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「物語の体操」のレビュー

銅

物語の体操 大塚英志

語り騙られ

レビュアー:鳩羽 WarriorWarrior

 文体だとかオリジナリティだとかくそくらえ! とまでは言わないが、かなり実践的で作業的な部分に焦点をあてた小説のつくり方の本だ。
 何枚かの絵を使って、子供は自由に「おはなし」らしきものを語ることができる。つまり、本来誰にだって物語る能力はあるのだ。それはほかの童話の真似っこだったり、終わりのない「ごっこ遊び」だったり、よく知らない世界のルールを把握していくための自分なりに納得していく方法だったりする。
 その「おはなし」らしきものを、とりあえず破綻なく完結させるところまでを目的とした本だが、プロット100本や漫画のノベライズといった実際の講義で出された課題があるので、小説を書きたい人は素直にこの課題に取り組んでみるといいと思う。
 特に、自分にしか表現できない芸術/エンタメ性だとか、個性的なものを追求して行き詰まっている人にこそ、これらの技術的な、目に見えるタイプの修練は役立つだろう。

 それとは別に、小説を書く、物語をつくるとはどういうことか、考えさせられる本でもあった。
 日本の近代小説の歴史における「私小説」、それは「私」という一人称で書かれていても小説という仮構の中での「私」であり、作者とは別の存在であるというのが一般的な理解だった。けれど、仮構の「私」=作者であるような文脈に依拠する作品群が多いのもまた事実で、その是非はともかく、その小説の外にあるはずの作者の物語性が、作品になんらかのベクトルを付与してしまうのはなにも小説に限ったことではない。
 このことからも、同時代性というステージの上で様々な組み合わせから作られるキャラクター小説と呼ばれるものが、特に作り手と受け手の境界を曖昧にするのもよく分かる。作中のリアリティを作者にひもづけず、作者の存在と作品を分断することで、作品は作者だけのものではなくなるからだ。
 この方向に進んでいった作り手と受け手が一致する物語、つまり自分で創作し自分で消費するタイプの物語のあり方は、子供の頃に誰しもが持っていたという物語る能力の現れ方に近いように思える。モノや動物を擬人化し、どこかで知ったようなストーリーを模倣して、自分が飽きるまで延々とスピンオフを続けることができる。
 通過儀礼がなく、成長物語である教養小説がないときに、それでも成長し大人になろうとするならば、こういう自作自演の物語を語ることには大きな意味がある。小説を書こうと思っていなくても、物語を読んだり書いたりして落としどころを見つけて完結させるという構造は、安堵感と共に不思議な力を与えてくれるからだ。
 と、同時に、もちろん娯楽として単におもしろいことでもある。

 小説の二つの系譜が今後混じりあっていくのか、断固として文学は孤高の道を行こうとするのかは分からない。ただ小説を書くにあたって、どちらのものを書いていくのか、どういう位置づけの小説を書いているのか、少なくとも小説家を目指している人は知っていることが大事だと結ばれている。
 物語をつくる能力や技術が求められる世の中に思いを馳せると、その質を見抜く目を養うことは、作り手だろうと受け手だろうと関係なく怠ってはならないことなのだなと思わされる。

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2014.02.25


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