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読者レビュー

鉄

「ジスカルド・デッド・エンド」

『私のおわり』の対の作品

レビュアー:USB農民 Adept

 エピローグにあたる短い章を読んでいる間、私は、悪い意味でポカンとした気持ちでいた。なんというか、書いてある内容は理解できても、それが実感として伝わってこなかった感じだ。

「死と再生をめぐる物語」と銘打たれたこの作品は、『私のおわり』の対になる作品のように思う。どちらも「死」という絶対不可避な「離別」を描いているが、視点の位置は対称的だ。『私のおわり』が死んでいく人の心の再生を描いたのに対して、『ジスカルド・デッド・エンド』では、『私のおわり』では描かれなかった、残された人々の心の再生を描いている。そういう意味で、二つの作品を併せて読むことは、互いの作品の理解を深めるように思う。
『私のおわり』の読了時、「残された人々はこれから何を思うのだろう」ということが気になっていた私にとって、この作品はその間隙を埋めてくれるかもしれない作品だった。そのはずだった。

 しかし、エピローグの章はあまりに唐突という気がしてならなかった。主人公がジスカルドの死を受け入れている描写を見ても、読者である私はそんなにすぐに受け入れることはできなかった。作中時間では一ヶ月が経過しているが、現実の時間ではページを数枚めくるだけの僅かな時間しか経っていない。その数ページに、一ヶ月分の重みがあったようには思えなかった。
 エピローグを読み終えて、消化不良のような気分で本を閉じた。

2012.01.30

のぞみ
二つの作品の比較が面白いな~って思いましたわ。
さやわか
うむむ、確かに別作品との比較があるのはいいとは思うのですが、このレビューはちょっと難しい。『私のおわり』から連なるものとして本作を読んだという話はまだいいのですよ。しかし、まず、どんな物語だったのかがレビューの読者にはわからない。もちろんネタバレを避けるという判断があったのかもしれませんが、よくあるネタバレ回避というのは、僕はどこまで有効なのかわかりません。こうして、結果的にその作品の何がUSB農民さんの心に引っかかったのかわからないレビューになってしまうのであれば、それは果たして読者にとって効果的な配慮と言えるのでしょうか。次に、「対になる作品のように思う」ということの論拠が「死と再生をめぐる物語」とされているというだけの理由になっていて、そのことがレビューを結末まで牽引してしまうのは少し難しいように思います。「期待通りの内容ではなかった」と言うには、期待されてしかるべき理由があるという理由をもう少し積み上げる必要があるはずです。この作家にとって近作は死を扱うことが多いとか、両作の類似点をあげつらってみるとかして、『私のおわり』と『ジスガルド・デッドエンド』が対になって当然なのだという書き方をするといいかもしれません。いかがでしょうか! ちょっと悩んだのですが、この「期待」を記述してほしかったということで「鉄」にいたしました。

本文はここまでです。