ならないリプライ
私はいまリプライをならす
レビュアー:横浜県 Adept
『ならないリプライ』とは、主人公の「僕」が『ならせなかったリプライ』のことです。
後輩のNちゃんは「僕」に告白をします。鐘を「小槌で叩いた」ように。
でも「僕」は返事をかえすことができませんでした。Nちゃんが死んでしまったからです。叩かれた鐘は、音をならさなかったのです。
そんな彼らを私は可哀想だと思いました。
伝えるべき言葉を口にできなかった「僕」と、返事を聴くことができなかったNちゃん。2人を襲った永遠の別れは、余りにも無情です。
ただ両者の間には、決定的な違いが横たわっています。
「僕」には救いがあり、Nちゃんにはないからです。
その起因するところは明確であり、生きているのか、死んでいるのか、の違いであります。
Nちゃんは死んでいます。もうどうしようもありません。
一方で「僕」には、生きている限り次のチャンスがあります。
作品の中でも学生にケンカを売り、「それ相応のレスポンス」があったことを、鐘を叩いたらなったことを喜びます。よかったですね。またそれはNちゃんとの一件を反省し悔やむ契機にもなっているのです。
さて私はいま、「僕」に「可哀想」だとか「よかった」だとか、そういった俯瞰的な感想をかけてきました。
でも本作の読者として、それで私は十分なのでしょうか。
『ならないリプライ』はフィクションです。小説です。
「僕」とNちゃんは架空の人物であり、作者が意図的に彼らを動かし、この物語を僕らにみせているのです。
そこには何らかの意図があっても不思議ではありません。
小説では登場人物に具体的な名前を与えないことで、そのキャラクターに普遍性を持たせたり、読者に一体感を与えさせる、ということがあります。
「僕」には一応「健太」という名前があるものの、友人・安立の台詞内にしか出てきません。名前が出てくる以上、本作がそれを狙っているとは言い難いかもしれません。しかし「僕」という人称が強調されることで、そのような効果を持ちうることは事実です。
またここで生死の別が大きな意味を持ってきます。
この物語を読んでいる私は、「僕」と同様に生きています。
死んだNちゃんに自分を投影することはできず、「僕」にのみ重ねてみることができるわけです。
つまるところ読者である私は、俯瞰的に「僕」の失敗と後悔を眺めているだけでは足りないのかもしれません。
作品から目を離して周りを見渡したとき、そこにはならすべきリプライが転がっていないのか。もしあったとして、いまそれを拾い上げなければ、私は「僕」の二の舞になってしまいます。
フィクションから経験則を学び、登場人物の後悔・反省を自らの身に置き換えて考えてみることは、私が同じ過ちを犯さないための有意義な糧となるに違いありません。
せっかく私は、『ならないリプライ』を読むことができたのですから。
「僕」と一緒で、生きているのですから。
この『ならないリプライ』が与えてくれた、いいチャンスだと思って。
忘れたままでいたリプライを、ならしてみようと思います。
後輩のNちゃんは「僕」に告白をします。鐘を「小槌で叩いた」ように。
でも「僕」は返事をかえすことができませんでした。Nちゃんが死んでしまったからです。叩かれた鐘は、音をならさなかったのです。
そんな彼らを私は可哀想だと思いました。
伝えるべき言葉を口にできなかった「僕」と、返事を聴くことができなかったNちゃん。2人を襲った永遠の別れは、余りにも無情です。
ただ両者の間には、決定的な違いが横たわっています。
「僕」には救いがあり、Nちゃんにはないからです。
その起因するところは明確であり、生きているのか、死んでいるのか、の違いであります。
Nちゃんは死んでいます。もうどうしようもありません。
一方で「僕」には、生きている限り次のチャンスがあります。
作品の中でも学生にケンカを売り、「それ相応のレスポンス」があったことを、鐘を叩いたらなったことを喜びます。よかったですね。またそれはNちゃんとの一件を反省し悔やむ契機にもなっているのです。
さて私はいま、「僕」に「可哀想」だとか「よかった」だとか、そういった俯瞰的な感想をかけてきました。
でも本作の読者として、それで私は十分なのでしょうか。
『ならないリプライ』はフィクションです。小説です。
「僕」とNちゃんは架空の人物であり、作者が意図的に彼らを動かし、この物語を僕らにみせているのです。
そこには何らかの意図があっても不思議ではありません。
小説では登場人物に具体的な名前を与えないことで、そのキャラクターに普遍性を持たせたり、読者に一体感を与えさせる、ということがあります。
「僕」には一応「健太」という名前があるものの、友人・安立の台詞内にしか出てきません。名前が出てくる以上、本作がそれを狙っているとは言い難いかもしれません。しかし「僕」という人称が強調されることで、そのような効果を持ちうることは事実です。
またここで生死の別が大きな意味を持ってきます。
この物語を読んでいる私は、「僕」と同様に生きています。
死んだNちゃんに自分を投影することはできず、「僕」にのみ重ねてみることができるわけです。
つまるところ読者である私は、俯瞰的に「僕」の失敗と後悔を眺めているだけでは足りないのかもしれません。
作品から目を離して周りを見渡したとき、そこにはならすべきリプライが転がっていないのか。もしあったとして、いまそれを拾い上げなければ、私は「僕」の二の舞になってしまいます。
フィクションから経験則を学び、登場人物の後悔・反省を自らの身に置き換えて考えてみることは、私が同じ過ちを犯さないための有意義な糧となるに違いありません。
せっかく私は、『ならないリプライ』を読むことができたのですから。
「僕」と一緒で、生きているのですから。
この『ならないリプライ』が与えてくれた、いいチャンスだと思って。
忘れたままでいたリプライを、ならしてみようと思います。