ここから本文です。

読者レビュー

銅

六本木少女地獄

勝利の光を求める絶望的な戦い

レビュアー:くまくま

 六本木にたたずむ家出少年に声をかけた少女。彼らが始める六本木を舞台とした鬼ごっこが行われている間、鬼と子が入れ替わる様に、各々が抱えている事情が交互に語られていく。そして物語の裏面には、女と男、父性と母性、美徳と背徳、神と悪魔、旧約と新約といった様々な対比構造が見え隠れする。
 そんな不思議な構造の骨格を象徴していると感じたのが、六本木少女の次の台詞。「下手(しもて)に生、上手(かみて)には死」 六本木は綺麗で、まるで生きているみたいだが、それは、岩を、森を、川を殺した産物なのだ、と少年に語る中の一節だ。

 台詞中で上手・下手というのは、舞台用語らしい。演者と観客に向きのずれがない様に、客席から見て右側を上手、反対側を下手としているそうだ。そして通常、上座などの用語からも分かる様に、上手が価値の高い場所として扱われる。ここから前の台詞に二つの意図を想像したい。
 ひとつは、上手、下手という表現を使った理由だ。演者の視点に立って考えれば、「左手に生、右手には死」でも構わないはずだ。それをあえて上手、下手にしたということは、演者の価値観に観客を引き込みたいという意図が読み取れる。

 そうして引き込まれた先にある価値観は、普通とは逆転している。なぜなら台詞は下手=生であり、上手=死だからだ。上手から下手へ、死から生への流れは、エントロピーの逆転、時間の流れの逆転を意味する。つまりここで語られるのは、過去の出来事なのだ。
 父は少年になり、母は少女になる。生れ落ちた命は子宮へ、卵子へ、精子へと戻る。その先には母がいて、父がいる。女がいて、男がいるのだ。しかしそのスパイラルは、全てを内包する六本木という街から抜け出すことはできない。小さな街の中で、くるくるとめぐりめぐるだけ。

 少年は少女の思いを反映し、そのスパイラルに戦いを挑む。しかし、常識という、男という、母という敵は強大で、抑え込まれてしまいそうになる。少年が力の源とする父親の幻想も、根元から突き崩される。少年の、少女の味方はそこにはいない。敗北し、無力感にさいなまれながら、スパイラルの中へと引き戻される。
 こうして六本木少女は、スパイラルを、街を一人歩く。しかし、過去の先にはまだ未来がある。そして未来での希望は、まだ潰えていない。諦めさえしなければ、いつかスパイラルから抜け出すチャンスが訪れるかも知れない。

2011.09.30

のぞみ
一つの気になったセリフを深く掘り下げているんですね!
さやわか
これはなかなかうまいです。上手、下手という言葉は当然、演劇用語を演劇の中で使う、いわば自己言及的な部分になっているのですが、そこにちゃんと着目して考察を傾けている。そしてそれを演劇全体にまで話を広げて書くことにも成功している。うまいと思います。締めの言葉も前向きでいい感じです。ちょっと残念なのは、「過去の先にはまだ未来がある」という言葉の意味が、この文章からでは理解できないことかなと思いますが、それでも将来性を感じさせる書き方に持って行っているのはいいことですな。そういう意味では「それをあえて上手、下手にしたということは、演者の価値観に観客を引き込みたいという意図が読み取れる」も同様で、演劇用語を使うとなぜ演者の価値観に観客を引き込むことになるのか、ちょっとわかりにくい。もう少しここで読者の理解を助けてあげると、もっと良くなると思いますぞ! しかし、視点は面白かったですな! 「銅」にいたしましょう!

本文はここまでです。