夜跳ぶジャンクガール
『夜跳ぶジャンクガール』は、あなたの目を覚ますか否か
レビュアー:横浜県
『夜跳ぶジャンクガール』が好きだ。
これは賛否両論のある作品で、ツイッターやAmazonで見受けられる感想もまちまちである。
でも僕は好きだ。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』を思い出したからだ。
まず『夜跳ぶジャンクガール』 について。
小泉陽一朗のデビュー二作目 であり、帯には「青春の最前線」と謳われている。
ただ僕には「死と対比する形で、生を自覚する物語」でもあるように感じられた。
どういうことか。
主人公の「僕」は『首絞め衝動』を持っていたり、後輩いわく「イタい人」の墓無に恋をしたりする。ようは変人だ。
冒頭で幼なじみ・楓の首を絞めながら、彼はそのまま息絶える彼女を思い浮かべる。
このときの彼は、間違いなく死を意識している。
一方で「人の死っていうのはもっと遠くにあるべきものだ。こんな近くにあってはいけない」とうそぶく。でもそんなギリギリのラインにこそ、彼は陶酔していたと言わざるをえない。
「僕」は生から逃れられないことを理解しつつも、死という概念を間近で見たいと欲していたのだ。
では結末に目を移してみる。物語における全ての謎が解決して、ことが終わりを迎えたとき、「僕」は打って変わって生を見つめている。
姉は死んでいる。楓も死んだ。
でも「僕」は生きているし、ヒロインの美月も生きている。
「僕」と美月は死を選びかけた。それでも命を捨てなかった。
そこに残ったのは、姉と楓の死に対比することで強調された、主人公とヒロインの生である。
だから彼は、天にいる二人に「見せつけるように」ふるまう。
死者からの羨望を感じながら、彼は生を全うするのである。
次に『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』だ。
滝本竜彦の処女作で、主人公・山本陽介の青春を描いた作品である。
僕はこれも同様に「死と対比する形で、生を自覚する物語」だと主張している。
象徴的なシーンを紹介する。バイクに跨った 山本陽介は、かつて友人が死んだ急カーブに全速力で突っ込んだ。でも死ななかった。ルーチンだらけの日常に飽きていた彼は、天の友人に「 オレを置いて行かないでくれ!」と叫ぶ。
そんな彼の思いは、ヒロイン・雪崎絵理の命を救うことで一変する。
目の前で絵理が生きている。彼女を見ている自分も生きている。
これからも日常が続くのだと悟った彼は、「生きているオレが羨ましいだろう!」と雄叫びをあげた。
そこには友人の死と対比する形で、主人公とヒロインの生が強調されている。
非日常への逃避をやめた山本陽介は、自らの生を自覚することで、あるべき日常へと無事に回帰したのである。
このように、両者はたいへん似通った構造を持っていると言える。
だが 一つ決定的な違いがある。僕が作品と出会った時期が異なるのだ。
僕が後者と出会ったのは中学一年生のときで、当時の僕はまさに山本陽介みたいな奴だった。日常から視線を逸らし続け、非日常を欲していた。 いわゆる中二病である。
そして僕には、自らの生を自覚するチャンスなんてなかった。それを際立てるための材料が、くだらない日常には存在していなかったのだ。
だけど『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が、僕の目を覚ましてくれた。
現実世界にはなかったはずの、リアルで身近な死。それは虚構の中に存在した。
僕は山本陽介と一緒に、友人の死と自らの生を実感したのだ。
この一作は、いま自分が生きている日常を直視するキッカケをくれた、僕にとって人生のバイブルと呼ぶべき大切な小説なのである。
でも前者と出会った僕は、すでに中学一年生でも中二病でもなかった。もう非日常や死を望んでなどいないし、生を実感しながら日常を過ごしている。
それゆえ僕はこの作品を楽しむことはできても、この作品に助けられることはなかった。
残念なことこの上ない。 だって勿体ないではないか。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が僕の目を覚ましたように、『夜跳ぶジャンクガール』にだって、誰かに生を自覚させることができるはずだ。
僕は両者に同じ匂いをかぎとったがゆえに、強くそう思うのだ。
だから僕には見える。
『夜跳ぶジャンクガール』によって、生の実感を与えられる者が。
それは間違いなく僕ではない誰かで、僕はその誰かを羨ましく思う。
きっと僕が 『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』をそうしているように、彼はこれから『夜跳ぶジャンクガール』を何度も紐解き、味わうことになるのだろう。
そしてその度に、自分がいまここに生きていることを認識するのだ。
ここで最初に戻って繰り返すが、この作品に対する反応は賛否両論ある。
でも僕はそれを不思議には思わない。
日常において地に足をつけて生きている者、ないし「生とはなにか」「死とはなにか」などと考えることがないような者には、確かに必要のない小説であるからだ。
批判的な意見を述べたくなるのも分かるし、いっそ読まなくてもいい。
『夜跳ぶジャンクガール』を欲している人間は、自らの生と対比すべき虚構の死を求めている人間は、決して彼らではない。
中二病をわずらっていたり、どこか浮ついていたり、なにより自らの生を自覚しえていなかったり。
そんな読者がこの一冊と出会ったとき、初めて真なる価値を発揮するに違いないのだ。
『夜跳ぶジャンクガール』は、あなたの目を覚ますか否か。
それによって、本作に対するあなたの評価も決まるだろう。
これは賛否両論のある作品で、ツイッターやAmazonで見受けられる感想もまちまちである。
でも僕は好きだ。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』を思い出したからだ。
まず『夜跳ぶジャンクガール』 について。
小泉陽一朗のデビュー二作目 であり、帯には「青春の最前線」と謳われている。
ただ僕には「死と対比する形で、生を自覚する物語」でもあるように感じられた。
どういうことか。
主人公の「僕」は『首絞め衝動』を持っていたり、後輩いわく「イタい人」の墓無に恋をしたりする。ようは変人だ。
冒頭で幼なじみ・楓の首を絞めながら、彼はそのまま息絶える彼女を思い浮かべる。
このときの彼は、間違いなく死を意識している。
一方で「人の死っていうのはもっと遠くにあるべきものだ。こんな近くにあってはいけない」とうそぶく。でもそんなギリギリのラインにこそ、彼は陶酔していたと言わざるをえない。
「僕」は生から逃れられないことを理解しつつも、死という概念を間近で見たいと欲していたのだ。
では結末に目を移してみる。物語における全ての謎が解決して、ことが終わりを迎えたとき、「僕」は打って変わって生を見つめている。
姉は死んでいる。楓も死んだ。
でも「僕」は生きているし、ヒロインの美月も生きている。
「僕」と美月は死を選びかけた。それでも命を捨てなかった。
そこに残ったのは、姉と楓の死に対比することで強調された、主人公とヒロインの生である。
だから彼は、天にいる二人に「見せつけるように」ふるまう。
死者からの羨望を感じながら、彼は生を全うするのである。
次に『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』だ。
滝本竜彦の処女作で、主人公・山本陽介の青春を描いた作品である。
僕はこれも同様に「死と対比する形で、生を自覚する物語」だと主張している。
象徴的なシーンを紹介する。バイクに跨った 山本陽介は、かつて友人が死んだ急カーブに全速力で突っ込んだ。でも死ななかった。ルーチンだらけの日常に飽きていた彼は、天の友人に「 オレを置いて行かないでくれ!」と叫ぶ。
そんな彼の思いは、ヒロイン・雪崎絵理の命を救うことで一変する。
目の前で絵理が生きている。彼女を見ている自分も生きている。
これからも日常が続くのだと悟った彼は、「生きているオレが羨ましいだろう!」と雄叫びをあげた。
そこには友人の死と対比する形で、主人公とヒロインの生が強調されている。
非日常への逃避をやめた山本陽介は、自らの生を自覚することで、あるべき日常へと無事に回帰したのである。
このように、両者はたいへん似通った構造を持っていると言える。
だが 一つ決定的な違いがある。僕が作品と出会った時期が異なるのだ。
僕が後者と出会ったのは中学一年生のときで、当時の僕はまさに山本陽介みたいな奴だった。日常から視線を逸らし続け、非日常を欲していた。 いわゆる中二病である。
そして僕には、自らの生を自覚するチャンスなんてなかった。それを際立てるための材料が、くだらない日常には存在していなかったのだ。
だけど『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が、僕の目を覚ましてくれた。
現実世界にはなかったはずの、リアルで身近な死。それは虚構の中に存在した。
僕は山本陽介と一緒に、友人の死と自らの生を実感したのだ。
この一作は、いま自分が生きている日常を直視するキッカケをくれた、僕にとって人生のバイブルと呼ぶべき大切な小説なのである。
でも前者と出会った僕は、すでに中学一年生でも中二病でもなかった。もう非日常や死を望んでなどいないし、生を実感しながら日常を過ごしている。
それゆえ僕はこの作品を楽しむことはできても、この作品に助けられることはなかった。
残念なことこの上ない。 だって勿体ないではないか。
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』が僕の目を覚ましたように、『夜跳ぶジャンクガール』にだって、誰かに生を自覚させることができるはずだ。
僕は両者に同じ匂いをかぎとったがゆえに、強くそう思うのだ。
だから僕には見える。
『夜跳ぶジャンクガール』によって、生の実感を与えられる者が。
それは間違いなく僕ではない誰かで、僕はその誰かを羨ましく思う。
きっと僕が 『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』をそうしているように、彼はこれから『夜跳ぶジャンクガール』を何度も紐解き、味わうことになるのだろう。
そしてその度に、自分がいまここに生きていることを認識するのだ。
ここで最初に戻って繰り返すが、この作品に対する反応は賛否両論ある。
でも僕はそれを不思議には思わない。
日常において地に足をつけて生きている者、ないし「生とはなにか」「死とはなにか」などと考えることがないような者には、確かに必要のない小説であるからだ。
批判的な意見を述べたくなるのも分かるし、いっそ読まなくてもいい。
『夜跳ぶジャンクガール』を欲している人間は、自らの生と対比すべき虚構の死を求めている人間は、決して彼らではない。
中二病をわずらっていたり、どこか浮ついていたり、なにより自らの生を自覚しえていなかったり。
そんな読者がこの一冊と出会ったとき、初めて真なる価値を発揮するに違いないのだ。
『夜跳ぶジャンクガール』は、あなたの目を覚ますか否か。
それによって、本作に対するあなたの評価も決まるだろう。