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「ジスカルド・デッドエンド」のレビュー

銅

ジスカルド・デッドエンド

デッドエンドはハッピーエンド

レビュアー:横浜県 AdeptAdept

登場人物の一人が死ぬと分かっている作品を読むのはつらいものがある。救いのない展開が訪れることを知っているがゆえの閉塞感に苛まれてしまうからだ。『ジスカルド・デッドエンド』は、しかしその閉塞感を突き破る作品でもある。

ジスカルドを崇拝していたはずの主人公デイジーは、あれほど忌避していた彼の死をあっさりと受け入れてしまう。いや、実際には葛藤があったのかもしれない。なにしろジスカルドが死ぬ瞬間の次に描かれる場面では、それから既に一か月の時が経ってしまっている。確かにデイジーが失意に暮れていたらしき描写はある。しかしそれらを加味したとしても、デイジーの見せる前向きさは、どこか唐突な感じを拭えない。

それでは、このデイジーが見せた気持ちの切り替えには、説明が不足しているというのだろうか。決してそうではないはずだ。この作品は、ジスカルドの死それ自体ではなく、それをデイジーがいかに受け入れるのかという点に重きが置かれているからだ。あるいは、彼がそれを受け入れることができるようになるまでの成長が、一冊を通じて描かれているのである。

デイジーはジスカルドを崇拝していたがゆえに、彼の思想をそのまま受け継いでいる。たとえばそれは「生きるために創造をしている」ということであり、「創造を止めると死んでしまう」ということであった。なかでも「誰かと分かち合うことに創造の意味がある」という彼の言葉は、作品全体を貫くテーマであるとさえ言える。『ジスカルド・デッドエンド』では、これらの言葉がもつ意味を、デイジーが改めて自己に問いかけるなかで物語が進んでいく。また、デイジーは物語を通してこれらを実践するために必要なものを一つずつ獲得していく。初めは好いていなかったはずのイリヤが、自分と同じ思いを「分かち合う」人間であると認識することで心を許していく様などは、その最たる例のように思われる。

だからジスカルドの死は、デイジーから創造を奪うことをしなかった。それはむしろ、人と分かち合うべき「彼に対する思い」を駆り立てた。そしてデイジーには、それを分かち合うことのできる相手、9000さんと、イリヤがいた。また創造を人と分かち合うという発想も、物語冒頭のデイジーにはなかったものであるから、彼が成長した証と言えるだろう。

死という結末が提示されていながら、そこには前向きな意味づけを見出すことができる。それは決して唐突なものではなく、『ジスカルド・デッドエンド』という一つの物語を経ることで、デイジーが、そして僕たち読者が辿り着くことのできるハッピーエンドなのだ。

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2013.07.08

「ジスカルド・デッドエンド」のレビュー

銅

「ジスカルド・デッドエンド」

たった一つの我儘な死に方

レビュアー:zonby AdeptAdept

何かを生み出すことには、それがどんなものであったにしろ責任がともなう。
それは生命ではないのかもしれない。
それはただの妄想や空想なのかもしれない。
けれど、それらは貴方が生み出した時点で、貴方に責任があるのだ。

この物語は、あらゆるものを創作するジスカルドというクリエイターと、
彼を尊敬し、そこに集った人達の物語だ。
そしてジスカルドの現実を超えた自殺の物語でもある。

ジスカルド。
彼が生み出した無数のキャラクターたちは
彼を守ろうとしたし、同時に殺そうともした。
ゲームの世界のキャラクターなので、派手なバトルシーンや
特殊な能力を駆使したりもする。
けれど私にとっては
そんなこと
どうでもよかったのだ。

ジスカルドを尊敬する、語り手:デイジーや9000、イリヤがどうなろうとどんな判断をしようと、本当にどうでもよかったのだ。

ジスカルドは自分勝手だ。
自分の作ったものを、愛してくれる人たちがいる。
(でもその事実は死にたい気持ちを抑制はするが、本質的には作用しない)
自分以外の誰かを巻き込み、心配させ、自分の作り出したキャラクターさえ困惑させる。
何かを生み出すことには責任がともなう、と最初に書いた。
自殺もそうだ。
自分の死の責任は、自分で負わなくてはならないと私は思う。
だから、責任を放棄し死に傾いた彼を、私は酷く自分勝手だと思う。
誰か―それは自分で作り上げた現実に存在しないキャラクターだ―に殺してもらうことで
責任を放棄した彼を、酷く傲慢だと思う。

―――でも。
ただ、羨ましいと思った。
思ってしまったのも事実だ。
ジスカルドを。
自分の作ったものに生かされ。
殺される彼を。
自ら作り上げた世界に、殺される彼を。

もう一度は読みたくない。
だって、私は「生きたい」という気持ちを担うデイジーではなく
「死にたい」と想うジスカルドに
同調してしまうのだもの。

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2013.05.29

「ジスカルド・デッドエンド」のレビュー

鉄

ジスカルド・デッドエンド

リアルフィクション

レビュアー:ラム、ユキムラ

 ジスカルドは死んだ。
泉さんがそう言うのならそうなんだろう。
信じられなくても。
 でも、作家・泉和良は生きてる。

『エレGY』をきっかけにアンディーメンテというフリーウェアゲームサークルを知った。
私は生きている【ジスカルド】を知らない。
『ジスカルド・デッドエンド』に出てくるゲームをプレイしたことがない。

 話に出てくるキャラクターを知らない。知らずに今に至っている。

 全部本当にあったことだと思って読むと面白いですよ、と作者は言う。事実を基に書いているし、主人公にもモデルがいる、と。

 でもジスカルドは死んでも、泉さんは生きてる。

 泉さんにしかジスカルドは殺せない。

たぶん、泉さんがいるから、ジスカルドは死ねるんだね。

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2012.06.08

「ジスカルド・デッドエンド」のレビュー

銅

ジスカルド・デッドエンド

ただのファンとして

レビュアー:ややせ NoviceNovice

私にも、尊敬して止まないクリエイターがいる。
私の場合、彼への憧れはその人を倣って創造するという方向には向かなかったけれど、ジスカルドにもう夢中になってしまって創作の世界へ飛び込んでいったデイジーの気持ちは、だからとてもよく分かった。
絵や文章を書く人、音楽を作る人、そしてもちろんゲームを組み上げる人。想像と創造を一つにしようと戦っている人にとって、この「ジスカルド・デッドエンド」は単なるファンタシー以上の生々しさで迫ってくるだろう。

デイジーの味方についてくれているジスカルドのゲームのキャラは、確かに相手の心を読んだり身体を意のままに動かすことができたりと、すごい超能力を持っている。
けれど、デイジーを襲ってくる方のキャラ達は、ミサイル飛ばすわ公園は破壊するわの圧倒的な力の差でもって向かってくる。
一見勝ち目のなさそうな戦いを、味方の能力をうまく組み合わせて何とか凌ぐのだが、圧倒的な現実の持つ力に対して、目に見えない想像力がどのように抵抗していくかのメタファーのように思えた。

更に、デイジーやその他のファンにとっては髪にも等しい存在であるジスカルドだが、いついつまでもその座に君臨していられないかもしれないという不安が見え隠れする。
神が神の座にいることに倦んだのか、飽いたのか。
そして、創作を続ける限り、創作者はより良いものを作ろうと高みを目指さなくてはならないものだ。
デイジーが意図しようとしまいと、これは神に対する戦いの比喩でもあったのだと思う。

一つの創作物を愛する集団がそれを護ろうとする戦いと、その創作物をもっと高めようと上を目指す戦い。
仲良く楽しめたらそれでいいという馴れ合いと、もっと楽しいもの素晴らしいものを追いかけようとする探究心。
作り手が感じるジレンマが、葛藤が、悲鳴を上げているかのような内容に、読んでいて辛くなるばかりだった。
友達ならば、「辛いなら辞めたらいいよ」と言うだろう。
けれどファンだったら。「辛いなら辞めてもいいよ」とはどうしたって言えない。辛くてもしんどくても、それでもやれ!もっと高みを目指せ!と言うしかないし、それがファンの矜恃でもあるのだ。

けれど、その結果として、神のように王様のように慕うクリエイターが倒れてしまったら……どうしたらいいのだろう。
作品を愛しているのか、作者を愛しているのか。芸術について語りたいのか、身内の流行について語りたいのか。
どんなもののファンにせよ、そのギリギリのラインの上に立ち、どちらに落ちることもないような(例えば冷静なレビューを書けるような)ファンでいたいと改めて思った。

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2012.04.02

「ジスカルド・デッドエンド」のレビュー

銅

泉和良『ジスカルド・デッドエンド』

書を捨てよ! そして――

レビュアー:ユキムラ AdeptAdept

 この本に関しては、あまり多くを語りたくない。
というか、この本に対して私は怒っている。怒っているのだ。

 一年でもっとも仕事が忙しい時期。
魔の一ヶ月の序盤に、この本を手に取った。
少し時間が空いたからと侮っていた。
この本を油断していたのだ。

 この物語は【死と再生をめぐる物語】と銘されている。
私にとっては、それ以上に、【創作意義を求める物語】だった。
 端的に言えば、私はこの小説にあてられたのだ。
あるいは、この小説に出てくるクリエーター達が有する熱情に。

 今現在、読み手でしかない己を嫌悪した。
むしょうに、作り手の側に回りたくなった。
憬れ 焦がれたのだ、彼らに。創作過程の彼らの生き様に。


 この小説は私に無慈悲で冷酷な衝動だけを与えて、無断でストーリーを収束させてゆく。
だからこそ、腹が立つ。腹立たしい。

 責任を取ってほしい。
「お前に孕まされたこの衝動を、俺は一体何にぶつけろと!?」

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2012.04.02

「ジスカルド・デッドエンド」のレビュー

鉄

ジスカルド・デッドエンド

死は再生のはじまり

レビュアー:ジョッキ生 KnightKnight

この物語の根幹はクリエイターが死ぬときはいつか?ということである。答えは帯に書いてある通り誰かと分かち合えなくなったときである。それは本書の中でじすさんが最愛の人を失くし、作る意味を見失ってしまったという言葉にも表れている。

そしてもう一人本書で死ぬキャラクターがいる。それはデイジーである。彼はじすさんに憧れゲーム作りを開始し、彼を心の拠り所にしていた。つまり彼を失うことによりデイジーもまた死ぬのである。

しかし、ここである差異が生まれる。デイジーは最後に再生を果たすのである。何故同じ道を辿った二人にこのような結末の変異が訪れたのか?それは二人の人間関係によって明らかになる。じすさんが最愛の人以外に交友関係が無いかといえばそうではなく、オフ会という場があった。これにはファンが集い、9000さん、イリヤという二人のキーパーソンがいた。この二人はデイジーとも関係が深く、9000さんはデイジーの片思い相手であり、イリヤはデイジーに恋する存在であった。つまり、作る意味を失くしたじすさんにはまだ他に道が残されていた。それは彼を取り巻くファンに対して創作の意味を見出す行為である。失った意味を別のものに見出すことによって死が再生を果たすのである。

しかし最後までじすさんはこれを選ばなかった。これが岐路になった。デイジーは最後、9000さん、イリヤに自分の思いを届けるためにまた創作を開始するのである。つまり目的の届け先がじすさんからシフトしたのである。これにより彼は再生し、じすさんは死んでしまった。だが、語った通り死から再生への道にはただ一つ届けたいという想いがありさえすればいいのである。じすさんというクリエイターは死んだが創作者本人が死んだわけではない。本人が生きている限りそこに再生の目はあり続ける。そしてそれを可能にするのはファンという存在の願いや祈りかもしれない。

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2012.03.09

「ジスカルド・デッドエンド」のレビュー

鉄

「ジスカルド・デッド・エンド」

『私のおわり』の対の作品

レビュアー:USB農民 AdeptAdept

 エピローグにあたる短い章を読んでいる間、私は、悪い意味でポカンとした気持ちでいた。なんというか、書いてある内容は理解できても、それが実感として伝わってこなかった感じだ。

「死と再生をめぐる物語」と銘打たれたこの作品は、『私のおわり』の対になる作品のように思う。どちらも「死」という絶対不可避な「離別」を描いているが、視点の位置は対称的だ。『私のおわり』が死んでいく人の心の再生を描いたのに対して、『ジスカルド・デッド・エンド』では、『私のおわり』では描かれなかった、残された人々の心の再生を描いている。そういう意味で、二つの作品を併せて読むことは、互いの作品の理解を深めるように思う。
『私のおわり』の読了時、「残された人々はこれから何を思うのだろう」ということが気になっていた私にとって、この作品はその間隙を埋めてくれるかもしれない作品だった。そのはずだった。

 しかし、エピローグの章はあまりに唐突という気がしてならなかった。主人公がジスカルドの死を受け入れている描写を見ても、読者である私はそんなにすぐに受け入れることはできなかった。作中時間では一ヶ月が経過しているが、現実の時間ではページを数枚めくるだけの僅かな時間しか経っていない。その数ページに、一ヶ月分の重みがあったようには思えなかった。
 エピローグを読み終えて、消化不良のような気分で本を閉じた。

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2012.01.30


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