1999年のゲーム・キッズ
追いかけてきた未来
レビュアー:zonby
1999年。
当時小学生だった私の周辺にあるものは、極めてローテクなものばかりだった。
一家に一台すらパソコンがなかったし、携帯電話は親も持っていなかった。電話はいわゆる黒電というやつで、友人の電話番号が書かれた紙の握り締めながら、毎回ジーゴロジーゴロやっていた。更に言うと、お風呂も薪に火をつけて沸かしていたし、洗濯機は二層式、トイレは汲み取り式だった。ゲームといえば、ハード自体がそんなにないし、子供だったのでたくさんは買えない。多くの小学生がそうであったように、私もまたスーパーファミコンとゲームボーイに魅了されていた子供の一人であった。今見ると、驚くくらい粗いドットで表現される世界に私達はみな熱狂した。
あれから15年。
私は自分だけのパソコンを持つようになり、もちろんインターネットにも接続した。携帯電話はふたつ折りのものから、全体が液晶画面になったものに変わり、ボタン式の時からは考えられない指の動きで操作ができる。黒電はなくなり、お風呂は自動で沸かせるようになったし、トイレなんて自動で流すどころか人の気配を感知して勝手に開くようにさえなった。15年の間にゲームのハードは数え切れないほどでたし、ソフトもたくさんあるが、わざわざ買わなくても無料でできるオンラインゲームがやりきれないほどある。
そうして、私は一冊の本を読んでいる。
かすかな居心地の悪さと、自分が今どこの時間軸にいるのか、時々分からなくなるような感覚を覚えながら。
「1999年のゲーム・キッズ」はファミ通で連載され、1994年には既にアスペクトで単行本化していた。その後、再編集を経て1997年に幻冬舎文庫より刊行。更に改稿を経て2012年、星海社から決定版として「復刻」された。
その復刻に一体どんな意味があったのかは、1999年に生き、その後の世界の技術変化を身をもって体験してきた人すべてに理解してもらえることと思う。
「コンピューターウイルス」「デジタルノベル」「ゴーグルテレビ」…1999年というあの頃、現実的というよりはむしろどこかSF的な響きを持って語られていた物や、技術をキーワードにショートショートが詰め込まれている。
読み心地は軽く、また一篇一篇は短いながら毒のある捻りが効いていて、テンポ良く読めることだろう。登場人物達は憧れの新技術が開発された世界に生きながら、それら新技術の落とし穴に嵌まったり、技術が発達したが故の矛盾に直面する。すべてのエピソードには、単に技術の発展に対する憧れだけではなく、それ扱う人間のエゴ。どんなに世の中が発展しても変わらない、人間のいやらしさのようなものが新技術という強烈な光に対する影のように描かれる。その対比がエピソードをより立体的なものにしており、一気に読み切ってしまうくらい面白い本だった。
だというのに、なぜ私はこの本に「かすかな居心地の悪さ」と「自分がどこの時間軸にいるのか、時々分からなくなる感覚」を覚えたのだろう。
答えは、多分「復刻」にあると思う。
改稿がなされているとはいえ、ベースとなる物語は15年前にもう完成しているのだ。私がスーパーファミコンに興じ、薪に火をつけてお風呂を沸かしている時分に、作者である渡辺浩弐はこの世界観を視ていた。
そして15年のタイムラグが奇妙なシンクロを生み出している。
過去に書かれたはず物語が虚構だけでは終わらず、現実の、私が生きている現在に重なってくるのだ。過去に想像と予測だけで書かれたとは思えないほどの具体性で、登場人物達が陥る恐慌は、明日私が陥るかもしれない恐慌で、もう既に起こっているかもしれない恐怖なのだ。
例えば「第六話 高校教師 KEYWORD★ウェアラブルコンピュター」は小型化の一途をたどったコンピューターでカンニングをする生徒と、それに悩む教師の話である。
これを読んで、数年前に起こったカンニング事件を喚起しない者はいまい。
例えば、「第24話 プラチナ・チケット KEYWORD★バーチャルスポーツ」。超小型カメラが発達し、アスリート達がそれをつけて試合に出るようになった世界。人々は実際にスポーツをせずとも、迫力のある映像で、選手の視点を疑似体験できるようになった。スポーツをする必要性がなくなった世界に、本当にプロスポーツ選手は実在するのか?そんな疑問を持った主人公は、倍率一千倍の観戦チケットを手に入れるが…。
これを読んで思い出されるのは、YouTubeやニコニコ動画などの動画配信サイトの存在である。皆、自分の目以外に、他人の目をシェアし映像を共有している。Google Earthを使えば、地球の裏側だって見ることができるが、それが本物だとどうして無条件に信じられるのだろう。
一つ一つのエピソードが現実の体験に重なる度、私は今読んでいるのが本当に15年前に書かれた虚構なのか、信じられなくなってゆく。この本において、15年という時間の流れは逆行せず、むしろ更に先へと向かっているような気がしてくるので、うすら寒い気持ちにさえなってしまう。
「1999年のゲーム・キッズ」を読み終えた後、自分の周りをよく見渡して欲しい。
ここは、15年前に想像された未来なのだろうか、と。
読んだ内容を、よおく思い出して欲しい。
渡辺浩弐の創造した虚構は、一体どこまで追いかけてきている?
一体、どこまで追いつかれていない?
そして、自分のいる時間軸を、再度確認することをおすすめする。
油断すれば過去に追い越される。怯めば未来に置いていかれる。
立ち止まることはできない。
次の15年…いや1000年は、もう始まっているのだから。
当時小学生だった私の周辺にあるものは、極めてローテクなものばかりだった。
一家に一台すらパソコンがなかったし、携帯電話は親も持っていなかった。電話はいわゆる黒電というやつで、友人の電話番号が書かれた紙の握り締めながら、毎回ジーゴロジーゴロやっていた。更に言うと、お風呂も薪に火をつけて沸かしていたし、洗濯機は二層式、トイレは汲み取り式だった。ゲームといえば、ハード自体がそんなにないし、子供だったのでたくさんは買えない。多くの小学生がそうであったように、私もまたスーパーファミコンとゲームボーイに魅了されていた子供の一人であった。今見ると、驚くくらい粗いドットで表現される世界に私達はみな熱狂した。
あれから15年。
私は自分だけのパソコンを持つようになり、もちろんインターネットにも接続した。携帯電話はふたつ折りのものから、全体が液晶画面になったものに変わり、ボタン式の時からは考えられない指の動きで操作ができる。黒電はなくなり、お風呂は自動で沸かせるようになったし、トイレなんて自動で流すどころか人の気配を感知して勝手に開くようにさえなった。15年の間にゲームのハードは数え切れないほどでたし、ソフトもたくさんあるが、わざわざ買わなくても無料でできるオンラインゲームがやりきれないほどある。
そうして、私は一冊の本を読んでいる。
かすかな居心地の悪さと、自分が今どこの時間軸にいるのか、時々分からなくなるような感覚を覚えながら。
「1999年のゲーム・キッズ」はファミ通で連載され、1994年には既にアスペクトで単行本化していた。その後、再編集を経て1997年に幻冬舎文庫より刊行。更に改稿を経て2012年、星海社から決定版として「復刻」された。
その復刻に一体どんな意味があったのかは、1999年に生き、その後の世界の技術変化を身をもって体験してきた人すべてに理解してもらえることと思う。
「コンピューターウイルス」「デジタルノベル」「ゴーグルテレビ」…1999年というあの頃、現実的というよりはむしろどこかSF的な響きを持って語られていた物や、技術をキーワードにショートショートが詰め込まれている。
読み心地は軽く、また一篇一篇は短いながら毒のある捻りが効いていて、テンポ良く読めることだろう。登場人物達は憧れの新技術が開発された世界に生きながら、それら新技術の落とし穴に嵌まったり、技術が発達したが故の矛盾に直面する。すべてのエピソードには、単に技術の発展に対する憧れだけではなく、それ扱う人間のエゴ。どんなに世の中が発展しても変わらない、人間のいやらしさのようなものが新技術という強烈な光に対する影のように描かれる。その対比がエピソードをより立体的なものにしており、一気に読み切ってしまうくらい面白い本だった。
だというのに、なぜ私はこの本に「かすかな居心地の悪さ」と「自分がどこの時間軸にいるのか、時々分からなくなる感覚」を覚えたのだろう。
答えは、多分「復刻」にあると思う。
改稿がなされているとはいえ、ベースとなる物語は15年前にもう完成しているのだ。私がスーパーファミコンに興じ、薪に火をつけてお風呂を沸かしている時分に、作者である渡辺浩弐はこの世界観を視ていた。
そして15年のタイムラグが奇妙なシンクロを生み出している。
過去に書かれたはず物語が虚構だけでは終わらず、現実の、私が生きている現在に重なってくるのだ。過去に想像と予測だけで書かれたとは思えないほどの具体性で、登場人物達が陥る恐慌は、明日私が陥るかもしれない恐慌で、もう既に起こっているかもしれない恐怖なのだ。
例えば「第六話 高校教師 KEYWORD★ウェアラブルコンピュター」は小型化の一途をたどったコンピューターでカンニングをする生徒と、それに悩む教師の話である。
これを読んで、数年前に起こったカンニング事件を喚起しない者はいまい。
例えば、「第24話 プラチナ・チケット KEYWORD★バーチャルスポーツ」。超小型カメラが発達し、アスリート達がそれをつけて試合に出るようになった世界。人々は実際にスポーツをせずとも、迫力のある映像で、選手の視点を疑似体験できるようになった。スポーツをする必要性がなくなった世界に、本当にプロスポーツ選手は実在するのか?そんな疑問を持った主人公は、倍率一千倍の観戦チケットを手に入れるが…。
これを読んで思い出されるのは、YouTubeやニコニコ動画などの動画配信サイトの存在である。皆、自分の目以外に、他人の目をシェアし映像を共有している。Google Earthを使えば、地球の裏側だって見ることができるが、それが本物だとどうして無条件に信じられるのだろう。
一つ一つのエピソードが現実の体験に重なる度、私は今読んでいるのが本当に15年前に書かれた虚構なのか、信じられなくなってゆく。この本において、15年という時間の流れは逆行せず、むしろ更に先へと向かっているような気がしてくるので、うすら寒い気持ちにさえなってしまう。
「1999年のゲーム・キッズ」を読み終えた後、自分の周りをよく見渡して欲しい。
ここは、15年前に想像された未来なのだろうか、と。
読んだ内容を、よおく思い出して欲しい。
渡辺浩弐の創造した虚構は、一体どこまで追いかけてきている?
一体、どこまで追いつかれていない?
そして、自分のいる時間軸を、再度確認することをおすすめする。
油断すれば過去に追い越される。怯めば未来に置いていかれる。
立ち止まることはできない。
次の15年…いや1000年は、もう始まっているのだから。