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「死ぬのがこわくなくなる話」のレビュー

銀

渡辺浩弐『死ぬのがこわくなくなる話』

あなたが思い込んでいるだけかもしれない。

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

(高井舞香を支持)

 私は小さい頃「人はいつか死ぬのだ。ただし、僕はたぶん死なない」などと思い込んでいた時期があって、実に子供らしい間違いだと今は笑うけれど、当時はけっこう本気でそう考えていたことも事実なのだ。

 人の思い込みは、山のように不動で巨大で圧倒的だ。しかも魔力を持った山だ。人はその「思い込みの魔山」を前にして、それを迂回するという発想に気づかない。そのことに不自然さも感じず、それどころか、絶対的な真実であるとさえ感じることもしばしばある。

 本書は、著者と「思い込みの魔山」との闘いの足跡である。
「不老不死は本当に不可能なのか?」
 この言葉から始まる物語は、その問いの困難さに負けない勢いをもっている。「思い込みの魔山」との無謀に思える闘いは、科学的知識や、自由闊達な思考と語りを武器に、少しずつ前進し、一つずつ「魔」を取り除いて新たな風景を見つけていく。その足跡は、とてもスリリングで面白い。

 誰にとっても「思い込みの魔山」は厄介な相手であるが、それを打ち破ることは不可能ではないのだ。

 最後に、この文章を読んでいるあなたに問いたい。あなたは、もしかして、「自分はいつか必ず死ぬ」と思い込んではいないだろうか?
 そういう人にこそ、私はこの本を強くお勧めしたい。

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2013.05.29

「死ぬのがこわくなくなる話」のレビュー

銀

死ぬのがこわくなくなる話

話の虚実、僕という存在の虚実

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

物語は作者・渡辺浩弐と同一同名の主人公が死について追究するところから始まる。
そこには地道な下調べに基づく知識と考察が記されていた。
もともと小説だと思って読み始めた僕は、とことん面食らったものだ。
しかしノンフィクションだと理解したのも束の間、物語は再び虚構の世界へと飛びこんでいく。
渡辺浩弐は人の生死を扱う秘密結社と対峙することになる。
彼の思索は次第に深まり、やがては形而上の概念にまで行きつく。
「自分とは何か」
いま自分が自分だと思っているものは、つい数分前まで別の何者かであったかもしれない。そして数分後には、また別の何者かになっているかもしれない。
考え始めればキリのない問答であるが、この主張はある種の科学的な説得性を伴って語られる。
ちなみに、ここまで渡辺浩弐は一度もこの物語がフィクションであるとは述べていない。あくまで現実の話であるかのように振る舞っていた。
だから僕はどうせ虚構なのだと高をくくっていた。彼のネタばらしを待っていた。
やがて物語が終わりを迎えたとき、渡辺浩弐はついに宣言する。
「こ れ は [小説] で す」
彼の種明かしを読んだ僕は、ほらほらやっぱりそうじゃないか、と笑みをこぼす。はずであった。そうではなかった。
落ち着かない。さっさとしろよと心中で急かしてすらいた言葉なのに、それを目にしたせいで、かえって胸騒ぎがする。
なぜか。先の理論が頭をもたげてくるからだ。
この物語が虚構であることを宣言した渡辺浩弐は、いつから渡辺浩弐だったのか。この話が始まったときからなのか。それとも、ついさっきからなのか。
なまじ科学的な解説がされていたせいで、ありえない話だと切り捨てることができない。
もしかしたらこの物語に描かれていたことは全て事実で、入れ替わったばかりの渡辺浩弐が嘘をついているのではないのか。
いいや、実際には全てが虚構だなんて分かり切っている。こうやって僕が訝しむことすら、彼の、そして彼が作った物語の思惑通りなのだと。
だけれど、それでも、怖いのだ。
理由は簡単なことで、渡辺浩弐への疑いの眼差しが、そっくりそのまま僕にはねかえってくるからだ。
いまの渡辺浩弐が、かつての渡辺浩弐であるのか定かではない。
同様に、いまの僕が、かつての僕であるかもまた不明瞭なのだ。
そう気づかされたとき、僕は死ぬのがこわいだとかこわくなくなるだとか、そんなものはもうどうでもよくなった。
いまの僕は何者なのだ。僕はこれから何者になり、何者が僕になるのか。僕は輪廻の中で永遠に生き続ける。
それは死を超越した恐怖だ。
『死ぬのがこわくなくなる話』
本作の題は正しかった。しかしその向こう側にある、もっと根源的かつ大きな恐怖に直面させられる。
だからしっかりと、生きなければいけない。
「自分とは何か」を意識できるようになったそのとき、本当に「こわくなくなる」日がやってくるだろうから。

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2012.05.18


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