六本木少女地獄
Feel or think!
レビュアー:ヨシマル Novice
さて、困った。
というのも『六本木少女地獄』を読んでみたものの感想がまるでないからだ。
感想がないというとネガティブに聞こえるかもしれないが、決してそういう意味ではない。単純に読み終わった後に口に出す言葉がなかったという文字通りの意味だ。例えば読書感想文を書きなさいと言われても白紙で提出する、そんな気分なのだ。
登場人物は二転三転し、時間軸は絡まり合う。それぞれの場面が何を表しているのか、読んでいるうちにどんどん分からなくなっていく。ストーリーを整理するだけでも一苦労だ。そんな中で本書について自分なりにどう感じただとか、どの場面が良かったかなんて考えるのはとても難しい。
しかし、これだけ読者を混乱させ煙に巻いたような話を読んで語る言葉がないというのも少し口惜しい気がしてならないのだ。
けれど幸運なことに、こんなときの対処法は知っている。
なにも感じないならば頭を使って考えるまでだ。
まずは登場人物を整理してみよう。
冒頭から出てくるのが、姉、少女、男、弟の四人。
そして、六本木少女と少年が登場する。
その後、エビライやエビコ、母、祖父、ギャルが登場し、太字の登場人物は出そろう。
他の登場人物として、エバラナカノブ・タロウやユウテンジ・ヨシコといった名前を付けられているキャラクタがいて、さらに男には湯田、少女にはマリ、姉にはランという名前がそれぞれついている。
登場人物だけでも混乱してしまいそうだけれど、どうやら作中での活躍も登場順で高そうだ。
といったところで内容を見てみよう。
最初に目が行くのは少女が想像妊娠するところだ。想像妊娠といえば金八先生を思い浮かべてしまうけれど、ここではキリスト教の処女懐胎の比喩だろう。キリスト教の処女懐胎とは、誤解を恐れず簡単に言えば、キリストの母親である聖母マリアが父親なしにキリストを身篭ったという逸話のことだ。
もちろん想像妊娠と処女懐胎では大きく異なることは断っておくけれど、人間の父親がいないことや少女の名前がマリちゃんというのだから意図してのことだろう。それから、少女(マリちゃん)が書く脚本の中でキリトが活躍しているというのも意味深長だ。キリトとはリングネームからも分かるようにイエス・キリストの例えだ。
ともあれ『六本木少女地獄』はどうやら新約聖書からモチーフを得ているところが多いらしい。処女懐胎を始め、男・湯田もキリストの十二使徒の一人であるユダということになるだろうし(実は十二使徒の中にユダは二人いるのだけれどここでは有名な裏切り者のユダのことだろう)、弟のリングネームはまんまイエス・キリトなのだから隠す気はないのだろう。
例えばエビライはフビライ・ハンに憧れているとは言ってはいるが、ユダヤ人のことを指すヘブライが元だと考えるのが自然だ。キリスト教はかつてユダヤ教から独立する形で発生していることから考えると、エビライとキリトが最初は仲間として、そして最後には直接対決になるという流れも理解しやすい。
だとするとなぜエビなのかも説明できる。どの程度の信憑性があるかは不明だけれど、ユダヤ教ではエビは食べてはいけないらしいのだ。理由としては弱いけれど、ヘブライとエビとの関連もありそうだ。
続いて、男(湯田)について考えてみよう。湯田とはもちろんイスカリオテのユダ、有名なキリストを裏切った人物だ。物語中でも最初は優しく接していた少女に対して暴行を振るうような描写が登場する。けれど、興味深いのは男(湯田)と弟(キリト)が同一人物であるかのような描写だ。弟はキリストだし、男はユダだ。裏切り者と裏切られた者が同一人物とはどういうことだろうか。実はこれに対する答えは用意できる。というのも、レオナルド・ダ・ヴィンチによる『最後の晩餐』に描かれたキリストとユダは同一人物がモデルだという噂があるのだ。作者もこの噂を知っていて、こんなストーリーにしたのかもしれない。もちろん別の意味があるのかもしれない。そうならば、どうしてだろうか。想像する余地が残っているのもいいものだ。
ざっと挙げただけでもたくさんのモチーフや関連する話が散りばめられている。
他には母のよしえや実況のユウテンジ・ヨシコのヨシコが『ヨシュア』を指しているのではないかなんて勘ぐってみたくもなるし、ラン姉ちゃんはそれが言いたかっただけなのかはな謎のままだ。
キリスト教について以外にも、タイトルの六本木から始まり、神谷町、中野荏原、祐天寺といった地名も隠されていて、それらを拾って調べてみるのも一興だろう。
さて、ここまで『六本木少女地獄』という戯曲に対する感想なくレビューを書いてみたけれど、したことは作中に出てきた言葉を拾って並べただけだ。それは作品を深く理解しているとは言えないかもしれない。
確かに、この場面が良かったとか、このキャラクタが好きだとか自分の気持が文章にできることは素晴らしいし、読むのも楽しみだ。けれど、そんな難しいことを考えなくても、物語の表面上しか捉えられなくても本を読む楽しみはあるのだ。『六本木少女地獄』が好きとか嫌いでなくても、感動や共感をしなくても、知らなかったことを知るきっかけにもなるし作者の意図を考えるだけでも楽しみはある。だから思う、感じないのならば、考えてみよう。
最前線で『六本木少女地獄』を読む
というのも『六本木少女地獄』を読んでみたものの感想がまるでないからだ。
感想がないというとネガティブに聞こえるかもしれないが、決してそういう意味ではない。単純に読み終わった後に口に出す言葉がなかったという文字通りの意味だ。例えば読書感想文を書きなさいと言われても白紙で提出する、そんな気分なのだ。
登場人物は二転三転し、時間軸は絡まり合う。それぞれの場面が何を表しているのか、読んでいるうちにどんどん分からなくなっていく。ストーリーを整理するだけでも一苦労だ。そんな中で本書について自分なりにどう感じただとか、どの場面が良かったかなんて考えるのはとても難しい。
しかし、これだけ読者を混乱させ煙に巻いたような話を読んで語る言葉がないというのも少し口惜しい気がしてならないのだ。
けれど幸運なことに、こんなときの対処法は知っている。
なにも感じないならば頭を使って考えるまでだ。
まずは登場人物を整理してみよう。
冒頭から出てくるのが、姉、少女、男、弟の四人。
そして、六本木少女と少年が登場する。
その後、エビライやエビコ、母、祖父、ギャルが登場し、太字の登場人物は出そろう。
他の登場人物として、エバラナカノブ・タロウやユウテンジ・ヨシコといった名前を付けられているキャラクタがいて、さらに男には湯田、少女にはマリ、姉にはランという名前がそれぞれついている。
登場人物だけでも混乱してしまいそうだけれど、どうやら作中での活躍も登場順で高そうだ。
といったところで内容を見てみよう。
最初に目が行くのは少女が想像妊娠するところだ。想像妊娠といえば金八先生を思い浮かべてしまうけれど、ここではキリスト教の処女懐胎の比喩だろう。キリスト教の処女懐胎とは、誤解を恐れず簡単に言えば、キリストの母親である聖母マリアが父親なしにキリストを身篭ったという逸話のことだ。
もちろん想像妊娠と処女懐胎では大きく異なることは断っておくけれど、人間の父親がいないことや少女の名前がマリちゃんというのだから意図してのことだろう。それから、少女(マリちゃん)が書く脚本の中でキリトが活躍しているというのも意味深長だ。キリトとはリングネームからも分かるようにイエス・キリストの例えだ。
ともあれ『六本木少女地獄』はどうやら新約聖書からモチーフを得ているところが多いらしい。処女懐胎を始め、男・湯田もキリストの十二使徒の一人であるユダということになるだろうし(実は十二使徒の中にユダは二人いるのだけれどここでは有名な裏切り者のユダのことだろう)、弟のリングネームはまんまイエス・キリトなのだから隠す気はないのだろう。
例えばエビライはフビライ・ハンに憧れているとは言ってはいるが、ユダヤ人のことを指すヘブライが元だと考えるのが自然だ。キリスト教はかつてユダヤ教から独立する形で発生していることから考えると、エビライとキリトが最初は仲間として、そして最後には直接対決になるという流れも理解しやすい。
だとするとなぜエビなのかも説明できる。どの程度の信憑性があるかは不明だけれど、ユダヤ教ではエビは食べてはいけないらしいのだ。理由としては弱いけれど、ヘブライとエビとの関連もありそうだ。
続いて、男(湯田)について考えてみよう。湯田とはもちろんイスカリオテのユダ、有名なキリストを裏切った人物だ。物語中でも最初は優しく接していた少女に対して暴行を振るうような描写が登場する。けれど、興味深いのは男(湯田)と弟(キリト)が同一人物であるかのような描写だ。弟はキリストだし、男はユダだ。裏切り者と裏切られた者が同一人物とはどういうことだろうか。実はこれに対する答えは用意できる。というのも、レオナルド・ダ・ヴィンチによる『最後の晩餐』に描かれたキリストとユダは同一人物がモデルだという噂があるのだ。作者もこの噂を知っていて、こんなストーリーにしたのかもしれない。もちろん別の意味があるのかもしれない。そうならば、どうしてだろうか。想像する余地が残っているのもいいものだ。
ざっと挙げただけでもたくさんのモチーフや関連する話が散りばめられている。
他には母のよしえや実況のユウテンジ・ヨシコのヨシコが『ヨシュア』を指しているのではないかなんて勘ぐってみたくもなるし、ラン姉ちゃんはそれが言いたかっただけなのかはな謎のままだ。
キリスト教について以外にも、タイトルの六本木から始まり、神谷町、中野荏原、祐天寺といった地名も隠されていて、それらを拾って調べてみるのも一興だろう。
さて、ここまで『六本木少女地獄』という戯曲に対する感想なくレビューを書いてみたけれど、したことは作中に出てきた言葉を拾って並べただけだ。それは作品を深く理解しているとは言えないかもしれない。
確かに、この場面が良かったとか、このキャラクタが好きだとか自分の気持が文章にできることは素晴らしいし、読むのも楽しみだ。けれど、そんな難しいことを考えなくても、物語の表面上しか捉えられなくても本を読む楽しみはあるのだ。『六本木少女地獄』が好きとか嫌いでなくても、感動や共感をしなくても、知らなかったことを知るきっかけにもなるし作者の意図を考えるだけでも楽しみはある。だから思う、感じないのならば、考えてみよう。
最前線で『六本木少女地獄』を読む