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読者レビュー

銅

ダンガンロンパ/ゼロ 著:小高和剛

歓喜の歌

レビュアー:ジョッキ生 Knight

1ページ読んで分かった。
これは傑作だ、そしてこいつは天才だ!

ダンガンロンパというゲームをご存知だろうか?(株)スパイクから発売されたこのゲーム。多数の同業シナリオライターを震撼させたことは記憶に新しい。その中には帯にコメントも寄せている奈須きのこ、虚淵玄両氏も含まれている。また、登場キャラ、モノクマの声に某未来型ロボットの声優でもあった大山のぶ代氏が起用されたことも話題になった。

ゲーマーでなくても食いついておかしくないこのゲームをしかし私はやっていない。理由は至極簡単で話題になりすぎていたからだ。はっきり言って悪癖であるが、大衆化された時点でとんとやる気がなくなってしまうのである。結果的に私はこのゲームをやっていなかったし、きっとこれからもやることはないだろうと思っていた。

だが、突然に転機は訪れた。ゲームの前日譚と銘打たれた小説がしかも原作シナリオライターの手によって書き下ろされたのである。

ここにきて私の中のこの作品に対する興味が再燃した。もしこの作品に触れるとしたらこの機会をおいて他にないという直感もあった。急ぎレジに向かい購入。すぐさま帰りの電車の中で開封し冒頭の感想に至るのだった。

小説の読み方は人それぞれで、どこを中心に物語を読み解いていくかはそれこそ無限に存在する。ただ、大まかに2つに分けるとするならばシナリオとビジュアルであろう。

シナリオとは伏線等、内容の根幹に関わる部分や全体的な破綻の無さ等、整合性のとれた様式美に近い面を含む、つまりは中身である。

ビジュアルとは登場人物のキャラクター性をメインに、物語の牽引役となるファクターで分かり易く表現された、つまりは外身である。

これを踏まえた上で語るなら、本書は圧倒的に後者である。本当に圧倒的としかいいようがない。それほどまでにずば抜けている。天才と呼称した大部分はそこにある。

持論の中に途中から入っても面白いものは本物である、というものがある。つまりは、作品が単体として成立しているかどうかという側面について言っているのだ。続編として作られるものが前作を踏まえた上で成り立っているのは当たり前である。では逆に前作を知らなければやっても面白くないのであれば、それは作品のパワーが弱いことと同義である。

なにが言いたいかというと、前述した通り私はこのゲームをやっていない。なのに本書に対しての感想として傑作であり、作者に至っては天才であると評している。この凄さがお分かり頂けるだろうか?

内容についてはまだ上巻であり多くは謎のままであるが、すべてが終わっているようで始まってすらいないような印象を抱いた。続きが気になってしょうがない。おとなしくゲームでも買って待つことしか今の自分にはできないことが悔しいが、これも魅了された側の弱みとして耐えしのぐしかないのだった。

1ヶ月って長いなー・・・。

2011.09.30

のぞみ
「1ヶ月って長いなー・・・。」というところが、良いなぁって思いました!
さやわか
面白いですな。わりとしっかりと文章を書きつつ、こういうオチになっているのは個人的にはけっこう好きです。
のぞみ
全体としては、どんなところが良いのか、伝えようとしているのがいいですよね。
さやわか
そして、この作品に触れた時の衝撃が臨場感ある描写で伝わってきます。シナリオとビジュアルというものについて触れた、独自の主張もなるほどと思わせるものがある。ということで「銅」にしたいと思います。どうして「銀」ではないかというと、わずかですが文章的にこなれていない部分があるのですね。具体的に言うと、たとえばですが「持論の中に途中から入っても面白いものは本物である、というものがある」のくだりなどです。「途中から入っても面白いものこそが本物である」というのは、修飾語を廃した、いわば命題ですから、読者にとっては漠然としてわかりにくい文章です。だからこそ、すぐに「つまり」という言葉が来て、その意味を説明しようとしている。ところがその文章は、「という側面について言っている」という、「意味」そのものではない内容になってしまった。すると、読者はなんだかよくわからない気持ちを抱えたまま次の行にすすまなきゃいけないのですな。たぶん、書き手はここの部分を書きあぐねた末にこの「という側面について言っている」という表現を使ったのだと思いますが、そういう部分こそグッとこらえて「……というものがある。つまり」の後に「それは……という意味である」が来るという定型を崩さずに書いていただきたいところです。

本文はここまでです。