野中美里『2WEEKS イカレタ愛』
真っ当なコミュニケーション。相手の人生を背負うことについて。
レビュアー:USB農民
他人の命を助けたり。
自分の命を預けたり。
それって、どれほど大変なことだろうか?
そう思う反面、真っ当なコミュニケーションとは、その大変さを受け入れることだよな、とも思う。
この作品の主人公、上代雪介は「生き物を治す能力」を持つ。彼はその能力を使い、夜の校舎でシマウマ男にバラバラに惨殺されたヒロイン、黒戸の命を助ける。(いきなりレビューの本筋から離れるけど、この場面の情景はとても印象深い。そこに至るまでの冒頭の展開は退屈に感じていたけれど、真夜中の校庭で、血と肉と内蔵と化したヒロインの体が、ずるずると一つに集まっていき復活するという現実味のないはずの描写が、この作品で最も輝いているとすら思う。「ごめん、黒戸」「上代君の能力は残酷だね」という台詞もぐっとくる)
雪介は過去にも母親を生き返らせたことがある。しかし、生き返った母親は少しずつ狂い出して異常な行動をとるようになった。
黒戸もまた、母親と同じように狂っていくのではないかと雪介は不安を覚える。生き返った彼女が人を殺したとしたら、それは言い訳の余地なく雪介の責任でもある。
この不安こそが、『2WEEKS』という物語の本質だ。
他人の人生に関わっていくということは、大なり小なり、雪介の行為と同じことを意味している。
たとえば貴方が誰かと恋愛をし、結婚をし、子供をつくったとする。その子が成長して、取り返しのつかない犯罪を犯し、大勢の人間に迷惑をかけることになる可能性を考えたことがあるだろうか? 勿論、言うまでもなく、そんなことは誰も起きてほしいとは思わないし、起こしてはいけないことだし、起こらないようにすべきことだ。
でもその可能性はゼロではない。
憂鬱になる話だけれど、しかしその可能性を避け続けるということは、他人と深く関わり合わないということだ。
恋人でなくとも、友人関係にだって、親子の間にだって、同じようなことは言える。
貴方の言葉が、貴方の近しい人に影響を与え、それが望まぬ結果を生むことは、決してあり得ないことではない。
コミュニケーションにつきまとう潜在的不安。
ゼロ年代に流行した「セカイ系」の作品の多くは、この不安を巧妙に回避していた。男の子の代わりに戦う戦闘美少女を前に、当の男の子は美少女が戦う理由や責任が、他ならぬ自分自身にあることに、あまりに無自覚だった。なぜなら、「セカイ」のために戦う力を持つ美少女に比べて、男の子はまるで無力な存在のように振る舞っていたから。無力感は、不安から男の子を守る隠れ蓑の役割を果たしていた。
『2WEEKS』は、男の子と戦闘美少女という関係性こそ「セカイ系」を踏襲しているが、不安を隠さず描いている点で異なっている。
黒戸は、雪介が力をつかわなければ、死んだままだった。だから、生き返った黒戸の行いは雪介に原因があり、彼の責任へ結びついている。
この潜在的不安は、作品全体を覆っている。物語後半で、主人公は自分の命運を、仲間の少女に託すのだけど、そんな展開にすら不安を覚えずにはいられない。(少女が裏切るのではないか、あるいは失敗するのではないか、と不安を煽るような伏線もちりばめられている)
他人の命を助けたり。
自分の命を預けたり。
どちらも同じ不安を抱えている。
この物語は、その不安に真っ向から向き合っている。
雪介と黒戸の恋愛劇は、単なる物語上の演出ではなく、この潜在的不安という本質から必然的に導かれていると言える。
雪介が黒戸と一緒にいることを選ぶのは、不安と向き合うことを意味している。それは、相手の人生を一緒に背負うことと同じだ。
そんな二人の恋愛劇が、私はとても好きだ。
「イカレタ愛」なんて言葉とは裏腹に、それは真っ当なコミュニケーションの在り方だと、私は思うから。
最前線で『2WEEKS イカレタ愛』を読む
自分の命を預けたり。
それって、どれほど大変なことだろうか?
そう思う反面、真っ当なコミュニケーションとは、その大変さを受け入れることだよな、とも思う。
この作品の主人公、上代雪介は「生き物を治す能力」を持つ。彼はその能力を使い、夜の校舎でシマウマ男にバラバラに惨殺されたヒロイン、黒戸の命を助ける。(いきなりレビューの本筋から離れるけど、この場面の情景はとても印象深い。そこに至るまでの冒頭の展開は退屈に感じていたけれど、真夜中の校庭で、血と肉と内蔵と化したヒロインの体が、ずるずると一つに集まっていき復活するという現実味のないはずの描写が、この作品で最も輝いているとすら思う。「ごめん、黒戸」「上代君の能力は残酷だね」という台詞もぐっとくる)
雪介は過去にも母親を生き返らせたことがある。しかし、生き返った母親は少しずつ狂い出して異常な行動をとるようになった。
黒戸もまた、母親と同じように狂っていくのではないかと雪介は不安を覚える。生き返った彼女が人を殺したとしたら、それは言い訳の余地なく雪介の責任でもある。
この不安こそが、『2WEEKS』という物語の本質だ。
他人の人生に関わっていくということは、大なり小なり、雪介の行為と同じことを意味している。
たとえば貴方が誰かと恋愛をし、結婚をし、子供をつくったとする。その子が成長して、取り返しのつかない犯罪を犯し、大勢の人間に迷惑をかけることになる可能性を考えたことがあるだろうか? 勿論、言うまでもなく、そんなことは誰も起きてほしいとは思わないし、起こしてはいけないことだし、起こらないようにすべきことだ。
でもその可能性はゼロではない。
憂鬱になる話だけれど、しかしその可能性を避け続けるということは、他人と深く関わり合わないということだ。
恋人でなくとも、友人関係にだって、親子の間にだって、同じようなことは言える。
貴方の言葉が、貴方の近しい人に影響を与え、それが望まぬ結果を生むことは、決してあり得ないことではない。
コミュニケーションにつきまとう潜在的不安。
ゼロ年代に流行した「セカイ系」の作品の多くは、この不安を巧妙に回避していた。男の子の代わりに戦う戦闘美少女を前に、当の男の子は美少女が戦う理由や責任が、他ならぬ自分自身にあることに、あまりに無自覚だった。なぜなら、「セカイ」のために戦う力を持つ美少女に比べて、男の子はまるで無力な存在のように振る舞っていたから。無力感は、不安から男の子を守る隠れ蓑の役割を果たしていた。
『2WEEKS』は、男の子と戦闘美少女という関係性こそ「セカイ系」を踏襲しているが、不安を隠さず描いている点で異なっている。
黒戸は、雪介が力をつかわなければ、死んだままだった。だから、生き返った黒戸の行いは雪介に原因があり、彼の責任へ結びついている。
この潜在的不安は、作品全体を覆っている。物語後半で、主人公は自分の命運を、仲間の少女に託すのだけど、そんな展開にすら不安を覚えずにはいられない。(少女が裏切るのではないか、あるいは失敗するのではないか、と不安を煽るような伏線もちりばめられている)
他人の命を助けたり。
自分の命を預けたり。
どちらも同じ不安を抱えている。
この物語は、その不安に真っ向から向き合っている。
雪介と黒戸の恋愛劇は、単なる物語上の演出ではなく、この潜在的不安という本質から必然的に導かれていると言える。
雪介が黒戸と一緒にいることを選ぶのは、不安と向き合うことを意味している。それは、相手の人生を一緒に背負うことと同じだ。
そんな二人の恋愛劇が、私はとても好きだ。
「イカレタ愛」なんて言葉とは裏腹に、それは真っ当なコミュニケーションの在り方だと、私は思うから。
最前線で『2WEEKS イカレタ愛』を読む