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「月のかわいい一側面」のレビュー

銅

月のかわいい一側面

時の果てに実る執着

レビュアー:くまくま

 いや、ドンびくわ。それはないわ。好きな女の子に贈った携帯ストラップに盗撮カメラを仕込む?家の前のゴミ捨て場で、彼女の捨てたゴミを漁る?尾行して彼女の会話を盗み聞く?
 おいおいおい、完全なストーカーじゃないか。それもすさまじく悪質なヤツじゃない?しかも、次の満月には彼女は自分のことを好きになるなんて、妄想まで入っている。これのどこが、中秋の名月にふさわしいんだ?

 それがまさに第一印象。もはや弁解の余地なし。そう思って読み進めていくと、ある意味でそれは誤解であり、ある意味でそれはもっと根深いものであることを知らされる。
 前者の誤解は、必ずしも一方的な思いではなかったということだし、後者のそれは、一千年にも及ぶ執着だったということだ。その結末はまさに、日本人が思い描く中秋の名月にふさわしいもの。

 月が明るく地球を照らしているとき、地球もまた淡く月を照らしている。一方通行の関係に、美しさはない。

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2011.09.30

「月のかわいい一側面」のレビュー

鉄

月のかわいい一側面

境目

レビュアー:ticheese WarriorWarrior

 人を好きになるって素敵なことですよね。
 最初は誰でもそう思います。でも好きだって気持ちが一方通行だった場合はちょっと難しい。例えば、数ヶ月思い続けることはよくあること。1年思い続けると女の子をキャッキャさせる話にもできます。しかしさらに何年も思い続けていると、人は恋を執着だと捉えてしまうかもしれません。年月に限った話でなく、行動やその他諸々で決まる「素敵」から「怖い」に変わる境目。程度の差こそあれ、誰の感性にもある境目。

 片思いを描いた『月のかわいい一側面』をあなたが素敵だと感じるかはその境目に委ねられます。しかし素敵と感じなくても、人を好きになるっておもしろいです。
 境目はひとつとは限らないんですから。

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2011.09.30

「月のかわいい一側面」のレビュー

銅

『月のかわいい一側面』

帝のかわいい一側面

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

「クサイこと言うよ」
「……やめて」
「本当にクサイよ」
「……いらん」
「言ってもいいかな」
「……聞きたない」
「ぼくはきみを愛してる」
「……うえーー……」

なかなか最悪の会話の流れだ。一世一代の告白に対する返しが、まさかの「……うえーー……」だ。まぁでもそうだよな、告白してる男は、なんてったってストーカーだし。一千年前は帝だったらしいけど。
けどちょっと考えてみると、この帝なかなかかわいい一面を持ってる。”元”帝で、”現”フリーター兼ストーカーなんていう、物語史上に残る突拍子もない経歴と肩書きをもつ帝だけど。彼女はきっとおれのものになるっていう、ある意味傲慢な考え方はもしかしたらこれっぽちも変わっていないのかもしれないけれど、フリーターになってまで食いつなぎ、ストーカーになってまで彼女を追いかけるその姿は、バカだけどまっすぐでかわいいと思う。たぶん上記の告白のシーンだって、彼女の返しなんてあんまり聞こえてないくらい、もう自分に酔うくらいの状態で告白してると思うんだ。けど、何も聞こえなくなるくらいに必死に、一千年間の想いを告げる帝は、月ウサギと同じくらい、とてもかわいらしかった。

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2011.09.30

「月のかわいい一側面」のレビュー

銅

月のかわいい一側面

一番かわいいのは……

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 イザヤはかわいい。
 前半部の物語は、イザヤのかわいさをこれでもかと強調するようなエピソードが綴られている。大阪弁やツンデレなどの記号的描写に加え、主人公を筆頭に、彼女のかわいさを賛美する人々が次々と登場する。この物語自体、彼女が人間離れしたかわいさを備えているからこそ成立している話なので、このような描写は、物語全体の説得力を生むため必然的に求められたのだろう。

 かくいう私も、読んでいる間、イザヤをかわいいと思った。
 しかし、物語の後半部、状況は一変した。
 イザヤよりもかわいい存在が作中に現れるのだ。
 それが「月うさぎ」である。
 こいつが一番、かわいい。

 月がぺろんとめくれていく様を、イラストで見せて行くというアイディアはとても良いと思う。しかし、卑怯なくらいかわいいイラストとともに現れた「月うさぎ」は、実は物語的には何の必然性もない存在だ。「月うさぎ」が現れなくても、主人公とイザヤの物語は語ることができる。
 イザヤは作品内の世界において、最もかわいい存在でなくてはいけない。でないと、主人公の狂信的な動機についての説得力と、物語の緊張感が薄れてしまう。主人公が目指す目的はその世界で最大のものであることが望ましい。
 だというのに、イザヤというヒロインをさしおいて、空気を読まずに「月うさぎ」は現れた。おそらくカレンダー小説という(物語とは別の)要素が、物語内における中秋の名月として、「月うさぎ」の登場を要請したのだろう。
 そこにカレンダー小説としての必然性はあるが、物語にとっての必然性はない。

 イザヤと「月うさぎ」は、どちらもかわいいが、両者の存在理由は異なっていて、なおかつ、作中でその二つの存在は深く関連しないまま、物語は閉じてしまう。
 そのため、この作品の読後感は中途半端な印象になってしまっている。

 物語を支えるかわいさと、カレンダー小説を支えるかわいさ。
 この二つが上手く関連し合いながら機能していれば、読後感はもっとすっきりしたものになっていたと思うし、きっとラストシーンの感情の揺れも大きくなっただろう。
 その点が、勿体なかったなあ、と感じる。

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2011.09.30

「月のかわいい一側面」のレビュー

銅

月のかわいい一側面

私も飛べるよ!

レビュアー:matareyo

「ぼくの予想が正しければ、十五夜の下でイザヤはぼくのものになる」

おおぅいきなり何様なんだい君は、とそんな出だしで始まる『月のかわいい一側面』。犬村小六・著、片山若子・イラストのこの作品は星海社web・「最前線」にて「カレンダー小説」という企画の第二弾として2011年9月12日(中秋の名月!)~18日に期間限定で掲載された。

類まれなる美貌のイザヤという女の子のことが大好きな「ぼく」は彼女に秘められた真実に迫ろうと16万円もする小型カメラで盗撮を始める……おいなんだこいつは!っていうお話し。ストーカーのお話し。……もちろんそれだけってわけじゃないのだけど。とにもかくにもこの男の愛は深いのです。どん引きするくらい。それは実際読んでいただくとして(掲載終了してもいつかまた読める日もありましょう!)。

さてさて。小型カメラなんか出てくることからもわかるようにでこれは現代が舞台。mixi、twitter、ユニクロ、H&M、原宿、マクドナルドなんて言葉もちらほら。そして作中にわぁ現代だと思ったところがあったんですね。

ウィキペディアが出てきた!

いやその言葉が出てきただけじゃ別になんてことないんだけれどね。
リンクが貼ってあったのです。
作中に。物語が終わった後に載ってる参考文献とかじゃないよ。作中なんだよ。
これは「ぼく」がイザヤに、「昔々のある愛の物語」(これ重要なんで明言できない!)について説明しようとしたとき、現代文明の利器たるiPhoneを使ってウィキペディアのそのページを見せた場面。クリックするとそのページに飛べる。イザヤは読む。私も読む。おぉ、なんだかイザヤになった気分。というかついついガッツリ読んじゃっててちょっと作品のこと忘れてたね。ウィキペディアはこれだからままならないよ!

それにしてもこれ、面白いねぇ。紙の本だとできない。電子媒体だからこそできる表現の仕方。
あぁ、つながってるんだ。そんなふうに思った。リンクへ飛べるってだけじゃないよ。「ぼく」とイザヤと読者が同じ時間を生きているんだなぁという。しかもこれはカレンダー小説。今回は中秋の名月がキーワード。私は9月12日にこの作品を読んだ。
「ぼく」もイザヤも読者の私も、そして物語を届ける媒体も今という時間でつながっている。リンクっていう小さなところだけれども、更新され変化する時代の先っちょを走っているようで楽しいね。

ただ、どんなに時代や環境変わっても、惚れた腫れたで追いかけたり逃げまわったり、恋だの愛だのっていうのは人間にとって変わらないテーマのよう。「ぼく」がiPhoneで見せた「昔々のある愛の物語」のように。「ぼく」がイザヤを愛し続けるように。新しくて、変わらない物語。これはそんな作品なんじゃないかな。どうしたって変わらないんだ。とてもかわいいことだなぁと思う。

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2011.09.30

「月のかわいい一側面」のレビュー

銅

月のかわいい一側面

「カレンダー小説」という縛りの強み

レビュアー:牛島 AdeptAdept

「犬村小六先生の書く作品の魅力は、そのラストシーンの圧倒的な美しさにある」――それが私が犬村先生の著作を読んできて感じた実感です。
 このことは劇場版への期待も高まる「とある飛空士への追憶」や、最前線読者の方々にはおなじみの「サクラコ・アトミカ」に顕著にあらわれています。

 …………。

 その、犬村先生が書く「中秋の名月」の物語。
 まさか冒頭三行目にして主人公がヒロインへの盗撮を決意するとは、夢にも思っていませんでした……。

 物語は主人公が絶世の美少女・イザヤに対し綿密な計画をもってストーキングを実行するところからはじまります。
 蛇蝎のように嫌われながら、「ぼく」はイザヤの個人情報をあの手この手で探る。無線付きカメラを仕込んだストラップを持たせ、送受信したメールをチェックできるよう細工し、イザヤの家の近くに引っ越しまでするほど熱心に。 
 そうやってイザヤを監視していくうちに「ぼく」はある疑念を確信に変え、満月の夜、中秋の名月の日に一人イザヤの元へ向かいます。
 そして物語は超展開につぐ超展開を越え、感動的なラストシーンへと着地します。さながら、お伽噺のように。

 こうして見てみるとかなりアレな内容なのですが、さらにいくつか補足すると、いきなり小説の途中にイラストが出てきます。……犬村先生直筆の。そしてとある古典作品のウィキペディアのリンクまで飛び出します。作中に堂々と。

 さて。
 注目したいのは、この小説が企画モノの短編小説であるということです。
 星海社カレンダー小説として書かれた本作は、分量としてもそれほど長くありません。
 もしもこれが長編小説だったなら、犬村先生直筆イラストやウィキペディアのリンクなどの飛び道具はこれほど読者に驚きを与えなかったかもしれません。
 あるいは、この物語が「中秋の名月」の物語だとラベリングされていなかったら、超展開に次ぐ超展開に読者は納得しなかったかもしれません。

 あくまでこれはカレンダー小説、お祭りなのです。

 そして、だからこそ。
 そこにはカレンダー小説にしかない強みがあると思います。
 展開の補強。
 短編という様式。
 期間限定掲載というライブ感。

 佐藤友哉先生のしんみりした話に続く二番手として、この作品は素晴らしい。
 だってこれは、最前線がくれた夏の終わりに楽しむお祭りなのだから。

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2011.09.30


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