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レビュアー「zonby」のレビュー

銅

僕は写真の楽しさを全力で伝えたい!

写真の向こう側から感じること

レビュアー:zonby Adept

私はどちらかというと写真を撮らない人だ。
旅行にカメラを持っていっても、数枚撮れば良い方で、どうかするとその数枚すら撮らない時もある。
しかも、撮影している物も観光地らしい風景や人物などではなく、移動中の駅の様子や電光掲示板。ホテルの内装。自分の足元だったりするので、旅行の楽しい記録を期待して見た人には、とても不評である。
今スマートフォンの中の写真を確認したが、そこも似たような有様でがっかりした。
月1で撮っている部屋の写真と、仕事で使った写真ぐらいしか入っていない。
私だって、もう少し気の効いた写真が撮りたいと思わないでもない。しかし、そう思って真剣に写真を撮ろうとすればするほど、構図や陰影や距離が気になってしまい、カメラを持っているだけで気持ちが疲れてしまうのだ。
もっと気楽に写真を楽しめるようになりたい。
そんな思いで、本書を手にとった。

著者がいかにして写真に辿り着き、写真で生きていこうと思ったのかが書かれている「自分史」。実際に写真をどう撮っていったら良いのかが書かれる「授業」。そして、著者が学生時代から撮っている写真。この三つの要素で、本書は構成されている。
読み進めていく内に、それらは独立した要素ではなくすべてが密接に関連し、繋がっていると分かるだろう。
著者は、十代の「空っぽ」だった自分を語る。写真との出会い、自分を変えるための決意を語る。それと同時に、写真には撮影する人の「視点」が写り、自分の「眼の癖」を分析することで、自分らしい写真が撮れるようになると説明する。
それは、きっと著者が辿った道筋なのだろうな、と思った。
掲載されている写真を年代別に見てみると、それはより顕著だ。
人見知りだった頃の写真は、風景やモノが多く、人物は控えめに距離を置いて撮影されている。しかし最近の作品になるにつれ、写真の中の人達との距離感がぐっと近くなっているのを感じた。女の子のリラックスした表情やポーズ。こちらを真っ直ぐに見つめてくる強い視線を通して、撮影者である著者が、写真を撮ることを心底楽しんでいるのが窺える。
写真に写る彼らの姿そのものが、著者の歩んできた人生を、著者が写真に傾ける情熱を証明しているのだ。

本を読み終わった後に思ったのは、自分は写真に対していろいろ難しく考えすぎていたのかもしれないな、ということだった。
本から伝わってくるのは、写真を撮るのがひたすらに「楽しい!」という気持ちと、どんな面白いことができるのかというわくわく感。そして、何か特別な物を撮るのではなく、貴方はどう世界を見ている?どう切り取る?という問いかけだ。
その問いに応えるには、私もシャッターを切ってみるしかないのだろう。

私が難しく考えていた構図や、陰影や、距離なんて、まずはシャッターを押してみてからで良いのだ。

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2014.06.18

銅

1999年のゲーム・キッズ

追いかけてきた未来

レビュアー:zonby Adept

1999年。
当時小学生だった私の周辺にあるものは、極めてローテクなものばかりだった。
一家に一台すらパソコンがなかったし、携帯電話は親も持っていなかった。電話はいわゆる黒電というやつで、友人の電話番号が書かれた紙の握り締めながら、毎回ジーゴロジーゴロやっていた。更に言うと、お風呂も薪に火をつけて沸かしていたし、洗濯機は二層式、トイレは汲み取り式だった。ゲームといえば、ハード自体がそんなにないし、子供だったのでたくさんは買えない。多くの小学生がそうであったように、私もまたスーパーファミコンとゲームボーイに魅了されていた子供の一人であった。今見ると、驚くくらい粗いドットで表現される世界に私達はみな熱狂した。

あれから15年。

私は自分だけのパソコンを持つようになり、もちろんインターネットにも接続した。携帯電話はふたつ折りのものから、全体が液晶画面になったものに変わり、ボタン式の時からは考えられない指の動きで操作ができる。黒電はなくなり、お風呂は自動で沸かせるようになったし、トイレなんて自動で流すどころか人の気配を感知して勝手に開くようにさえなった。15年の間にゲームのハードは数え切れないほどでたし、ソフトもたくさんあるが、わざわざ買わなくても無料でできるオンラインゲームがやりきれないほどある。
そうして、私は一冊の本を読んでいる。
かすかな居心地の悪さと、自分が今どこの時間軸にいるのか、時々分からなくなるような感覚を覚えながら。

「1999年のゲーム・キッズ」はファミ通で連載され、1994年には既にアスペクトで単行本化していた。その後、再編集を経て1997年に幻冬舎文庫より刊行。更に改稿を経て2012年、星海社から決定版として「復刻」された。
その復刻に一体どんな意味があったのかは、1999年に生き、その後の世界の技術変化を身をもって体験してきた人すべてに理解してもらえることと思う。
「コンピューターウイルス」「デジタルノベル」「ゴーグルテレビ」…1999年というあの頃、現実的というよりはむしろどこかSF的な響きを持って語られていた物や、技術をキーワードにショートショートが詰め込まれている。
読み心地は軽く、また一篇一篇は短いながら毒のある捻りが効いていて、テンポ良く読めることだろう。登場人物達は憧れの新技術が開発された世界に生きながら、それら新技術の落とし穴に嵌まったり、技術が発達したが故の矛盾に直面する。すべてのエピソードには、単に技術の発展に対する憧れだけではなく、それ扱う人間のエゴ。どんなに世の中が発展しても変わらない、人間のいやらしさのようなものが新技術という強烈な光に対する影のように描かれる。その対比がエピソードをより立体的なものにしており、一気に読み切ってしまうくらい面白い本だった。

だというのに、なぜ私はこの本に「かすかな居心地の悪さ」と「自分がどこの時間軸にいるのか、時々分からなくなる感覚」を覚えたのだろう。

答えは、多分「復刻」にあると思う。
改稿がなされているとはいえ、ベースとなる物語は15年前にもう完成しているのだ。私がスーパーファミコンに興じ、薪に火をつけてお風呂を沸かしている時分に、作者である渡辺浩弐はこの世界観を視ていた。
そして15年のタイムラグが奇妙なシンクロを生み出している。
過去に書かれたはず物語が虚構だけでは終わらず、現実の、私が生きている現在に重なってくるのだ。過去に想像と予測だけで書かれたとは思えないほどの具体性で、登場人物達が陥る恐慌は、明日私が陥るかもしれない恐慌で、もう既に起こっているかもしれない恐怖なのだ。
例えば「第六話 高校教師  KEYWORD★ウェアラブルコンピュター」は小型化の一途をたどったコンピューターでカンニングをする生徒と、それに悩む教師の話である。
これを読んで、数年前に起こったカンニング事件を喚起しない者はいまい。
例えば、「第24話 プラチナ・チケット KEYWORD★バーチャルスポーツ」。超小型カメラが発達し、アスリート達がそれをつけて試合に出るようになった世界。人々は実際にスポーツをせずとも、迫力のある映像で、選手の視点を疑似体験できるようになった。スポーツをする必要性がなくなった世界に、本当にプロスポーツ選手は実在するのか?そんな疑問を持った主人公は、倍率一千倍の観戦チケットを手に入れるが…。
これを読んで思い出されるのは、YouTubeやニコニコ動画などの動画配信サイトの存在である。皆、自分の目以外に、他人の目をシェアし映像を共有している。Google Earthを使えば、地球の裏側だって見ることができるが、それが本物だとどうして無条件に信じられるのだろう。
一つ一つのエピソードが現実の体験に重なる度、私は今読んでいるのが本当に15年前に書かれた虚構なのか、信じられなくなってゆく。この本において、15年という時間の流れは逆行せず、むしろ更に先へと向かっているような気がしてくるので、うすら寒い気持ちにさえなってしまう。

「1999年のゲーム・キッズ」を読み終えた後、自分の周りをよく見渡して欲しい。
ここは、15年前に想像された未来なのだろうか、と。
読んだ内容を、よおく思い出して欲しい。
渡辺浩弐の創造した虚構は、一体どこまで追いかけてきている?
一体、どこまで追いつかれていない?
そして、自分のいる時間軸を、再度確認することをおすすめする。
油断すれば過去に追い越される。怯めば未来に置いていかれる。
立ち止まることはできない。

次の15年…いや1000年は、もう始まっているのだから。

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2014.03.27

銀

壜詰病院

音楽のように読む小説

レビュアー:zonby Adept

目を使って小説を読むということは、もう長い間続けてきたのだけれど、耳を使って小説を読むというのは初めてで、例えるならそれは、耳の中にとろとろと水のような、しかし水ではない何かもっと濃密で複雑な液体を少しずつ流し込んでゆくような感覚だった。
佐藤友哉が紡ぐ「壜詰病院」という源液を、朗読者である古木のぞみの透明感があり、どこかイノセントな印象を持つ声で希釈する。そこにピアノの旋律と赤ん坊の鳴き声を加えて、その液体は出来上がっている。
イヤフォンから流れ出したそれは、何の抵抗もなく鼓膜をすり抜け脳内に侵入し、拡散する。
物語は頭の中で活字に姿を変え、映像に姿を変え、驚くほど鮮やかなイメージを炸裂させながら駆け抜けていった。それはとても足が早い。
夢から醒めたような心地でイヤフォンを外し、たった今聞いたばかりの物語を反復しようと試みるのだけれど、浮かんでくるのは断片的なイメージや台詞。ぼんやりとした全体的な雰囲気などだけで、一本のまとまりのあるストーリーを思い描くことはどうしてもできなかった。

それに気づいた時、実はちょっとショックだった。

本を読む時、読み終わってから思い出せないような読み方をしたことはない。読んだからにはストーリーを覚えていたいと思うし、人物の感情の機微や仕掛けを把握しておきたいと思う。
「壜詰病院」だって同じだ。「耳で読む」という方法が違うだけで、自分なりに真剣に「読んだ」つもりだったからだ。
耳から物語や世界観が入ってくるという読み方に慣れていないせいだからだろうか?と考えた。
ならば、慣れるように流したままにしてみよう。とループに設定し、再生をクリック。

…。
ループした具体的な回数など覚えていない。
最初は集中し、文章の一言一句を覚えようとするかのようにじっと座って聞いていたのだが、段々それにも耐えられなくなり、違う作業をしながら聞き出していたからだ。
相変わらず、ストーリーはうまく覚えられないままだったが、しかし明確に変化した点はあった。
一言で言うと、馴染んだのだ。
馴染んだ。
染み込んだ。
スポンジに水を垂らす様を思い浮かべて欲しい。乾いたスポンジに水を垂らしても、最初の一滴は染み込むばかりか弾かれてしまうだろう。だが、一度表面に染み込み、道筋ができると面白いように水を吸い込むようになる。私の頭に起こったことも、それと似ている。
一度よりも二度。二度よりも三度。三度よりも四度と聞いていく内に、私の頭の中には道筋ができ、「壜詰病院」が流れる度に、その道筋は太く広くなり、流れる情報を量も増えてゆく。
やがて頭の中が物語の雰囲気や空気で飽和し、最初とは比べ物にならないくらいの愛着が生まれているのを確認するのだ。
そうやって作品を自分の中に取り込む、馴染んでゆく様は過程は音楽を聞くことに似ているかもしれない、と感じた。
好きなアーティストの新曲が出た時、一回聞いただけでは勿論、覚えられない。しかし何度も繰り返し聞く内に、いつの間にか曲に合わせて口ずさめるようになっている自分に気付くだろう。
寄り添うように、ごく自然に、外側からきたはずのそれが、いつしか内側のものになっているという感覚。
物語を頭で理解するというよりも、身体で理解すると表現できるような感覚は、私にとって初めてのものだった。

私が今までしてきた読書とは随分方法が違うけれど、これが「壜詰病院」という耳で読む小説の一つの読み方なのかもしれない。
何度も繰り返す、というのが大きなポイントだ。
一度に全部を理解しようなんて身構えなくても良い。
物語に、朗読の声に身を委ね、受け入れて揺蕩うだけで良いのだ。
音楽を聞くように、読めば良いのだ。
そうすればいつの間にか、遠そうに見えた距離は縮まり
きっと貴方は

「壜詰病院」の中に流れ着く。

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2014.03.27

銀

「サエズリ図書館のワルツさん」

携帯図書館

レビュアー:zonby Adept

携帯できる、図書館みたいな本だな、と思う。
「サエズリ図書館のワルツさん」は。
本の中に、本物の図書館みたいに莫大な知識や空間がある訳ではない。
中にあるのは活字と物語とイラスト。見た目は他の本となんにも変わらない。
それでも、私は本棚の中に、鞄の中に、手の中にこの本を持つ時、図書館の中にいるような気分になる。
それはきっとこの本には図書館の空気や雰囲気、本と本に関わるすべての人たちの息遣いが、丁寧に凝縮されているからだ。
本を守る人。本に救われる人。本を渡す人。本を愛する人。それに、本を傷つける人。立場も関わり方も違うけれど、その間には必ず本があって、人を繋いでいる。
世界に一冊しかない本も、もう存在しない本もどんなに高価な本も、「サエズリ図書館」では同じ本だ。それを扱う人間だけがその周囲で本の持つ「価値」や「意味」について、様々な意見をもっている。

本について語る時の彼らのことを、とても愛おしく感じる。
物語の筋だけが重要であったなら、「図書館みたいな本」とは感じなかったはずだ。バトルも、推理も、怪異も、一度タネが分かってしまうと何度も楽しむことは難しい。しかし本書で描かれるのは、本さえあれば自分にも起こりそうな人とのささやかな関係や、気持ちの変化である。読む度に、私は本を巡るいろいろな立場の人になり、「サエズリ図書館」を訪れる。

私は図書館が好きで、本のある空間が好きで、静かな雰囲気が好きだ。
何か分からないことがあって困っていても、図書館の本棚を見ているととても安心する。だってこんなに本があるのだ。大丈夫。悲しいことがあっても、図書館に行く。図書館でなら、丁度良い距離感でさびしくなれる。本を一冊とってめくれば、一人だ。そして本を読んでいる一人の人は、図書館にたくさんいる。みんな一人だけれど、一人じゃない。
「サエズリ図書館」も、そんなところだといいな、と思っている。
本がたくさんあって、静かで、少しさびしい。
そんなところ。

私は今日も、本棚に、鞄の中に、手の中に「サエズリ図書館のワルツさん」を携帯する。
大丈夫。
ここには、本がある。

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2014.02.25


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