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「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銅

『夜跳ぶジャンクガール』

研ぎ澄まされた「青春」

レビュアー:牛島 AdeptAdept

 読了後、なんと無駄のない作品だろうと思った。
 遊び心や細かいネタがない、ではない。物語において重要でないものをわざと排斥している、そういう無駄の無さだ。もはや洗練を通り越して無骨な印象すら受ける。いや、本当に笑ってしまうほどに無駄がないのだ。

 この物語において意味や必然性があるものはすべて、主人公・高橋アユムにとって意味を持つのか、もしくはヒロイン・墓無美月にとって意味を持つ。意味を与えられなかった要素に関してはほとんど謎のままである。

 たとえば物語の中では重要な役割を当てられていたはずの後輩は、名前すら明かされていない。
 たとえばアユムに多大な影響を与えたであろう姉の死についても詳細がぼかされている。
 たとえば結局「ジンガイ」とは何だったのか、真相はわからないままだ。

 しかし、逆に言えばこれらの要素は作中では十分に意味を成している。役割を果たしていると言い換えてもいい。

 後輩は作中最大のヤンデレとして活躍し。
 死んだ姉は亡霊となってアユムの自問自答を助け。
 「ジンガイ」は墓無美月の青春の残骸に引導を渡した。

 あくまで二人にとっての装置と割り切るならば、これらは十分に機能しているのだ。


 さて、星海社ラジオ騎士団のゲストとして呼ばれた作者・小泉陽一朗氏は、物語を執筆する上で重視しているのは「救い方」だと言った。
 その視点から読み解けば、なぜこうした書き方になったのかが見えてくる。
 アユムと美月。二人の少年少女が救われるための要素だけが重要であり、細かいガジェットなど、脇役など、本当にどうでもいいのだ。

 物語に対して不誠実だ、小説として破綻している、という人はいるかもしれない。
 けれど私はそんな風には微塵も思えなかった。それはきっと、作者が「二人を救う」ということに迷いがないからだ。
 それに、青春っていうのはそもそも「そういうもの」なんじゃないだろうか。
 徹底的に自分を基準に線引きを行い我が儘に生きる。他人どころか自分自身だって理解できない衝動に身を任せる。正当性なんて一切考えず、ときに非常識で残酷な行為すら平気で行う。
 言ってみれば自分が主人公である以上、自分とかかわりのないものなど無視してかまわないのだ。

 この物語ではそうした青春の一面が浮き彫りになっている。
 だから『夜跳ぶジャンクガール』は青春を描く物語としてこれ以上なくまっとうなのだ。

 この、どうしようもなく痛々しく、無鉄砲で、我が儘で――そして愛しい二人の青春は、一応とはいえ幸福なかたちを迎えた。
 青春の物語としてまっとうで、そしてハッピーエンドである。だから私は、この青春物語が好きなのだ。

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2012.05.18

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銅

小泉陽一郎『夜跳ぶジャンクガール』

健全な生き方

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

<僕は姉と楓の視線を感じながらも、感じるからこそ、美月と白目を舐めあう。痛くても幸せそうに、見せつけるように。>

 図太く生きるということは、傷ついていないことを意味しない。
 格好悪くみっともなくとも、誰かに生きて欲しいと願うことは、過去に死んでいった人たちへの不誠実とはならない。
 自分以外の誰かが死んで、死ななかった自分が生き続ける。
 それを罪深いこととして考え出すと、際限のない迷路に迷い込む。誰も悪くないのに、誰かが悪い気がしてしまう。どこにも正しい答えはないのに、どこかに正しい答えがあってほしいと願ってしまう。そんな生き方は、出口のない苦しみを抱え込んだような、不健全な生き方のように思う。
 けれど、その迷路に足を踏み入れた我々は、それでも迷いながら生きている。そして生きている以上、生きている実感を求めずにはいられない。
 生きている人間が生きている実感を求めることは、死んだ人々への不誠実を意味しない。

『夜跳ぶジャンクガール』の主人公が、姉と幼なじみの亡霊に背を向けながら、生きながらえて恋を謳歌することは、決して彼女たちへの不誠実を意味しない。

 生きている人間は、精一杯に生きながら、死者に対して思いを馳せる。主人公はそういう生き方を選び取る。それが健全な生き方なのだ。
 彼岸には誰かの死があって、此処には自分の生の実感があって、その二つの前提のうえで人は生きている。それを忘れなければ、主人公も、私たちも、健全に生きていける。

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2012.04.23

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銅

夜跳ぶジャンクガール

世界と心中する覚悟

レビュアー:ややせ NoviceNovice

屋上に立つ少女は、なぜこんなに魅力的なのだろう。
あまりに例が多すぎて思い出せないくらい、少女達は屋上に立ち、凛と「眺められて」きた。
そこに期待されるのは、落下するかもしれない少女の力強い生の輝きではないだろうか。言うならば、他人の走馬灯である。
視点を変えれば、それは空から降ってきた系少女ということになるのかもしれないが、手に入るモノとしての少女ではない、屋上に危うげに立つ少女達は、ジャンルを問わず数多のフィクションに特別なイコンとして登場してきた。

『夜跳ぶジャンクガール』にも屋上に立つ少女が登場する。誰とも親しくならない、孤高の美少女美月だ。
彼女に主人公のアユムが恋をしたことから、すべてが始まった。屋上の美月を見たことにより、首を締め衝動がなくなり、幼馴染とうまくいかなくなり、美月の歓心を買うために連続少女自殺中継の事件の犯人を見つけようとしたりする。
繰り返しになるが、すべてはそこから始まったのだ。
美月はイタいくらいに非日常に拘泥している少女として描かれるが、アユムにとっては美月こそがそれまでの日常を転換させる、非日常だったといえるのではないか。
しかし、結果的にアユムに極めて日常らしい日常をもたらすことになるのも美月なのだ。
日常と非日常の差異など、このくらい自由に反転するものなのかもしれない。

屋上の少女は、柵を越えて落ちるかもしれない。落ちないかもしれない。落ちたら死ぬだろう。落ちなかったのなら、死なないだろう。
些か悪趣味かもしれないが、このどちらに転がるか分からないものを見たい、という好奇心が屋上の少女には向けられる。そして万に一つの可能性として、翔ぶかもしれないという高揚もある。
美月に関して言えば、彼女は跳ばなかったし翔べなかった。つまらない日常の登場人物に成り下がって、しかもその日常を堂々と肯定することもできない、どうしようもなく普通の痛々しい高校生として、アユムの日常に落ちてきただけだった。

思うに、この小説を私たち読者にとっての非日常だとして読むと、何のイベントも起こらないつまらない地平のように思える。
けれど、自分達の日常の延長、この世界に地続きのどこかのことだとして読むとどうか。
日常に非ざるものを非日常と呼ぶのだから、そもそも非日常が日常のどこかにあると信じて探すこと自体がパラドックスを含む。
その矛盾と相剋を抱え込んだ美月は、キャラとしては中途半端でダサい。けれど塞いで布団に潜り込んだり、わんわん泣いたり、持っている哲学が幼く容易にぶれるところが、私には親しめた。可愛くてしょうがなかった。

セカイを救う/壊すためには、少女のギセイが必要だという虚構上のお約束があった。(今もあるのかもしれない)
『夜跳ぶジャンクガール』でも死んでしまった少女(達)がいるが、彼女(達)は言わば虚構の世界のための犠牲として捧げられた少女達、かつてのヒロイン達のように見えた。
私は死を選ばなかった美月に、図々しくも新しいヒロイン像を見たような気がする。
彼女は、誰もが世界に捧げられる無垢な贄ではないということを教えてくれる。
かつてセカイに捧げられた少女達の亡霊の前で、おそるおそる触れ合う二人はさほど幸せそうではない。
けれど、どうせ日常に飛び降りるならば。
世界と心中するくらいの強かさで、地に墜ちるまでの時を手探り指探り舌探りで足掻いてほしいと思うのだ。

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2012.02.18

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銅

夜跳ぶジャンクガール

『夜跳ぶジャンクガール』は、あなたの目を覚ますか否か

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

『夜跳ぶジャンクガール』が好きだ。
これは賛否両論のある作品で、ツイッターやAmazonで見受けられる感想もまちまちである。
でも僕は好きだ。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』を思い出したからだ。



まず『夜跳ぶジャンクガール』 について。
小泉陽一朗のデビュー二作目 であり、帯には「青春の最前線」と謳われている。
ただ僕には「死と対比する形で、生を自覚する物語」でもあるように感じられた。
どういうことか。

主人公の「僕」は『首絞め衝動』を持っていたり、後輩いわく「イタい人」の墓無に恋をしたりする。ようは変人だ。
冒頭で幼なじみ・楓の首を絞めながら、彼はそのまま息絶える彼女を思い浮かべる。
このときの彼は、間違いなく死を意識している。
一方で「人の死っていうのはもっと遠くにあるべきものだ。こんな近くにあってはいけない」とうそぶく。でもそんなギリギリのラインにこそ、彼は陶酔していたと言わざるをえない。
「僕」は生から逃れられないことを理解しつつも、死という概念を間近で見たいと欲していたのだ。

では結末に目を移してみる。物語における全ての謎が解決して、ことが終わりを迎えたとき、「僕」は打って変わって生を見つめている。
姉は死んでいる。楓も死んだ。
でも「僕」は生きているし、ヒロインの美月も生きている。
「僕」と美月は死を選びかけた。それでも命を捨てなかった。
そこに残ったのは、姉と楓の死に対比することで強調された、主人公とヒロインの生である。
だから彼は、天にいる二人に「見せつけるように」ふるまう。
死者からの羨望を感じながら、彼は生を全うするのである。



次に『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』だ。
滝本竜彦の処女作で、主人公・山本陽介の青春を描いた作品である。
僕はこれも同様に「死と対比する形で、生を自覚する物語」だと主張している。

象徴的なシーンを紹介する。バイクに跨った 山本陽介は、かつて友人が死んだ急カーブに全速力で突っ込んだ。でも死ななかった。ルーチンだらけの日常に飽きていた彼は、天の友人に「 オレを置いて行かないでくれ!」と叫ぶ。

そんな彼の思いは、ヒロイン・雪崎絵理の命を救うことで一変する。
目の前で絵理が生きている。彼女を見ている自分も生きている。
これからも日常が続くのだと悟った彼は、「生きているオレが羨ましいだろう!」と雄叫びをあげた。
そこには友人の死と対比する形で、主人公とヒロインの生が強調されている。
非日常への逃避をやめた山本陽介は、自らの生を自覚することで、あるべき日常へと無事に回帰したのである。



このように、両者はたいへん似通った構造を持っていると言える。
だが 一つ決定的な違いがある。僕が作品と出会った時期が異なるのだ。

僕が後者と出会ったのは中学一年生のときで、当時の僕はまさに山本陽介みたいな奴だった。日常から視線を逸らし続け、非日常を欲していた。 いわゆる中二病である。
そして僕には、自らの生を自覚するチャンスなんてなかった。それを際立てるための材料が、くだらない日常には存在していなかったのだ。
だけど『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が、僕の目を覚ましてくれた。
現実世界にはなかったはずの、リアルで身近な死。それは虚構の中に存在した。
僕は山本陽介と一緒に、友人の死と自らの生を実感したのだ。
この一作は、いま自分が生きている日常を直視するキッカケをくれた、僕にとって人生のバイブルと呼ぶべき大切な小説なのである。

でも前者と出会った僕は、すでに中学一年生でも中二病でもなかった。もう非日常や死を望んでなどいないし、生を実感しながら日常を過ごしている。
それゆえ僕はこの作品を楽しむことはできても、この作品に助けられることはなかった。
残念なことこの上ない。 だって勿体ないではないか。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が僕の目を覚ましたように、『夜跳ぶジャンクガール』にだって、誰かに生を自覚させることができるはずだ。
僕は両者に同じ匂いをかぎとったがゆえに、強くそう思うのだ。

だから僕には見える。
『夜跳ぶジャンクガール』によって、生の実感を与えられる者が。
それは間違いなく僕ではない誰かで、僕はその誰かを羨ましく思う。
きっと僕が 『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』をそうしているように、彼はこれから『夜跳ぶジャンクガール』を何度も紐解き、味わうことになるのだろう。
そしてその度に、自分がいまここに生きていることを認識するのだ。



ここで最初に戻って繰り返すが、この作品に対する反応は賛否両論ある。
でも僕はそれを不思議には思わない。
日常において地に足をつけて生きている者、ないし「生とはなにか」「死とはなにか」などと考えることがないような者には、確かに必要のない小説であるからだ。
批判的な意見を述べたくなるのも分かるし、いっそ読まなくてもいい。

『夜跳ぶジャンクガール』を欲している人間は、自らの生と対比すべき虚構の死を求めている人間は、決して彼らではない。
中二病をわずらっていたり、どこか浮ついていたり、なにより自らの生を自覚しえていなかったり。
そんな読者がこの一冊と出会ったとき、初めて真なる価値を発揮するに違いないのだ。

『夜跳ぶジャンクガール』は、あなたの目を覚ますか否か。
それによって、本作に対するあなたの評価も決まるだろう。

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2012.02.18

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銅

夜跳ぶジャンクガール

世界は狂っている、僕は生きている

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

この作品に出てくるやつらはみんな狂っている

主人公の「僕」は、幼馴染・楓の首を絞めたい衝動に駆られる
楓は少女たちの自殺をネットで中継し、やがて自らも死を選ぶ
クラスメイトの足立は、その自殺中継に心酔する
後輩は死にかけた思い人に、最後のとどめをさす
「僕」の惚れこんだ美月は、眼球を舐め合う性癖をもち、非日常と死を望んでいる

世の中みんなが、こんなやつらだったら、どうかしている
でもこの作品では、確かに誰もが狂っている
もしかしたら、僕が気づいていないだけで、現実だって、似たようなものなのかもしれない

楓の葬式
彼女の母親は、とつぜん「僕」に殴りかかる
彼女の父親は、「出てってくれ!」と「僕」に叫ぶ
「僕」の存在が、彼の首絞めが、楓を死に追いやったのは事実だ
でも彼が「なに僕のせいみたいな遺言残してんだよ!」と怒鳴るとおり、命を絶ったのは彼女自身の責任だ
なにひとつ相談しなかったのも、自殺中継なんて犯罪を始めてしまったのも、最終的に悪いのは楓その人である
それでも彼女の両親は、「僕」を殴らずには、追い出さずにはいられなかった
この時点において狂っているのは、間違いなく両親だ
パトスを抑えられない両親だ
「僕」が理不尽だと感じるのは当たり前だ

本当は異常であるはずの「僕」が、むしろ正常である
ただの一般人だった楓の両親が、理性を失っている
だとしたら、僕だって狂ってしまうかもしれない
いまは普通に毎日を送っている僕だって、ふと何かの拍子に、たがが外れてしまうかもしれない
誰だって人間、みな心のどこかが狂っているんだ
作中のこいつらは、中二病よろしく、その異常な部分をこじらせてしまっているだけなんだ

では僕や「僕」は、一体なにを信じたらよいのだろう
もはや理性など、ブレーキの役目を果たしてはくれない
答えは、自分がいまここに生きている、ということ
自分や周りがどれだけ狂っていようと、自らが生きているその事実は変わらない
楓は死んだ、「僕」は生きている
楓の死が、「僕」の生を際立たせている
彼女の存在を意識しているからこそ、「僕」は愛する「美月と白目を舐めあう。痛くても幸せそうに、見せつけるように」
彼はこの先、日常の狂った一面と向きあおうとも、間違いなくそれを越えてみせられる
自分がいまここに生きている、そんな心の拠りどころとしての実感が、彼にはあるのだから

そして僕だって彼のように、もし自らの生を自覚できたならば、それはどれだけ心強いことか
けれど対比しうる誰かの死なんて、現実に望みたいものではない
だから僕はフィクションの中に、『夜跳ぶジャンクガール』の中に楓の死をみた
「僕」と同じように僕は、「僕」と僕は、生きている、そう思った

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2012.01.30

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銀

夜跳ぶジャンクガール

ゴミ虫を照らす月

レビュアー:6rin NoviceNovice

 高校生の少年は姉の死に対する罪悪感から「首絞め衝動」にかられるようになり、幼馴染に首を絞めさせて貰う日々を送る。少年は言う。
「僕は糞のゴミ虫で、一番に死ぬべきは僕だ」
 そんなダメ人間の壊れた日常は「連続少女自殺中継事件」に絡んだ悲劇によって、さらに壊される。悲劇が少年の心に重くのしかかるのだ。見渡す限り瓦礫のようなその世界で、少年は宝物を見つける。それは、クラスメイトの墓無美月のことが自分を捨ててでも守りたいほど「好き」という感情だ。
 運命は宝物のために命を落とす覚悟を少年に求める。
「本当に自分を捨ててでも守りたい宝物ならば、そのために死んでも構わないだろ?」と。
 少年は命を投げ出し、宝物である「好き」が自身の全てであることを傷だらけの身体で証明する。命をかけ貫き通される少年の「好き」が、僕には見るのが辛いほど眩しかった。少年はダメ人間にも輝きが宿りうることをも証明しているのだ。
 「僕なんて…」「私なんて…」と劣等感に縛られ、自らが輝くことを諦めている者にとって、少年の輝きは希望となる。その光は、諦めた者たちが囚われた監房に、小さな格子窓から射し込む。
 物語は読者に問いかける。
「お前も明るい外に出たくなっただろ?」と。
 本書は輝くことを諦めた者たちの夜を照らす、希望の月なのだ!

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2012.01.30

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銀

「夜跳ぶジャンクガール」

「お前が死んだら俺は悲しい」

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

『日本の難点』という本に、中学生の教育に自殺のロールプレイングを扱う話があります。二人一組で行い、一人は自殺者役、もう一人はそれを止める役です。どのような言葉なら、自殺を思いとどまらせることができるか。この本の中では、実に端的な答えが出ていて、それは「お前が死んだら俺は悲しい」という言葉です。しかし、これは相手との間に関係性の履歴がなければ、空っぽの言葉にしかなりません。
 私はこの話の本質は、「相手にとって自分の生(あるいは死)はどの程度の重みがあるのか」を問うている部分にあると思っています。
 そして、『夜跳ぶジャンクガール』はまさにこのことを物語化した作品だと思います。
 作中では繰り返し、「貴方にとって私の死(あるいは生)はどの程度の重みがあるのか」という問いかけが(問う人、問われる人が入れ替わりつつ)出てきます。そしてその回答は、やはり上述したような「お前が死んだら俺は悲しい」というような言葉に結実していきます。

 その言葉は、確かな重みを感じさせるものでした。
 誰かの心を動かすに足る重みをもった言葉でした。

『夜跳ぶジャンクガール』は、衒いのない切実な言葉と言葉のやりとりの中にだけ現れる、そんな重みをこそ描いた小説なのだと私は思います。

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2011.12.20

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銀

夜跳ぶジャンクガール

遺憾ながらまだ青春している身であるらしく

レビュアー:またれよ NoviceNovice

「とにかく、おもしろい」
という帯がついていたので笑ってしまった。
とにかく、おもしろいらしいのである。大きく出ている。
この帯をつけた人はよほど自信あったよう。だから是非読んでみてよと勢い余ってしまったらしい。微笑ましいことである。

と、一瞬思いはしたものの、どうもそんな微笑ましい雰囲気でもない。帯を見つめていると、つべこべ言わずに読んでみろと言われている気もする。ははあ、なんとも挑発的な帯ではないか。いやさ前々からこの作品読むつもりではあった。何気なく手に取ってレジに持っていくつもりであったのだ。しかし彼奴め、大上段に迫ってくる。「とにかく、おもしろい」と。

知ったことか!

おもしろいか、そうでないかは己で判断する。勝手に決めつけてくれるな。ふむぅ、なにやら腹立たしくなってきた。よしわかった読んでやろう。そこまで言うなら読んでやろう待っていろ! 


主人公は高校生の男の子・アユム。一年前の姉の死以来、女の子の首を絞めたい衝動に駆られている変な子。しかし人を殺したいというわけではなく、まあ常識人。そして彼の性癖に付き合って首を絞められるのが幼なじみの女の子・楓。大人しく首を絞められて変態さんかとも思うのだけど、まあ普通にしてればそうは見えない。そんな二人が首を絞め絞め絞められてと仲良くしている最中に登場するのがクラスメイトの女の子・美月。ビルの屋上でモデルガンを携えつつ怒りの色を浮かべる彼女はミステリアスガール。はたまたただのイタイ子か。その三人に関係してくるのがネットで話題の「連続少女自殺中継事件」。なにやら不穏凄惨な匂い漂うこの作品。
しかしこれは恋愛小説なのである。

アユムの一人称で進むこの作品。彼は自分の気持ちについて、自分と他人との関係性について常に自問自答を繰り返す。

「人の死っていうのはもっと遠くにあるべきものだ」「僕はどうしたいんだろう?」「僕は自分のことを信頼していないのだ」「メタファー」「違う」「僕の本当の気持はどうだろう」「分からない」

断定、疑問、否定、その他その他。固まっては揺らぎ更新される内面。はたから見ればどうにも面倒である。しかし、身に覚えのある面倒くささでもある。人はそれを青さだとか若さだとか言う。
そんな青さだの若さだのの末に彼はこの疑問にぶつかる。

「『好き』ってどういうことだろう」

来てしまった。なんと平凡で、退屈な疑問だろう! 誰もが通る道で、でもなかなか納得のいく答えの得られない、難しい問いだろう! 自分だって知りたい、教えてくれ!
彼はこの疑問の直後、答えへのひとつの道しるべに思い至る。

「世に恋愛に関しての物語が溢れているのは、みんな他人の答えに興味があるからかもしれない。みんな他人の答えを参考に自分の『好き』を見つけようとしているのかもしれない」


小泉陽一郎は一作目の『ブレイク君コア』でも恋愛を軸に、今この瞬間の想いを描いていた。瞬間ごとに更新され塗り替えられていく想い。それは読者からすれば薄情とも捉えられる目まぐるしさ。そうしてまで瞬間の想いに誠実であり続けた。
第二作の本作もテーマとして通じるものがある。今回は主人公・アユムの恋愛対象に対しての想いは一貫している。しかし内面は常に揺らいでいる。そのとき確定させた自らの想いを後になってひっくり返すこともある。では以前の想いが嘘であったかというとそうではないだろう。本物であったはずだが、今は違うのだ。今作も、今この瞬間の想いを重視していた。過去の想いに薄情であることに誠実であった。「世に恋愛に関しての物語が溢れている」。この作品も溢れている作品の一つ。それをわかりながらも小泉陽一郎という作家は「答え」を探し、描くのかもしれない。三作目では何をどう描くのか。


さて、「とにかく、おもしろい」か。
否、というのが私の答えだ。帯の文句を額面通りに受け取れば。
しかしそうじゃないだろう。これはみんながみんな「おもしろい」と言うような作品ではないように思う。凄惨なシーンもある。極端な登場人物たちに共感できないという意見もあるだろう。それでもこの帯をつけるのだ。恐らくこの「とにかく、おもしろい」に対して「とにかく、おもしろかった」と切実なまでに思う人がいるはずなのだ。私はその人にはなれなかったが、そのような勢いと粘つくような青さがある!

この帯をの挑発に乗ってしまったこと、挑発と受け取ったことに今は苦笑いしてしまう。なんだ自分も青いものだ。しかし、あの反抗心を忘れてこうして冷静にこの文章を書いてしまっている自分は若くもないのではないか。いやしかし、こうやって自分の内面を分析しているのは若さか……以下逃れられない内省。

若さとは年齡だけのものでもないだろう。青春とは高校生だけのものでもないだろう。過去を振り返ればあんな青い頃もあったと思うこともある。だからと言って今が青くないとも限らない。今を振り返ることはできない。また年を経た時に何か思うこともあるだろう。
『夜跳ぶジャンクガール』を中学生が読んだ時、高校生が、大学生が、社会人が、子どもを持った人が、定年後の人が、その他様々な人が読んだ時、何を思うのか私は興味がある。
私はまだ自分の年齡以上の年齡を生きたことがないので、青春がどこまで続くのかわからない。わからないけれども私は今、青春のただ中にいるらしいことがわかった。『夜跳ぶジャンクガール』を読んでそれに気づいてしまい、苦々しい気分である。いや、ほっとしているのかもしれない。
いずれにせよ自分に舌打ちしたくなる。

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2011.12.20

「夜跳ぶジャンクガール」のレビュー

銅

夜跳ぶジャンクガール

私が『夜跳ぶジャンクガール』をおもしろくないと感じた理由

レビュアー:ticheese' NoviceNovice

 あらすじに『首絞め衝動』『連続少女自殺中継事件』などの気になる文句が踊る『夜跳ぶジャンクガール』を読んでいる最中も読み終わった後も私が抱いた感想は「おもしろくない」だった。何故おもしろくなかったか考えてみると、まず思いつくのは「私はこの作品に選ばれなかった」という考え方だ。世の中には「読者を選ぶ作品」が存在する。作中の得意な価値観、思想などに共感できなければ「私にこの作品は合わないな」となる。だから「読者を選ぶ作品」があることを私は知っている。そして『夜跳ぶジャンクガール』は間違いなく「読者を選ぶ作品」だ。
 作中の登場人物の価値観や思想は歪んでいる。首絞めを受け入れる幼なじみの楓、自殺中継を見て興奮するクラスメイトの足立、非日常を求めて奇行を繰り返すヒロインの美月。共感する人もいるだろうし、気持ち悪いとはね除けてしまう人もいるだろう。それを理解した上で私は「おもしろくない」と感じた。
 正直に言えば、私は『夜跳ぶジャンクガール』の登場人物たちを気持ち悪いと思ってしまう側の人間だ。けれど私はこの作品には構造的におもしろくなくしている作品だと言いたい。言わせてほしい。「この作品は構造的に問題がある」と。
 まず『夜跳ぶジャンクガール』は青春劇だ。だから「青春」の話をしなければならない。他の人が「青春」をどう定義するか知らないが、「青春」は悩むこと熱狂することが許されている期間だと私は思う。自分の過去現在未来に悩み、人間関係に悩み、社会との向き合い方に悩む。あるいは熱狂する。それらが許される期間だ。中高生は、あるいは大学生を含めて分かり難い人もいるかもしれないが、大人になると青春時代に悩んでいたことなど、くだらないと思えるようになる。そして青春の渦中にいる人を微笑ましく思ったり、痛々しく思ったりするようになる。良い悪いはともかく、まあそんなものだ。
 そして『夜跳ぶジャンクガール』の登場人物たちはもれなく高校生、青春まっただ中の子供たちだ。だから恋に人生に社会に死に悩んだり熱狂したりできる。たった一人を除いて。いや、物語開始当初までは全員青春を送おくっていた。けれど主人公、この物語の視点を司るアユムだけは大人になってしまう。物語開始当初、アユムは悩んでいた。姉の死に影響を受けて首を絞めたいという衝動に駆られていた。それが消えてしまったのはアユムがヒロインの美月に恋をしたからだ。美月に恋をした瞬間から首を絞めたくなくなってしまう。自分の衝動のはけ口になってくれていた幼なじみを置いてきぼりにして大人になってしまうのだ。恋をすることがなんで大人になることなのか疑問に思うかもしれないが、アユムが抱いた恋心はひたすら大人的なものだった。
 まず第一に悩まない。恋した美月と恋仲になることしか考えない。美月がどんなに拒否しようと、美月がどんな人間であろうと、恋仲になる為に行動する。熱心熱烈熱狂的な恋でいかにも青春に見えるが、アユムはこの恋を諦めることもできる人間なのだ。これが第二だ。美月に嘘をついて一時的に恋仲になった際に嘘をつき続けることができなくなり、本当のことを言ってしまって諦めようともしている。アユムは無理なことは無理だと割り切っている。ちなみに物語開始時は大人でなかった為、青春の残滓は存在している。死んだ姉の幻影を見て、それと対話までしてしまう。想像上の相手を作り出してしまうのは子供じみているかもしれないが、アユムは幻影まで割り切って受け入れてしまう。幻影と対話することで自分の考えをまとめることに利用してしまうのだ。なんともたくましい。幻影を否定したり、消そうとしたり、ようはどうしようもないことに足掻いたりはしないのだ。
 さて話を本題に戻そう。何故私が『夜跳ぶジャンクガール』を「おもしろくない」と感じたかだ。それは主人公アユムが物語でただひとり、大人であるからだ。アユムにとって大事なのは美月と恋仲になることだけだ。他の全てはどうでもいいことに落ちてしまう。以前は首絞めのパートナーだった楓も自殺中継熱狂する足立もどうでもいいのだ。あるいは美月自身についてもどうでもいいと考えている。大人らしく一歩引いた視点で俯瞰し、下らないと貶めてしまう。大人が青春をおくる子供たちにイタいとか、どうでもいいとか感じてしまうようなことを主人公が率先してやってしまう。ここからが大事な所なのだが、じゃあ読者は誰に共感すればいいのだ? 
 『夜跳ぶジャンクガール』は前述の通り「読者を選ぶ作品」だ。作中の価値観や思想に共感した読者は選ばれることができる。この作品では盛大に悩んだり熱狂したりする楓や足立、美月に共感が起こるはずだ。しかしこの作品の主人公は彼らの悩みを熱狂をどうでもいい、気持ち悪いとさえ感じてしまう。あるいはスルーを決め込むかだ。共感してしまった読者は居心地が悪くないだろうか。じゃあ次に主人公に共感できたとしよう。周囲の青春まっただ中の少年少女を前にどうでもいいと感じている主人公に共感する。そうするとこの物語は「おもしろい」だろうか? どうでもいいと感じる視点で見て物語は「おもしろい」か? 美月への恋心に感じ入ろうにも、アユムは作中で美月に惹かれた理由すら語ったりはしないのだ。読者はそれを読んで「おもしろい」のか? 
 私はおもしろくない。
 この物語は主人公が大人になってしまったが故に、悩みや熱狂によって起こる事件の全てがどうでもいいことに貶められてしまい、最後に残るのは美月と恋仲になるという作中で少々単調に語られる物語だけになる。
 以上が私が『夜跳ぶジャンクガール』を「おもしろくない」と感じた理由でこの物語の構造的問題だ。ここまで書いたら許してもらえるだろうか。少々傲慢に聞こえるかもしれないが、言わせてほしい。
 私はこの作品を選ばない。

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2011.12.20


本文はここまでです。