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レビュアー「zonby」のレビュー

銅

「ジスカルド・デッドエンド」

たった一つの我儘な死に方

レビュアー:zonby Adept

何かを生み出すことには、それがどんなものであったにしろ責任がともなう。
それは生命ではないのかもしれない。
それはただの妄想や空想なのかもしれない。
けれど、それらは貴方が生み出した時点で、貴方に責任があるのだ。

この物語は、あらゆるものを創作するジスカルドというクリエイターと、
彼を尊敬し、そこに集った人達の物語だ。
そしてジスカルドの現実を超えた自殺の物語でもある。

ジスカルド。
彼が生み出した無数のキャラクターたちは
彼を守ろうとしたし、同時に殺そうともした。
ゲームの世界のキャラクターなので、派手なバトルシーンや
特殊な能力を駆使したりもする。
けれど私にとっては
そんなこと
どうでもよかったのだ。

ジスカルドを尊敬する、語り手:デイジーや9000、イリヤがどうなろうとどんな判断をしようと、本当にどうでもよかったのだ。

ジスカルドは自分勝手だ。
自分の作ったものを、愛してくれる人たちがいる。
(でもその事実は死にたい気持ちを抑制はするが、本質的には作用しない)
自分以外の誰かを巻き込み、心配させ、自分の作り出したキャラクターさえ困惑させる。
何かを生み出すことには責任がともなう、と最初に書いた。
自殺もそうだ。
自分の死の責任は、自分で負わなくてはならないと私は思う。
だから、責任を放棄し死に傾いた彼を、私は酷く自分勝手だと思う。
誰か―それは自分で作り上げた現実に存在しないキャラクターだ―に殺してもらうことで
責任を放棄した彼を、酷く傲慢だと思う。

―――でも。
ただ、羨ましいと思った。
思ってしまったのも事実だ。
ジスカルドを。
自分の作ったものに生かされ。
殺される彼を。
自ら作り上げた世界に、殺される彼を。

もう一度は読みたくない。
だって、私は「生きたい」という気持ちを担うデイジーではなく
「死にたい」と想うジスカルドに
同調してしまうのだもの。

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2013.05.29

銅

きぬてんさんの絵

躍動する異空間の魅力

レビュアー:zonby Adept

「ブレイク君コア」続く「夜跳ぶジャンクガール」を彩るきぬてんさんの絵が好きだ。
さらに正確に言うと、人物を中心として背景に広がる、空間の描き方が異様に好きだ。
人物、に関して私はさほど魅力を感じていない。
人物から沸き上がるように描かれる絵ー否、異空間とでも呼ぶべき背景の方が、よほどその描かれたキャラクターを表しているように感じられる。

縦横無尽に引かれた線が形作る画面。
何かの建築物や物をモチーフにしているが、それらを描き出す線は途中でそれらを形作ることに飽きてしまった、とでも言うかのように、ひょい、と違うところに走り出す。
重力さえも、その世界では法則を失う。
天が地に。地が天に。
浮かばないはずの物が中空に浮かび、おかしな浮遊感と躍動感を生み出す。
線に限らず、色も自由奔放だ。
彩度の高いポップな色調。
様々な色が使われるが、それらは不思議と統一感を持って画面を構成している。
下地の白でさえも画面の中では意味を持ち、一つの「色」として機能しているのが分かる。
普通に考えて色のあるべき場所、という概念は意味をなさない。

緻密、という意味では美しくないだろう。
無秩序、というほど滅茶苦茶でもない。
落書きみたいな、と言うと軽くとらえているように聞こえるが、落書きで絵を描いていないことは絵を見れば分かる。
絵を見ながらこれを書いているが、正確にとらえようとすればするほど、何故だかするすると逃げられてしまうような感覚に陥ってしまう。

何故、こんなに惹かれるのだろう?
それはひとえに、自分では描くことのできない世界をきぬてんさんが描いているからだと思う。
きぬてんさんの絵は、線も色も本人にしかコントロールできない絶妙なバランス感覚のうえで成り立っている、と私は思うのだ。
白紙に色鉛筆。
さあ、自由にやっていいよ。
というのは、自由にやれるように思えて中々自由にはできないものだ。
人を描けばちゃんとデッサンをとってしまうし、紙の中に重力はないと知りつつも、雲は空に木は地面に描いてしまう。
無理にそれを覆すことはできるが、常識や知識が邪魔をする。
結果、どことなくぎこちない。悪く言えばあざとい感じになってしまうのは私も経験があるところだ。
意識的に、でも無意識に、というのは何度やったって難しい。
おそらく、であるが。
きぬてんさんは、それができる人なのだろう。
意識的に、無意識に。
卓越したバランス感覚でもって、白紙の中のルールを決め、世界を描き出す。
軽々と飛び越えているように。
魅せる。

「ブレイク君コア」「夜跳ぶジャンクガール」ときて、その世界のルールにより磨きがかかったようだ。
次にどんな異空間を魅せてくれるのか、どれだけ軽々と常識を飛び越え、白紙の中で遊んでくれるのか。
私は今からどきどきしている。

最前線で『ブレイク君コア』を読む

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2012.06.08

銀

白貌の伝道師

暗い欲望の踊り子

レビュアー:zonby Adept

何も考えず、己の自我を捨てて、ただ自分を必要としてくれる唯一の主人のためだけにぬかづきたい。
圧倒的な誰かの道具に、できることなら優秀な道具に成り果ててしまいたい。

「白貌の伝道師」は私にとってそんな暗い欲望を掻き立てさせられる小説だった。
人とエルフの混血であったがために、人にもエルフにもうとまれた少女・アルシア。
彼女は物語の全般に渡って陵辱され、打ち捨てられ、隷属させられ、幾重にも心を踏みにじられる。
彼女を通して物語を見ると、その世界はせせこましくあまりに理不尽だ。
彼女に流れる血の半分であるエルフという種族。
彼等は森と共に生き、優美で高潔な存在であるが、仲間以外のものには非情なほど排他的だ。アルシアの親のどちらかはエルフであるという事実を知りつつ、彼等はアルシアの存在を無視しようとする。
もう半分の血である人間という種族。
彼等は時にエルフにとって良き友にもなりえるが、人間によっては利己的で暴力的で、嘘もつくし殺しを厭わない者もいる。こちらは物珍しさからアルシアを徹底的に傷つける。
両者の血が身体に流れているのに、両方の種族に心も身体も蹂躙される。
傷だらけで痛いばかりの身体。
喪うばかりで空虚な心。
二つの種族の間に放り出され、頼る縁もない。
そんな時に目の前に現れ、自分を美しいと言ったラゼィルは、蔑まれ続ける人生を送ったアルシアにとって奇妙であり、同時に今まで誰からも必要とされなかった故に貴重な人物であったのだと思う。
やがて唯一無二の、掛け値ない主となることは、その時はまだ分からなかったとしても。

アルシアが至った結末は、見方によっては悲惨だともとれるだろう。
いや、悲惨なのだろう。
物語の最初から最後まで、蔑まれ、騙され、貶められ、拒絶されて最後には心ない殺戮人形になってしまうのだから。
だが、私にとってはハッピーエンド以外の何ものでもない。
アルシアにとっては、それがハッピーエンドかすら、どうでも良いことだろう。
自我を捨て、過去を忘れ、感情を殺し、意味を放棄した彼女にはもう、幸せが何かすら分からないのだから。

自我を捨てること。
過去を忘れ去ること。
感情を殺すこと。
意味を放棄すること。
それらは普通、望まないことだ。
望む以前に生きている限り無理なことであるし、それらを本当に実行してしまったら現実には生きられない。
だから私はそれらをしないし、できない。
けれど、それらに強烈に憧れる瞬間があるのも事実だ。
悲しいことや、辛いこと、虚しいこと。生きているとそんな事柄に嫌が応にもぶつかってしまう。
そんな時、自我をもっていることが煩わしく感じられる時もあるし、今まで重ねてきた過去を全部捨て去りたい気持ちにもなる。悲しくて心が痛むなら感情なんていらない、意味なんて理解もしたくないと思う時だってある。
悲しいことを悲しいと。
辛いことを辛いと。
虚しいことを虚しいとさえ感じることを忘れて、命令に従いたい。支配されてしまいたい。
唯一無二の、我が主に。
そう、思うことないと私は言い切れない。
けれど、現実に生きている私は自分で考え、過去を積み重ね、泣いて時には笑い。いろいろな意味を解釈して咀嚼しながら、日々を生きてゆく。
唯一無二の主に出会うこともなく、その足元にぬかづくこともないまま。
心ない人形には、なれないのだから。
例えそんな存在に、憧れることがあったとしても。

でも、大丈夫だ。
私は「白貌の伝道師」と出逢った。
悲しい時や辛い時、これからはきっとアルシアが、死せる少女の踊り子・バイラリナが私を慰めてくれるだろう。
炎の燃えさかる森の中、巨大な鉈と惨劇を踊りながら。
私の暗い欲望をその身で体現しながら。
痛みも辛さもないかわりに、幸せかどうかもわからない、その安寧の居場所で。

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2012.05.18

銅

レッドドラゴン

求めよ、さらば与えられん。

レビュアー:zonby Adept

それは予期せず。
そして一瞬の出来事だった。
予告はされていた。
けれども私のTV環境では、見ることなどないと思っていた。

CM。
番組の合間に流される、告知や宣伝の役割を持つ映像。

『革命、開幕。』
その言葉と共に、それはあまりに唐突に。
まるでわざと置いてけぼりを食らわせるかのように、明朗な英語で始まる
闘いのリングにあがる選手を呼ぶ時のような、次々とコールされる名前と、画面一杯に広がるキャラクターの映像。
呼ばれたその名前が誰であるのか、一体何のCMであるのか。
それを理解するより早く、「考えるな、感じろ!」とでも言うように画面は次々と切り替わり、≪闘い≫のイメージをちぎりとるように投げつけてくる。
大きく表示される「RED DRAGON(レッドドラゴン)」というタイトル。
映画の予告編を彷彿とさせる音楽のフェードアウトと共に聞こえる「SAIZENSEN」の言葉。
最後にしてやったり、とでも言いたげな涼しげな佇まいで映る青い星を波が横切るような形のロゴマークと、「星海社」の文字。

「なんじゃこりぁああああああ!!こう来たかぁああああああ!!」

…と、事前の予告を知っていた私でさえそう思ったのだから、予告もなしにこのCM見た人は私の数十倍。

「なんじゃこりぁああああああ!!」

と、なり。

「…っていうか星海社ってなんじゃぁああああ!!」

と、なったに違いない。

一夜限りで星海社が行なったロールプレイングフィクション『レッドドラゴン』CM放送。
その事実は、いろいろな意味で新鮮であり、実験的であり、出版社が通常行うアプローチとしてはかなり冒険的なものだったと思う。
一夜限り!
(基本的に)予告なし!
字幕があったとはいえ、日本人が日本で見るTVに英語を使用!
その上、一夜限りで終わらせるにはもったいないくらいのクオリティ!

普通見かける、洗剤の「この洗剤を使うと汚れがこんなに落ちますよ~」。食べ物の「これを食べると体にこんな良いことがありますよ~」。あるいは「こんな危険はあるので気をつけて下さいね~」。
というものすごくわかりやすいメッセージ性が、『レッドドラゴン』のCMにはなかった。
ひたすらになかった。
ただ何か凄いことが始まりそうな予感と、自分は今何か凄いものを見てしまったんじゃないか、という理屈のわからない興奮だけは確実に見た人にぶつけたとは思う。

そう。
『レッドドラゴン』CM放送は、まるで通り魔のようで。かつ暴力的だった。
英語は簡単に理解されることを拒むようであり、次々と移り変わるイメージはボクシングのジャブのように、頭の中をシェイクする。
やっとシェイクされた脳細胞が、CMを理解しようとする頃にはCM自体が終わり。終盤にかけて見え、聞こえた「レッドドラゴン」「最前線」「星海社」という言葉が残響として残像として残る。
今のCMは何のCMだったのか。
何を伝えたかったのか。
何が始まるのか。
それらを差し置いて、最後にえも知れぬ興奮が先に生まれる。

人に理解されるものを作ることは重要だ。
言いたいことがすぐに分かってもらえた方が、両者にとって利点は多い。
しかし星海社が出してきたCMは、明らかに両者にとって利点ばかりが多いとはいえない作りである。
「なんだったんだろう」で済まされるかもしれない。
「わけがわからない」と言われるかもしれない。
けれど、このCMは最後に残る謎の興奮のありかを突き止めようとする者には、惜しまず『レッドドラゴン』への道を示す作りにはなっている。
興奮の源を自ら探求する者にだけ、『レッドドラゴン』に辿り着けるCMという名の扉なのだ。

これからもそんな
「なんじゃこりぁああああああ!!こう来たかぁああああああ!!」
と。
澄まし顔で現れる、ロゴマークと「星海社」の文字に、私は期待しています。

最前線で『レッドドラゴン』を読む

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2012.04.02


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