一○年代文化論
一○年代を生きるすべてのひとへ
レビュアー:鳩羽 Warrior
オタクという言葉に、正確にはその使われ方に、長い間違和感があった。「キモい」とセットになるような蔑称のときもあれば、「一般人(パンピー)」とは違うのだという特権意識の現れのときもある「オタク」。
アニメやドラマなら1クール、あるいは年齢を重ねるにしたがって、それまでハマっていた漫画やラノベから自然と離れていく。その流れを選択しないで、好きなものに気持ちを残すのがオタク的といわれる行動なのだろう、と個人的には思っていた。
だからこの『一○年代文化論』が帯に掲げる「残念」の文字に、意味は違うのだけれど、「念が残ること」とでもいうのか、その字面に妙に納得してしまったのだ。
実際、この本で取り上げられる「残念」の思想は、言葉自体が持つ本来のネガティブな意味はそのままに、「残念」な部分がまるで愛すべき短所のように肯定される使用例から抽出されている。
それは芸人のような人間にも使われれば、キャラクターの設定にも使われるし、人格を持たない技術にも使われる。
ここで注意しておくべきところは、残念な部分を、つまり短所を敢えて愛好しているというのが、かつてのオタクらしいスタンスだったと指摘していることで、今の若い人の「残念」の受容の仕方は、そうではないということだ。
十代、二十代、三十代、もしかしたらそれ以上に離れた世代でも、同じポップカルチャーのファンであるということが珍しくない世の中。
つまり同じ作品のファンであっても、ある年齢以上は、キャラクターの残念な部分を「敢えて」愛好していることに酔い、秘めた特権意識を持っている「オタク」かもしれない。
しかし、若者世代にはその「敢えて」感はなく、当然隠そうという感覚もなく、もっとフラットな楽しみ方を享受しているかもしれないのだ。
若者世代じゃないから分からない! とも思ったが、こういう意味での「残念」という言葉。これは私も使う。そういえば他にも似たような用法の言葉は、探してみると結構あるような気がする。
たとえば、「イタい人」というネガティブな言葉は、痛車や痛ネイルという独自のジャンルを生み出したし、それを言うならばゆるキャラの「ゆるい」も、B級グルメの「B級」も、二次創作の「二次」ですら、それほど良い意味ではないだろう。
逆に、「上から目線」への嫌悪感、「タメ口」を推奨する雰囲気をピックアップしてみれば、これは上下関係や階級、ランクが実際にあるにも関わらず、それを忌避しようとする感覚の現れのように見える。
ポップカルチャー自体には、好みもあるし、世代が違えば理解もできないこともある。ただ、言葉の使い方の変化という点を通してなら、誰だって新しい感覚に近づくことができるんじゃないだろうか。
この本からは、世代間の埋まらない溝よりも、そこを繋ぐ架け橋としての言葉の意義を感じるのだ。
この新しい「残念」という使われ方のせいか、残念の検索数が伸び始めた2007年。
アニメにも漫画にもラノベにもさほどのめり込んでこなかった私が、おそらく一番親しんできたポップカルチャーはSound Horizonというアーティストなので、その乏しい経験から振り返ってみると、Sound Horizonにとっても2007年というのはアーティスト自身が残念なところを露わにし始めた年だった。
個人的な経験からで恐縮だが、「残念」でグダグダな部分を晒し始めたかのアーティストは、まずなによりも親しみやすくなり、エンターティナーとして、パフォーマーとして、はたまたプロデューサーとして、豊かなバリエーションをファンに見せるに至った。
それはミクがネギを持ったことと、よく似ていたのかもしれない。それは、世代や好みによってできていた住み分けを、大きく揺るがせる一点だった。
その、かつては短所でしかなかった瑕が、凹凸の役目を果たすようにファンやフォロワーたちをいつの間にか繋げた。このことは、応援してあげたくなるような緩やかな愛着を起こさせ、参加型・体験型のイベントとの相性も良かったのだろうと思う。
何が言いたいのかというと、残念という言葉を、本書でいうような「残念」の意味で使ったことがあるならば、そして使うことに違和感がないのであれば、この文化論は誰にとっても「あるある」という切り口になるはずだということだ。
著者自身は、サブカルチャーを取り上げたこの本での主張が、別に広く受け入れられなくてもいいと考えているようだ。しかし、この切り口を知らずに、今の言葉や時事などのニュースを読み解くことは、もうできないだろう。
現在を生きている人のなかで、ポップカルチャーと全く無縁でいるということの方が難しい。
ただそれは、自分でも気づかないうちに体験し、理解したと思ったときにはもうすり抜けてしまっている。
そのあとに何が残っているのか、それを振り返るのは、少し未来の仕事になるのだろう。
アニメやドラマなら1クール、あるいは年齢を重ねるにしたがって、それまでハマっていた漫画やラノベから自然と離れていく。その流れを選択しないで、好きなものに気持ちを残すのがオタク的といわれる行動なのだろう、と個人的には思っていた。
だからこの『一○年代文化論』が帯に掲げる「残念」の文字に、意味は違うのだけれど、「念が残ること」とでもいうのか、その字面に妙に納得してしまったのだ。
実際、この本で取り上げられる「残念」の思想は、言葉自体が持つ本来のネガティブな意味はそのままに、「残念」な部分がまるで愛すべき短所のように肯定される使用例から抽出されている。
それは芸人のような人間にも使われれば、キャラクターの設定にも使われるし、人格を持たない技術にも使われる。
ここで注意しておくべきところは、残念な部分を、つまり短所を敢えて愛好しているというのが、かつてのオタクらしいスタンスだったと指摘していることで、今の若い人の「残念」の受容の仕方は、そうではないということだ。
十代、二十代、三十代、もしかしたらそれ以上に離れた世代でも、同じポップカルチャーのファンであるということが珍しくない世の中。
つまり同じ作品のファンであっても、ある年齢以上は、キャラクターの残念な部分を「敢えて」愛好していることに酔い、秘めた特権意識を持っている「オタク」かもしれない。
しかし、若者世代にはその「敢えて」感はなく、当然隠そうという感覚もなく、もっとフラットな楽しみ方を享受しているかもしれないのだ。
若者世代じゃないから分からない! とも思ったが、こういう意味での「残念」という言葉。これは私も使う。そういえば他にも似たような用法の言葉は、探してみると結構あるような気がする。
たとえば、「イタい人」というネガティブな言葉は、痛車や痛ネイルという独自のジャンルを生み出したし、それを言うならばゆるキャラの「ゆるい」も、B級グルメの「B級」も、二次創作の「二次」ですら、それほど良い意味ではないだろう。
逆に、「上から目線」への嫌悪感、「タメ口」を推奨する雰囲気をピックアップしてみれば、これは上下関係や階級、ランクが実際にあるにも関わらず、それを忌避しようとする感覚の現れのように見える。
ポップカルチャー自体には、好みもあるし、世代が違えば理解もできないこともある。ただ、言葉の使い方の変化という点を通してなら、誰だって新しい感覚に近づくことができるんじゃないだろうか。
この本からは、世代間の埋まらない溝よりも、そこを繋ぐ架け橋としての言葉の意義を感じるのだ。
この新しい「残念」という使われ方のせいか、残念の検索数が伸び始めた2007年。
アニメにも漫画にもラノベにもさほどのめり込んでこなかった私が、おそらく一番親しんできたポップカルチャーはSound Horizonというアーティストなので、その乏しい経験から振り返ってみると、Sound Horizonにとっても2007年というのはアーティスト自身が残念なところを露わにし始めた年だった。
個人的な経験からで恐縮だが、「残念」でグダグダな部分を晒し始めたかのアーティストは、まずなによりも親しみやすくなり、エンターティナーとして、パフォーマーとして、はたまたプロデューサーとして、豊かなバリエーションをファンに見せるに至った。
それはミクがネギを持ったことと、よく似ていたのかもしれない。それは、世代や好みによってできていた住み分けを、大きく揺るがせる一点だった。
その、かつては短所でしかなかった瑕が、凹凸の役目を果たすようにファンやフォロワーたちをいつの間にか繋げた。このことは、応援してあげたくなるような緩やかな愛着を起こさせ、参加型・体験型のイベントとの相性も良かったのだろうと思う。
何が言いたいのかというと、残念という言葉を、本書でいうような「残念」の意味で使ったことがあるならば、そして使うことに違和感がないのであれば、この文化論は誰にとっても「あるある」という切り口になるはずだということだ。
著者自身は、サブカルチャーを取り上げたこの本での主張が、別に広く受け入れられなくてもいいと考えているようだ。しかし、この切り口を知らずに、今の言葉や時事などのニュースを読み解くことは、もうできないだろう。
現在を生きている人のなかで、ポップカルチャーと全く無縁でいるということの方が難しい。
ただそれは、自分でも気づかないうちに体験し、理解したと思ったときにはもうすり抜けてしまっている。
そのあとに何が残っているのか、それを振り返るのは、少し未来の仕事になるのだろう。