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読者レビュー

銅

『ならないリプライ』他

これはフィクションだけど

レビュアー:yagi_pon Novice

まずは、『ならないリプライ』の話を。

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 それともただ単に、Nちゃんの殺され方がフィクションじみているからリアリティが湧かないだけだろうか。
~~~~~~~~~~~~~~『ならないリプライ』69段落より引用~

物語の中では上記の引用のように、”フィクションじみている殺され方”、そして”漫画みたいな死に方”と、二度にわたって同じような表現が出てくる。物語の中の登場人物は、それこそフィクションの中でしか考えられないような殺され方をする。たしかに、そう言いたくなる気持ちはわかる。ただ、私は同時に違和感も持った。なぜなら、そのような殺され方を私は知っていたからだ。それも、現実の世界で起きた出来事として。
ショッキングな事件だったこともあり、一定の割合の人は知っているだろう。そうした事件をモチーフとして書かれた物語の中で著者は、「これはフィクションだから」とでも言いたげな表現を繰り返す。そうすることでむしろ、「これはフィクションだけど」と主張しているように。「これはフィクションだけど」、現実にはこうしたひどい事件が起こるのだとでも言うように。


思えば私はずっと気になっていたのだ。デビュー作『ブレイク君コア』のあとがきを読んでから。彼があとがきで、あえて分かりやすくは書かないといったことを知りたくて。そしてそれは、”生きている僕は小説を書く”といった彼の小説の中にヒントがあることを信じて。

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 小説を書いた。デビューした。改稿中、東日本大震災が起こった。元から地震の多い地域だし、大した被害はないだろうと高を括っていた。しかし、それは間違いだった。テレビの中の光景はとんでもないことになっていた。たくさんの人が死んだ。実感が湧かなかった。改稿が終わってから帰省した。生きている人はピンピンしていたけれど、景色は滅茶苦茶になっていた。道路の脇に壁のように積まれた瓦礫、そこら中でひしゃげている車、土砂に埋もれた海水浴場。
 友人と港を訪れた。なにをするでもなく話をした。別に地震の話じゃなくて、普通の二十一歳然とした話。ふいに友人が言った。この港でもたくさんの人が死んだ。そういった内容のことを言った。コンクリートの港に打ち上げられた死体を想像した。自分の足元を見た。なにがあるわけでもないけれど、僕は自分の足元を見た。
 そうだ。僕はいつのまにか気づいている。このあとがきでなにを書きたいのか、書きたかったのか、既に僕は気づいている。しかし、あえて分かりやすくは書かない。いや、わかりやすくは書けない。なんというか、噛み砕いたとたんに薄っぺらくて陳腐なものになってしまうのだ。読み取ってくれなんて言わない。ただあなたが読んだように僕は思っている。
 そんな感じであとがきに代えさせていただく。
 生きている僕は小説を書く。
~~~~~~~~~~~~~~~『ブレイク君コア』p303より引用~

『ブレイク君コア』のあとがきの後半部分はこのようになっている。最前線のみで読んだ人がいれば、ぜひとも読んでもらいたい。

これを踏まえたうえで、話を広げていこう。


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 僕が好きになったのは、現実に中指を立ててフィクションじみたノンフィクションを求める浮世離れした墓無美月なのだ。
~~~~~~~~~~~~『夜跳ぶジャンクガール』p239より引用~

これは二作目である『夜跳ぶジャンクガール』からの引用だ。物語の中で主人公は、ヒロインのことをこのように説明しているのだが、また、”フィクションじみた”、である。『ブレイク君コア』でも、同じような”漫画みたいな”、という表現が出てくる。言い訳のように、まるで自虐するように、彼は物語の中でそうした表現を繰り返す。フィクションの中でフィクションじみたことをしていると、わざわざ表現する。そうすることでむしろ、「これはフィクションだけど」と主張しているように。「これはフィクションだけど」、現実にはこうしたひどい事件が起こるのだとでも言うように。

「これはフィクションだけど」、『ならないリプライ』のように殺されてしまった人は実際にいる。「これはフィクションだけど」、『夜跳ぶジャンクガール』のように自殺中継をして死んでしまった人は実際にいる。
”フィクションじみた”殺され方が実際に起きてしまうように、人はときにフィクションよりもひどい死に方をしてしまうことだってある。そんなことを言葉にしてしまっては彼のいうように陳腐になってしまうけれど。また逆に、フィクションのようにあっけなく死んでしまうこともある。それこそ、津波に飲み込まれてしまった人たちのように。そのように言ってしまっては余計に陳腐になってしまうけれども。

「これはフィクションだけど」の先を口すれば、それは陳腐なものになってしまう。著者がそこまで答えを用意してしまえば、それこそ薄っぺらいものにしかならない。私一人が考えても結局、陳腐で薄っぺらいものにしかならない。それでも、一人一人が考えれば、それは薄っぺらくなんかはない。
彼はきっと、あとがきでだって伝えたいことはわかりやすく書かないだろうし、物語の中でにもわかりやすくは書かないだろう。読んだ人が答えを出すことはできても、正解はない。もしかしたら変わることだってあるかもしれないけれど、私の中での答えはひとまずこのレビューに書いたとおりだ。
物語は彼が作ってくれる。きっとフィクションじみた物語だ。たぶん、人が死ぬ。そして私はこれからも考える。「これはフィクションだけど」のその先を。

最前線で『ブレイク君コア』を読む

2012.04.02

さやわか
「フィクションじみた」というのは、小泉陽一朗の作品について考える上ではかなりいいポイントに迫っているように思います。文章としてはまとまり切っていないところがあります。しかし複数の作品を詳らかに読み、具体的に言葉を参照しながら作者の意図するところをつかもうとする試みは、少なくとも書き手の裡ではうまくいっているように思いました。今回は「銅」にいたしましょう。しかし他の作品についてもこのような読みがなされるようになると、必ずやレビューの書き方は広がるものと思います。

本文はここまでです。