小泉陽一郎『ワニ』
たとえみっともなく無様でも
レビュアー:USB農民 Adept
デビュー作から小泉陽一郎の作品を読んできて、彼の作品に一貫したテーマのようなものを感じるようになってきた。
それは「言葉が出てこない状況での表現」だ。
自分のこれまでの人生経験だけでは対処できない程の、圧倒的な現実に直面した時、人は言葉を失ってしまう。私個人の経験で言えば、恋愛の最中にそういう状態になった時があるし、あるいは3・11の直後でもそうだった。自分が直面している現実を、どう表現すればいいのかがわからなくなる。
何も感じていないわけじゃないし、何も考えていないわけじゃない。でも、自分が感じ、考えていることを言葉に落とし込むことができない。もっと言えば、表現できない。言葉にでなくても、身振りや手振りでもいいから、表現できれば楽なのだろうに、それがどうしてもできなくなる。
小泉陽一郎の作品は、その瞬間を切り出している。
『夜跳ぶジャンクガール』では、目の前で女の子が自殺しようとしているのに、それを止める言葉が出てこない。
『ならないリプライ』では、かつて自分に告白してくれた女の子が、無惨に殺されてしまい、その事件に対して誰にどういう感情を向ければいいのかわからなくなる。
『ワニ』では、自分以外の男に処女を奪われ、両足まで欠損した恋人に対して生理的嫌悪感を抱いてしまい、恋人とまともにコミュニケーションできなくなる主人公を描く。
これらの作品は一貫して、「言葉が出てこなくなる状況」を描き続けている。
それは、具体的な状況は違えど、誰の人生にも起こりうることだ。そのとき、言葉を出せないことはとても苦しい。人が恋愛をしたとき、まず最初に苦しむのは、自分の気持ちがうまく表現できないやるせなさだろう。まずは自分の感じていること、考えていることを、言葉にしなくてはいけない。言葉にできなければ、それ以外の手段で表現しなくてはいけない。それができないと、人はずっとその苦しみに囚われてしまう。
『ワニ』の物語は、幾つかの事件が平行して描かれていて、そのどれもが主人公である高橋アユムにとって直視したくないような現実をもたらしている。なんというか、高橋アユムを悲惨な目に合わせるためだけに用意されたような事件ばかりだ。
それはある意味で、正しいのではないかと思う。
『ワニ』は、高橋アユムが、悲惨な現実に対して、自分の感じたこと考えたことを表現する物語だ。
最終場面。高橋アユムの口からでるのは、もはや言葉ではなく吐瀉物だけで、彼は吐き続けながら、恋人に向かって歩いていく。
吐瀉物を吐き続けること。
恋人に向かって歩き続けること。
それらはきっと、みっともなく無様でも、高橋アユムの感じたこと考えたことの表現なのだと思う。
それは「言葉が出てこない状況での表現」だ。
自分のこれまでの人生経験だけでは対処できない程の、圧倒的な現実に直面した時、人は言葉を失ってしまう。私個人の経験で言えば、恋愛の最中にそういう状態になった時があるし、あるいは3・11の直後でもそうだった。自分が直面している現実を、どう表現すればいいのかがわからなくなる。
何も感じていないわけじゃないし、何も考えていないわけじゃない。でも、自分が感じ、考えていることを言葉に落とし込むことができない。もっと言えば、表現できない。言葉にでなくても、身振りや手振りでもいいから、表現できれば楽なのだろうに、それがどうしてもできなくなる。
小泉陽一郎の作品は、その瞬間を切り出している。
『夜跳ぶジャンクガール』では、目の前で女の子が自殺しようとしているのに、それを止める言葉が出てこない。
『ならないリプライ』では、かつて自分に告白してくれた女の子が、無惨に殺されてしまい、その事件に対して誰にどういう感情を向ければいいのかわからなくなる。
『ワニ』では、自分以外の男に処女を奪われ、両足まで欠損した恋人に対して生理的嫌悪感を抱いてしまい、恋人とまともにコミュニケーションできなくなる主人公を描く。
これらの作品は一貫して、「言葉が出てこなくなる状況」を描き続けている。
それは、具体的な状況は違えど、誰の人生にも起こりうることだ。そのとき、言葉を出せないことはとても苦しい。人が恋愛をしたとき、まず最初に苦しむのは、自分の気持ちがうまく表現できないやるせなさだろう。まずは自分の感じていること、考えていることを、言葉にしなくてはいけない。言葉にできなければ、それ以外の手段で表現しなくてはいけない。それができないと、人はずっとその苦しみに囚われてしまう。
『ワニ』の物語は、幾つかの事件が平行して描かれていて、そのどれもが主人公である高橋アユムにとって直視したくないような現実をもたらしている。なんというか、高橋アユムを悲惨な目に合わせるためだけに用意されたような事件ばかりだ。
それはある意味で、正しいのではないかと思う。
『ワニ』は、高橋アユムが、悲惨な現実に対して、自分の感じたこと考えたことを表現する物語だ。
最終場面。高橋アユムの口からでるのは、もはや言葉ではなく吐瀉物だけで、彼は吐き続けながら、恋人に向かって歩いていく。
吐瀉物を吐き続けること。
恋人に向かって歩き続けること。
それらはきっと、みっともなく無様でも、高橋アユムの感じたこと考えたことの表現なのだと思う。