ダンガンロンパ/ゼロ
待て、読むな!
レビュアー:またれよ Novice
『ダンガンロンパ/ゼロ』を読もうとしている人を見たら私はとりあえず全力で阻止したい。そして聞きたい。
ゲームやった?
あ、やったの。クリアした。こいつは失礼。読むなとか言ったのは忘れて下さい、どうぞ心置きなく読んで下さい。
あ、やってない。……え、やってない!? そいつはいけねぇ。ああ本を開いちゃいけない。まだ本棚にしまっておこう。Webで読もうとしてるならブラウザなんて閉じよう。今読んでるレビューは開いたままにしとこう。そしてとりあえずゲームしよう。いやすべきだと思うよぉ、私は。
まず『ダンガンロンパ』というのはPSPのゲームなんだ。知ってたかな。どんなゲームか。様々な分野で超高校生級(たとえば主人公は超高校生級の幸運)と言われる高校生たちがある学校に閉じ込められてしまうのだけど、そこから出るには仲間を殺さなければいけないというルールがある。だけどたとえ殺したとしても学級裁判でその犯行が暴かれると自分自身が殺されてしまう。そういう極限状態の世界。次々と起きる殺人事件を主人公は推理していく。残酷なルール、そして凄惨な描写。だけどこんな絶望の中から必死に希望を見つけ出そうとする主人公の姿に、そしてあくまでも希望を描き出そうとする作者の芯の通った姿勢に深い感動を覚える。で、その「前日譚」に当たるのがこの『ダンガンロンパ/ゼロ』。
なぜ読む前にゲームをやるべきだなどと言うのか。
それは『ダンガンロンパ/ゼロ』の冒頭からこの世界の核心について触れられているから。有り体に言えばネタバレしちゃってるから。
……というのは読んだ人からよく言われているように思うんだけど、私は他にも理由はあるんだ。
『ダンガンロンパ』は極限状態の中での絶望と、そして希望を描く。絶望とは何か。希望とは何か。それがこのシリーズの重要なテーマなんだ。『ダンガンロンパ』は物語の必然性や因果性を自覚的に切り捨ててこの二つのテーマを強烈に提示してきた。シンプルゆえに浮かび上がる絶望と希望の文字。ゲームをやった人はこのテーマに対して何かしらの答えを見つけているんじゃないかな。
だからその上で『ダンガンロンパ/ゼロ』を読んでほしい。小説ではこのテーマが違う切り口で提示される。特に希望は、ゲームで出したはずの答えが揺らぐ。また問われるんだよ。絶望とは何か。希望とは何か。その境界で読者は悩むだろう。自分たちが絶望と思っていたものは希望で、希望と思っていたものは絶望となる。この二つの言葉に騙される。世界がひっくり返ってしまいそうな困惑。一度ゲームで希望を知ったからこそ、小説でまた疑いをもつ。絶望・希望と二項対立で簡単に言ってしまうけれども、その言葉はあまりにも頼りない。私にとっての希望と君にとっての希望は違うんじゃないかな。
『ダンガンロンパ』と『ダンガンロンパ/ゼロ』は媒体が異なるっていうのも大きなポイントなんだ。前者はゲーム。自らキャラクターを動かし、選択肢を選び、推理する。プレイヤーが操作することで物語は進む。そう言った意味でプレイヤーと物語の時間は同期している。つまりリアルタイムで物語が進行する。未来へ進んでいくんだ。
ところが後者の『ゼロ』は小説だ。ゲームで動かせたはずのキャラクターは自分で操作できない。ページをめくる、あるいはwebなら画面をスクロールすることで物語を進めることはできる。しかしそれは殺人事件と学級裁判が起きる『ダンガンロンパ』の時間から遡った、過去をなぞる行為でしかなくなる。プレイヤーだった読者は知っているんだ。この『ゼロ』の「前日譚」からあのゲームの絶望的な世界に向かってしまうということを。自分では操作できない過去。眺めることしかできない、動かすことのできない過去。これはゲームをやってしまったからこそ味わえる絶望なんだ。
まずは絶望と希望をプレイしてみてほしい。そして今度は読んでみてほしい。君にとって絶望とはなんだろう。希望とはなんだろう。
ゲームやった?
あ、やったの。クリアした。こいつは失礼。読むなとか言ったのは忘れて下さい、どうぞ心置きなく読んで下さい。
あ、やってない。……え、やってない!? そいつはいけねぇ。ああ本を開いちゃいけない。まだ本棚にしまっておこう。Webで読もうとしてるならブラウザなんて閉じよう。今読んでるレビューは開いたままにしとこう。そしてとりあえずゲームしよう。いやすべきだと思うよぉ、私は。
まず『ダンガンロンパ』というのはPSPのゲームなんだ。知ってたかな。どんなゲームか。様々な分野で超高校生級(たとえば主人公は超高校生級の幸運)と言われる高校生たちがある学校に閉じ込められてしまうのだけど、そこから出るには仲間を殺さなければいけないというルールがある。だけどたとえ殺したとしても学級裁判でその犯行が暴かれると自分自身が殺されてしまう。そういう極限状態の世界。次々と起きる殺人事件を主人公は推理していく。残酷なルール、そして凄惨な描写。だけどこんな絶望の中から必死に希望を見つけ出そうとする主人公の姿に、そしてあくまでも希望を描き出そうとする作者の芯の通った姿勢に深い感動を覚える。で、その「前日譚」に当たるのがこの『ダンガンロンパ/ゼロ』。
なぜ読む前にゲームをやるべきだなどと言うのか。
それは『ダンガンロンパ/ゼロ』の冒頭からこの世界の核心について触れられているから。有り体に言えばネタバレしちゃってるから。
……というのは読んだ人からよく言われているように思うんだけど、私は他にも理由はあるんだ。
『ダンガンロンパ』は極限状態の中での絶望と、そして希望を描く。絶望とは何か。希望とは何か。それがこのシリーズの重要なテーマなんだ。『ダンガンロンパ』は物語の必然性や因果性を自覚的に切り捨ててこの二つのテーマを強烈に提示してきた。シンプルゆえに浮かび上がる絶望と希望の文字。ゲームをやった人はこのテーマに対して何かしらの答えを見つけているんじゃないかな。
だからその上で『ダンガンロンパ/ゼロ』を読んでほしい。小説ではこのテーマが違う切り口で提示される。特に希望は、ゲームで出したはずの答えが揺らぐ。また問われるんだよ。絶望とは何か。希望とは何か。その境界で読者は悩むだろう。自分たちが絶望と思っていたものは希望で、希望と思っていたものは絶望となる。この二つの言葉に騙される。世界がひっくり返ってしまいそうな困惑。一度ゲームで希望を知ったからこそ、小説でまた疑いをもつ。絶望・希望と二項対立で簡単に言ってしまうけれども、その言葉はあまりにも頼りない。私にとっての希望と君にとっての希望は違うんじゃないかな。
『ダンガンロンパ』と『ダンガンロンパ/ゼロ』は媒体が異なるっていうのも大きなポイントなんだ。前者はゲーム。自らキャラクターを動かし、選択肢を選び、推理する。プレイヤーが操作することで物語は進む。そう言った意味でプレイヤーと物語の時間は同期している。つまりリアルタイムで物語が進行する。未来へ進んでいくんだ。
ところが後者の『ゼロ』は小説だ。ゲームで動かせたはずのキャラクターは自分で操作できない。ページをめくる、あるいはwebなら画面をスクロールすることで物語を進めることはできる。しかしそれは殺人事件と学級裁判が起きる『ダンガンロンパ』の時間から遡った、過去をなぞる行為でしかなくなる。プレイヤーだった読者は知っているんだ。この『ゼロ』の「前日譚」からあのゲームの絶望的な世界に向かってしまうということを。自分では操作できない過去。眺めることしかできない、動かすことのできない過去。これはゲームをやってしまったからこそ味わえる絶望なんだ。
まずは絶望と希望をプレイしてみてほしい。そして今度は読んでみてほしい。君にとって絶望とはなんだろう。希望とはなんだろう。