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「六本木少女地獄」のレビュー

銀

六本木少女地獄

Feel or think!

レビュアー:ヨシマル NoviceNovice

さて、困った。
というのも『六本木少女地獄』を読んでみたものの感想がまるでないからだ。
感想がないというとネガティブに聞こえるかもしれないが、決してそういう意味ではない。単純に読み終わった後に口に出す言葉がなかったという文字通りの意味だ。例えば読書感想文を書きなさいと言われても白紙で提出する、そんな気分なのだ。

登場人物は二転三転し、時間軸は絡まり合う。それぞれの場面が何を表しているのか、読んでいるうちにどんどん分からなくなっていく。ストーリーを整理するだけでも一苦労だ。そんな中で本書について自分なりにどう感じただとか、どの場面が良かったかなんて考えるのはとても難しい。
しかし、これだけ読者を混乱させ煙に巻いたような話を読んで語る言葉がないというのも少し口惜しい気がしてならないのだ。
けれど幸運なことに、こんなときの対処法は知っている。

なにも感じないならば頭を使って考えるまでだ。

まずは登場人物を整理してみよう。
冒頭から出てくるのが、姉、少女、男、弟の四人。
そして、六本木少女と少年が登場する。
その後、エビライやエビコ、母、祖父、ギャルが登場し、太字の登場人物は出そろう。
他の登場人物として、エバラナカノブ・タロウやユウテンジ・ヨシコといった名前を付けられているキャラクタがいて、さらに男には湯田、少女にはマリ、姉にはランという名前がそれぞれついている。
登場人物だけでも混乱してしまいそうだけれど、どうやら作中での活躍も登場順で高そうだ。

といったところで内容を見てみよう。
最初に目が行くのは少女が想像妊娠するところだ。想像妊娠といえば金八先生を思い浮かべてしまうけれど、ここではキリスト教の処女懐胎の比喩だろう。キリスト教の処女懐胎とは、誤解を恐れず簡単に言えば、キリストの母親である聖母マリアが父親なしにキリストを身篭ったという逸話のことだ。
もちろん想像妊娠と処女懐胎では大きく異なることは断っておくけれど、人間の父親がいないことや少女の名前がマリちゃんというのだから意図してのことだろう。それから、少女(マリちゃん)が書く脚本の中でキリトが活躍しているというのも意味深長だ。キリトとはリングネームからも分かるようにイエス・キリストの例えだ。

ともあれ『六本木少女地獄』はどうやら新約聖書からモチーフを得ているところが多いらしい。処女懐胎を始め、男・湯田もキリストの十二使徒の一人であるユダということになるだろうし(実は十二使徒の中にユダは二人いるのだけれどここでは有名な裏切り者のユダのことだろう)、弟のリングネームはまんまイエス・キリトなのだから隠す気はないのだろう。
例えばエビライはフビライ・ハンに憧れているとは言ってはいるが、ユダヤ人のことを指すヘブライが元だと考えるのが自然だ。キリスト教はかつてユダヤ教から独立する形で発生していることから考えると、エビライとキリトが最初は仲間として、そして最後には直接対決になるという流れも理解しやすい。
だとするとなぜエビなのかも説明できる。どの程度の信憑性があるかは不明だけれど、ユダヤ教ではエビは食べてはいけないらしいのだ。理由としては弱いけれど、ヘブライとエビとの関連もありそうだ。

続いて、男(湯田)について考えてみよう。湯田とはもちろんイスカリオテのユダ、有名なキリストを裏切った人物だ。物語中でも最初は優しく接していた少女に対して暴行を振るうような描写が登場する。けれど、興味深いのは男(湯田)と弟(キリト)が同一人物であるかのような描写だ。弟はキリストだし、男はユダだ。裏切り者と裏切られた者が同一人物とはどういうことだろうか。実はこれに対する答えは用意できる。というのも、レオナルド・ダ・ヴィンチによる『最後の晩餐』に描かれたキリストとユダは同一人物がモデルだという噂があるのだ。作者もこの噂を知っていて、こんなストーリーにしたのかもしれない。もちろん別の意味があるのかもしれない。そうならば、どうしてだろうか。想像する余地が残っているのもいいものだ。

ざっと挙げただけでもたくさんのモチーフや関連する話が散りばめられている。
他には母のよしえや実況のユウテンジ・ヨシコのヨシコが『ヨシュア』を指しているのではないかなんて勘ぐってみたくもなるし、ラン姉ちゃんはそれが言いたかっただけなのかはな謎のままだ。
キリスト教について以外にも、タイトルの六本木から始まり、神谷町、中野荏原、祐天寺といった地名も隠されていて、それらを拾って調べてみるのも一興だろう。

さて、ここまで『六本木少女地獄』という戯曲に対する感想なくレビューを書いてみたけれど、したことは作中に出てきた言葉を拾って並べただけだ。それは作品を深く理解しているとは言えないかもしれない。
確かに、この場面が良かったとか、このキャラクタが好きだとか自分の気持が文章にできることは素晴らしいし、読むのも楽しみだ。けれど、そんな難しいことを考えなくても、物語の表面上しか捉えられなくても本を読む楽しみはあるのだ。『六本木少女地獄』が好きとか嫌いでなくても、感動や共感をしなくても、知らなかったことを知るきっかけにもなるし作者の意図を考えるだけでも楽しみはある。だから思う、感じないのならば、考えてみよう。

最前線で『六本木少女地獄』を読む

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2012.03.09

「六本木少女地獄」のレビュー

銅

六本木少女地獄

恋焦がれる幻影

レビュアー:牛島 AdeptAdept

『六本木少女地獄』が観たい。
 演劇のジャンルなんてエンタメとアングラぐらいしか知らなくて、両手の指で足りるほどしか観劇したことのない私ですが、夏以来ずっとそう思っています。
 もちろん原くくるさんの才能に惚れているという部分もあるのですが――それよりも腹の中に溜まったナニモノカを消化したいという思いが強いのです。
 ナニモノカ。
 作品が持つ気持ち悪さだったり、いかがわしさだったり、あるいは垣間見える神聖さだったり――そうした情動ももちろんあります。
 ですが、何よりこの脚本を読みながら「キャラクターに顔を与えられない」ことに苛立っているのです。
 脚本だから当たり前だ、画神である竹さんのイラストで補完しろ、という意見はここでは無視します。私が気にしているのは、これが高校の演劇部で演じることを前提にしているということです。役者も、役も、半分固定されているのがこの脚本だと思わざるを得ないのです。
 原さんや、実際に観劇した人が見た役者の「顔」。それが空白のままでは、どうにもこの作品は消化不良になってしまう。
 なので、私はこの演目を見届けなければならないと思っています。できれば原さんが脚本を書いたときのメンバーで観てみたいという欲はあるのですが、さすがにそれは難しいでしょう。しかし、彼女の旗揚げに集められた人々の演じる姿ならば、『原くくる』の元に集った人々ならば、きっと私のささやかな欲求も満たされると思うのです。

 噂のタカシは一体どんな顔をしているのか。六本木に魅せられた人々はどんな身体表現を見せてくれるのか。山中先生の眼をも欺いた原さんの演技力とは一体!?

まあ、そんなわけで。
旗揚げ公演が今から非常に楽しみなのです。

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2011.12.20

「六本木少女地獄」のレビュー

銅

六本木少女地獄

勝利の光を求める絶望的な戦い

レビュアー:くまくま

 六本木にたたずむ家出少年に声をかけた少女。彼らが始める六本木を舞台とした鬼ごっこが行われている間、鬼と子が入れ替わる様に、各々が抱えている事情が交互に語られていく。そして物語の裏面には、女と男、父性と母性、美徳と背徳、神と悪魔、旧約と新約といった様々な対比構造が見え隠れする。
 そんな不思議な構造の骨格を象徴していると感じたのが、六本木少女の次の台詞。「下手(しもて)に生、上手(かみて)には死」 六本木は綺麗で、まるで生きているみたいだが、それは、岩を、森を、川を殺した産物なのだ、と少年に語る中の一節だ。

 台詞中で上手・下手というのは、舞台用語らしい。演者と観客に向きのずれがない様に、客席から見て右側を上手、反対側を下手としているそうだ。そして通常、上座などの用語からも分かる様に、上手が価値の高い場所として扱われる。ここから前の台詞に二つの意図を想像したい。
 ひとつは、上手、下手という表現を使った理由だ。演者の視点に立って考えれば、「左手に生、右手には死」でも構わないはずだ。それをあえて上手、下手にしたということは、演者の価値観に観客を引き込みたいという意図が読み取れる。

 そうして引き込まれた先にある価値観は、普通とは逆転している。なぜなら台詞は下手=生であり、上手=死だからだ。上手から下手へ、死から生への流れは、エントロピーの逆転、時間の流れの逆転を意味する。つまりここで語られるのは、過去の出来事なのだ。
 父は少年になり、母は少女になる。生れ落ちた命は子宮へ、卵子へ、精子へと戻る。その先には母がいて、父がいる。女がいて、男がいるのだ。しかしそのスパイラルは、全てを内包する六本木という街から抜け出すことはできない。小さな街の中で、くるくるとめぐりめぐるだけ。

 少年は少女の思いを反映し、そのスパイラルに戦いを挑む。しかし、常識という、男という、母という敵は強大で、抑え込まれてしまいそうになる。少年が力の源とする父親の幻想も、根元から突き崩される。少年の、少女の味方はそこにはいない。敗北し、無力感にさいなまれながら、スパイラルの中へと引き戻される。
 こうして六本木少女は、スパイラルを、街を一人歩く。しかし、過去の先にはまだ未来がある。そして未来での希望は、まだ潰えていない。諦めさえしなければ、いつかスパイラルから抜け出すチャンスが訪れるかも知れない。

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2011.09.30

「六本木少女地獄」のレビュー

鉄

『六本木少女地獄』より「うわさのタカシ」

タカシがゲシュタルト崩壊をする前に

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

タ・カ・シ! タ・カ・シ!
あー、会いたい。会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい!

……あ、どうも。みなさんこんばんは。
僕としたことが取り乱してしまいました。ごめんなさい。
今回は『六本木少女地獄』より「うわさのタカシ」をレビューします。
一言で纏めると女の子3人がタカシを奪い合う話です。
タカシめ! なんて羨ましい奴!

登場するのはシズカ、エミリ、サトコ。
え? タカシはどこかって?
そう、なかなかタカシは出てこないんです。
ただひたすらに、3人の女の子が「タカシの彼女は自分だ」と張り合うだけなのです。
しかも困ったことに、3人は全く違うタイプの女の子だったりします。
清楚なシズカ、ビッチのエミリ、妹キャラのサトコ。
(僕はシズカが好きです)
うーん、1人の男がこの3人を同時に好きになるって、ちょっとおかしいよね。
(僕はシズカが好きです)
案の定と言ってはなんですが、彼女たちの話は食い違い始めます。
タカシは真面目な男だとシズカが語れば、エミリは荒い男だとそれを否定し、サトコは甘えん坊だと割って入るのです。

彼女たちの小競り合いは必見です。
サトコの作った料理を目の前で捨てたり……って陰湿ですね。しごく陰湿ですね。
ネギでチャンバラを始めるシーンでは、思わず吹き出してしまいます。
作者の前書きに、公演会場がネギ臭くなって叱られたと書いてありますが、当たり前でしょうよ。でも、見てみたいなぁ!
3人のかけあい(罵りあい?)も非常にテンポがよく、コミカルで楽しいです。
恐らく『六本木少女地獄』には、演劇と縁のない読者が多いと推測しますが、この「うわさのタカシ」が最初に掲載されているのは、僕のような戯曲集初心者にとってはありがたいですね。
ストーリーの把握も容易ですし、何より楽に舞台を想像しながら読み進められますね。

やがて物語は終わりに近づきます。
彼女たちは自分の彼氏であるタカシが、本当のタカシなのか分からなくなります。他の2人の語るタカシこそが本物なのか。そもそもタカシとは誰なのか、自分はタカシのどこが好きだったのか。
タカシという男の存在・概念が、彼女たちの中でゲシュタルト崩壊してしまうんですね。
読者の僕も、何が何だか分からなくなります。
てっきり読み進めたらタカシがどんな野郎か分かると思っていたのに!
これじゃあイメージが固まるどころか、混乱するばっかりだよ!
そしてついにはタカシが帰宅! もう玄関の前まで迫っています。
しかし彼女たちは不安に駆られるばかり。いま玄関の前に立っているのは、本当にタカシなのか。タカシであるとして、それは自分の彼氏なのか。
今すぐにでも会いたい気持ちと、扉を開けるのが怖い気持ちが彼女たちを襲います。
僕だってタカシの姿は早く見たい! どんな男なんでしょうか。
でもその一方、ドアが開くことで彼女たちが傷ついてしまうのは見たくない!
(特にシズカ)
あーでも怖いもの見たさがふつふつと湧き上がってくるー!
こうなったら、勇気を出して最後を読んでみるぜ!!



エミリ  開けて! 早く開けて!

と、突然ドアが開く。
三人、一人の男に微笑みかけて、

三人   ……タカシ!

暗転

―幕―



…………。

結局どんな奴やねえええええん!!

タ・カ・シ! タ・カ・シ!
あー、会いたい。会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい!

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2011.09.30

「六本木少女地獄」のレビュー

鉄

「六本木少女地獄」

私的戯曲、読方作法

レビュアー:zonby AdeptAdept

「私的戯曲、読方作法」。
なんぞと気取ったタイトルをつけてみたが、正直に告白すると、私は戯曲というものをあまり読み慣れていない。(唯一読んだのは恩田陸/著の「猫と針」。ラーメンズの「小林賢太郎戯曲集」ぐらいのものである)失礼を承知で書くが、戯曲=舞台の台本のようなもの、くらいの浅い見識しか持たぬ私は、だから「六本木少女地獄」を買ったは良いものの、いかようにして読んで良いものか分からず、読んだ時間より枕元に置いていた時間の方が膨大な程だ。
だが読み終えたからこそ、こうしてレビューを書こうとしているわけだが。
自分が本当に「読んだ」「読めた」のかは、甚だ疑問なところである。
この作品に至ってはなんとなく「読んだ」という表現は似合わない気がするから。

―――だからこれから書くのは、この戯曲を読むにあたって実際に私が体験したことだ。

まずはページを開かねば始まらぬ、と開いてみたはいいものの、この戯曲という形式にはやはり戸惑った。
小説には人物の描写があり、風景の描写があり、おまけに人物の心理描写まである。誰かが発言をした後には××はと言った。などという説明まであったりして、ひとまず視点となる人物に身を委ねて読んでいけば、物語に埋没することができる。
しかし戯曲はまず登場人物が設定されており、説明は簡略にしか書かれていない。誰が何を言っているかは、各人に口癖などがあれば見分けられるが、そうでない場合はもう誰が何をやっているのか、何を喋っているのか全くわからなくなってしまう。

「うさわのタカシ」の三ページ目程で読むのを一度やめたのは、この私だ。
…何が何だかわからなくなってしまったからだ。
考えて見れば当たり前のことではある。上記に述べているように、小説には大抵の場合において視点となる人物がいるのだ。読者はその視点人物の目や耳、思ったことを借りて物語の中に入っていくことになる。
だが戯曲に、視点人物なるものは存在しない。
あえて言うならば、自分が視点人物なのだ。
最初に戯曲=舞台の台本のようなもの、という私の認識を書いた。
それもあながち嘘ではないのではないか、と私は思う。戯曲とは舞台で行われていることを、極めて簡略に再現したものであり、本来ならば文章で読むよりは劇場の座席で観て、演じる役者の表情や動き。微妙な光の加減などから自分の目で読み取るものであると思う。

これは小説を読むいつもの体勢から、90°ばかり読み方を変えねばなるまい。
そう思った私は。
私は。
―――演じた。
とりあえず配役が三人で、演じ分けられそうな「うわさのタカシ」から演じた。
タカシという一人の男を取り合って、舞台を所狭しと駆け回る(のであろう)シズカ・エミリ・サトコという名の三人の女。
シズカは…名前と台詞からして少しお嬢様っぽく清楚な感じで…。
エミリは…はすっぱで、イマドキな女の子風。
サトコは…可愛いけれど、少し毒のある感じ。などと役作りまでして演じましたとも。

とは言っても、本を読むここは私の部屋。観客がいるわけでもなく、スポットライトに照らされているわけでもなく、布団に転がって延々と三人の声色を使い分けながら、時々身振りまで加えつつ小さな声で音読するのである。
いやしかし、それが意外と面白かったのである。
一人三役やっているので、三つの視点から物語を理解することができるし、何より読んでみると分かるのだが会話のテンポが絶妙に良い。特にサトコの作った料理をシズカとエミリの二人で破壊し尽くすところなんか最高だ。もう演じるこちらもノリノリである。

他の作品は登場人物が多いため、全て演じきるというのは不可能だったが「うわさのタカシ」でコツを掴んだおかげで、以前より抵抗なく読み進めることができた。
戯曲。
この小説と呼ぶには物足りず、かといって舞台の台本とも呼べぬもの。
まさに戯曲としか形容できぬもの。

読みにくいと感じる方がおられたならば、是非演じて見ることをおすすめする。
声に出さなくても良い。
頭の中でなりきるだけでも良い。
きっと小説とはまた違った景色が、この「六本木少女地獄」を通して幻視できるはずだから。

「私的戯曲、読方作法」。
お試しあれ。

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2011.09.30

「六本木少女地獄」のレビュー

銅

六本木少女地獄

「六本木少女地獄」と、叫ぶことについて。

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 仕事が忙しすぎて睡眠時間も遊ぶ時間も削られていく一方、日々の生活で蓄積されていく疲労が、身体も心もその動きを重く鈍いものにしていく。
 あるいは、こういう状況。
 理不尽な世の中。理不尽な社会。理不尽な親。理不尽な学校制度。自分という個性が思い切り羽を伸ばすことを許さないと言わんばかりの、遍在し顕在する理不尽という恐るべき敵。
 前者後者どちらでもいい。こういった気分の時に共通して訪れる息詰まり感や、何かしたいのに何もできない焦燥感など、誰もが生きて行く上で避けては通れない、割とよくある危機的状況に対して、有効な精神的打開策が一つある。

 それは、思い切り何かをすることだ。

 何か、とは何か。
 なんでもいい。できることを思い切りやればいい。
 しかし、そもそもの話の前提は、できることが限られている状況下だった。

 それでも、とにかく、それなら、叫ぶ。
 
「六本木少女地獄」は、そんな思いについて書かれた戯曲なのではないかという気がする。

 理不尽な世界、自分よりも大きな存在、自分の内側にいる制御できない存在、それらに対して全身全霊をもって叫ぶこと。何かを手に入れたいのではなく、取り戻したいのでもなく、登場人物たちが心底願っているのは、今にも押しつぶされそうな自分の精神を、この世界に解き放つ(≒子供を産む)ことなのではないだろうか。
 
 消えた父親。生まれて来るはずのない命。創作者に干渉してくるキャラクター。六本木という街が象徴する「いま、ここ」という場所。
 自分にとって強い影響力を持ちながら、こちらからは正面とって向き合うことすらかなわない、まさに理不尽なる存在たち。
 そんな相手との闘いの遍歴が、物語内では繰り返し語られる。

 子供を産むこと。
 物語を創作すること。
 スポーツに思い切り打ちこむこと。
 街を全力で走ること。

 そしてこの物語は戯曲だから、芝居として上演されることが前提となっている。
 だから、この物語を叫びとして観客に伝えること。
 それこそが、「六本木少女地獄」における最大の闘いなのだ。
 
 この物語を読むと、理不尽なる何かに追い詰められた時、自分がどうするべきなのかを示されるような気がする。
 あるいは、そういった状況に立った時、自分のやるべきやれることをやるための、ほんの少しの勇気を与えてくれるような気がする。
 
「六本木少女地獄」は、苦しい時に叫ぶことの正しさを、私に改めて教えてくれた。
 私にとって、この物語の魅力はそこにある。

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2011.09.30

「六本木少女地獄」のレビュー

銅

六本木少女地獄

「原くくる」という新ジャンル

レビュアー:牛島 AdeptAdept

まず最初に白状すると、この才能には嫉妬するよりも早く、惚れてしまいました。

この戯曲集は、一貫して人間への愛に満ちています。キャラクターに盛り込まれた人間の弱さ、悪意や敵意に対する敏感さ、どことなく漂う達観――彼女はきっと、人一倍人間が憎く、だからこそ人間を深く愛してやまないのでしょう。かなりアクの強い愛ですが、確かにこれは愛です。
自分と同年代の、少し年下の少女・原くくるさん。
すごい。
18歳で!
現役女子高生で!
このレベルの戯曲集を出しちゃうって!
……もはや嫉妬するというか、何事も成さなかった自分の人生について考えざるを得ない現実です。

さて。
『六本木少女地獄』に、原くくるという少女に触れて思ったのは、彼女の持つ才能の質についてです。
ざっくりと言ってしまうとそれは「読者に惚れこませる能力」ということになります。
彼女の脚本を開き、引き込まれ、想像力を刺激され、一気に読み切ってしまいました。その引力と中毒性――読者を作者のファンにする力が、この本はひどく高い。
こういうことを言うと「売れている作家やそのファンはみんなそんなもんだろう」という批判を受けそうですが、この個性はそうしたレベルではありません。
まさに「一作家一ジャンル」。すでに自分の中に新しく「原くくる」というフォルダを作った人は少なくないはずです。

ではこの引力はどこからくるのか?
高校生というブランド力なのか。
彼女のインタビューを同時期に読み進めたからなのか。
戯曲集という形で読んだことで作家像が見えたからなのか。
太田克史氏を始めとする様々な人が絶賛しているからなのか。
どれも理屈を補強するには足る材料だとは思うのですが、何よりも原くくるさんの強い個性と自己主張が原因ではないかと思います。

戯曲に込めた人間への愛。細やかな心配り。テーマや舞台設定の選び方にも一癖も二癖もある、原くくるさん。
ともすれば自己主張が強すぎると受け容れられないこともあるでしょう。
この、たった一冊の戯曲集に、五本の脚本に、作家の個性が現れています。
ただ作品を発表したのではなく、彼女はその「才能」をこそ出版したのです。

……ぶっちゃけ、これには参りました。
もうね、嫉妬とかしてる場合じゃないですよ。
こんな形で自己表現されちゃったら、一人の読者として惚れるしかないじゃないですか!
ファンとして、彼女がこれからどう歩いていくのか、追いかけたくなっちゃうじゃないですかっ!
裏で手を引くプロデューサー・太田氏の邪悪な笑い声が聞こえてきます。
ええ、もう氏の掌の上で踊ってやろうと思います、全力で!


さて。
戯曲を読み、想像力を刺激され、作者に惚れこみ――なによりこれらの作品が上演されるのを観たくなりました。伝説の引退公演を観に行けなかったのが本当に惜しい……!

と。
ふと帯を見ると、なんか凄いことが書いてあります。
「原くくる新劇団旗揚げ公演ご招待券が抽選で当たる!」……!?

帯に付いた応募券は2011年の末まで有効のようです。10名様しか当選しないようですが。早速応募します。10名様しか当選しないようですが。

………………。

レビュアー騎士団の説明には「星海社イベントへの招待券」が与えられるとあります。
願わくば、旗揚げ公演のチケットが、騎士団の褒賞に加えられますように!

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2011.09.08

「六本木少女地獄」のレビュー

銅

六本木少女地獄

戯曲集って……

レビュアー:akaya NoviceNovice

正直に言えば戯曲集は苦手だ。嫌いとまではいかないけど好きじゃない。それはおそらく読むための物語ではないから。

そう言いながら私の書架の中には一冊だけある。それはシェイクスピアの『リア王』で時間潰しに、手遊びのように中身も見ずに購入した。

「あぁこれが演劇の台本というものか」と思ったことを覚えている。『リア王』に関してはあらすじを知っていたし、映像で見たことがあったので何とかなった。

しかし『六本木少女地獄』は違う。初めて触れる作品で、それが戯曲として書かれている。苦労した。

セリフの合間に簡単な動きの説明があるだけ。怒っているときはどんな顔をしているのか。手は振り上げたか否か。その辺りの細かい描写が無い。

こうなると完全に自分の想像だし、それについてもぼんやりで、登場人物を個別に認識しづらい。

だが、それでもこれは面白かった。とにかくセリフが印象に残るし、ユーモラスだ。"ボクケットミントン"なんてよく考えたなと思う。

ストーリーの把握としてはまだ完全とは言いづらい。どこが劇中劇でどこが対話なのか判断しにくい部分がある。それを掴もうとさせる、再び読ませる力がこの作品にはある。

思うにこれは星海社を巻き込んだ演劇の宣伝なのではないか?読めば読むほどこの戯曲が実際に演じられる舞台を想像してしまう。機会があるならばぜひとも観てみたい。

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2011.09.08

「六本木少女地獄」のレビュー

銅

六本木少女地獄

地獄への歩みは止まらない

レビュアー:yagi_pon NoviceNovice

『六本木少女地獄』それは、戯曲集。
戯曲なんて読んだことのない私は、ためらった
私が読んで、楽しめるのかと。

こういうとき、最前線はありがたい。無料で読めるから。
公開されている、『六本木少女地獄』を読んでみる。

戯曲という形式に戸惑いながらも、読み進める。
そして出てくる、謎のスポーツ「ボクケットミントン」
登場人物と同じく、困惑する私。
それでも読み進める。夢中で読み進める。
そして、読み終わる。

大波にさらわれたような気持ちの私。
なんというか、すごかった。
理解する前に流されてしまうような感覚。
おもしろいというより、すごい。

そして、あることに気がつく。

映像の鑑賞は、ただ見ていれば進んでいく受動的な面がある。
だから大波にさらわれてしまうようなことはあるだろう。
それに対し、小説やこの戯曲はあくまで文字。
ということは、能動的に読み進めるていかなければ進まない。

おかしいな。
私はどうやら大波にさらわれて海に浸かっていたわけではわけではなく、
自分から海に向かってどんどん歩みを進めていったらしい。

「ボクケットミントン」のようなわけのわからない言葉。
わけのわからない人たちの、わけのわからない関係。
これらが適度に散りばめられ、
なにそれどういうこと?なんて思いながら、つい速足になる。
そしてさらにそれを加速させる、会話のテンポの良さ。

一度読み返してみて、思う。
やっぱりすごい。すごい。すごい。
そして、夢中になって読んだあとに冷静になって、思う。
すごく、おもしろい!
夢中になって読んでいた時点で、自分にとってはおもしろかったのだと、
後になって気がつく。
ついつい速足になって読み進めちゃうくらい、
この本はおもしろい!



P.S.
活字の波にさらわれるのではなく、
実は活字の波に背中を押され進んでいた私。
そんな私に、今度こそ波が押し寄せる。
ツイッターに押し寄せる、著名人たちの『六本木少女地獄』の感想。
今度こそ私は、波にさらわれたようだ。

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2011.09.08

「六本木少女地獄」のレビュー

銅

六本木少女地獄 著:原くくる

真実

レビュアー:ジョッキ生 KnightKnight

ここに一つの疑惑を提示したい。
この作者様、及び作品内容すべては真実であるのかどうか?

まずは作者近影を見ていただきたい。
実に可愛らしいのだ。さらに言えば一般的な認識におけるJKと違って神々しささえ感じられる。制服もとてもお似合いだ。
次に内容に触れていこう。
この作品は戯曲集ということもあり、舞台で演じられるのを前提にされている。そのためか読み口は軽快で、笑いを多分に含み、どこで読み止めようかと考えているうちに読み終えてしまうという素晴らしい出来である。
また収録されている5作品の傾向も面白く、学校など内輪的に楽しめるライトな読み物もあれば、対外的に公演されても通用する幻想的で不可思議な読み物もある。まさに驚くべき作風の広さである。

さてここまで述べた所で最初の議題に戻りたい。
すべては真実であるのかどうか?
これだけの完成度を誇る作品と麗しくも凛々しい容姿を持つ作者、しかも女子高生。この組み合わせをただ真実として受け入れることができるだろうか?ネット上でもしこれが個人によって公開されたと考えた場合、おそらく大半の人は釣りだと疑ってかかるのではないだろうか?私なら間違いなくそう判断するだろう。何しろ出来すぎているのだ。

万が一、億が一にこれがすべて真実であったとするならばただただ脱帽するばかりだ。が、もしこれらが真実でなかった時、絶対に許さない、絶対にだ。

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2011.09.08

「六本木少女地獄」のレビュー

鉄

六本木少女地獄

入り混じり乱れる価値観

レビュアー:くまくま

 六本木にたたずむ家出少年に声をかけた少女。彼らが始める六本木を舞台とした鬼ごっこが行われている間、鬼と子が入れ替わる様に、各々が抱えている事情が交互に語られていく。そして物語の裏面には、女と男、父性と母性、美徳と背徳、神と悪魔、旧約と新約といった様々な対比構造が見え隠れする。
 そんな不思議な構造の骨格を象徴していると感じたのが、六本木少女の次の台詞。「下手(しもて)に生、上手(かみて)には死」 六本木は綺麗で、まるで生きているみたいだが、それは、岩を、森を、川を殺した産物なのだ、と少年に語る中の一節だ。

 ぼくは演劇に詳しくないが、演者と観客に向きのずれがない様に、客席から見て右側を上手、反対側を下手というくらいは知っている。上座などの用語からも分かる様に、このとき、普通は、上手が価値の高い場所として扱われるらしい。そしてこの知識からぼくは、前の台詞に二つの意図を想像する。
 ひとつは、上手、下手という表現を使った理由だ。演者の視点に立って考えれば、「左手に生、右手には死」でも構わないはずだ。それをあえて上手、下手にしたということは、演者の価値観に観客を引き込みたいという意図があったのではなかろうか。
 そうして引き込まれた先にある価値観は、普通とは逆転している。なぜなら台詞は下手=生であり、上手=死だからだ。普通の感覚では価値の高い"生"をすり潰して、"死"の産物である六本木という街を作る。もし六本木に高い価値を認めるならば、観客はこの価値の逆転を受け入れなければならない。

 こうして長いプロセスを経て観客を含めた世界を自身の宇宙に取り込んだにも拘わらず、最後には全部がまるで無かったかのように、六本木の街で少女は独りきりになるのである。男に声をかけられても、それをはねのけるのである。まるで取り込まれた観客が、放り出されたかのように。
 本当に確かなのは、結局、ありのままの自分だけしかない。そんな声が聞こえてくるかのような幕引きだ。

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2011.09.08


本文はここまでです。