らにとってよい結果をもたらしたのだろうか。主人公がエピローグで印象深いことを話している。「あの二週間で、僕らは少しだけ前向きになれたのだろうかと思うことがある」と。彼らは確かに「いまここにある世界」から逃れることができなかった。しかしそれは「前向き」な過程だったのだ。彼は続けて言う。「表面上はなにも変わっていないのかもしれない。でも、僕らはゼロの状態になれた」
確かに、彼らの世界は何一つ変わっていない。相変わらず彼らは超能力を持っているし、敵対する勢力との対決も続いていく。でも彼らは、「ゼロの状態」になり、「前向き」に現実を肯定しはじめている。それは、彼らが非日常を求めて足掻いたからこそ得られた成果でもある。ただ無批判に現実を受け入れるだけでもない、またいつまでも現実から目を逸らしつづけているわけでもない。
そうやって彼らが「いまここにある世界」を見つめ直したとき、僕らは何を感じとることができるだろうか。フィクションの世界には遠く及ばない日常、それは時に退屈で、逃げ出したくなるものかもしれない。それでも、僕たちは歩いていかなければならない。そんな力を、本作から得ることはできないだろうか。『2WEEKS』の登場人物たちが、彼らの世界を生きつづけているように。