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レビュアー「ラム、ユキムラ」のレビュー

銅

空の境界

盲目破りのメディアミックス

レビュアー:ラム、ユキムラ

 小説が好きなのだ、私は。
アニメより、漫画より、ドラマより、映画より。
全ての娯楽コンテンツの中で、小説こそが。
感動に媒体の差はないはずだけど、他の何よりも小説が 私の魂にフィットする。
 文章は伝えるのだ。
心の内面を、ダイレクトに。


 表情で 台詞で 行動で

 小説以外のメディアが伝える それら特有のものもあることは勿論だけれど。
それでも、文章で読む心情描写が一番内面を深く知れるようで 私は好きだ。
 作者が取捨選択した描写によって生まれる、文章にならなかった部分。それらを想像して楽しめる。

 小説が好き。

   だけど
     だから

 自分の中に取り入れた文章たちを表現できる人にあこがれる。
小説が好きだからこそ、メディアミックスされた作品が気になるし目も通す。
 そして気づく。
「……あれ? こんなシーンあったっけ」

 小説で読み飛ばしたシーンや印象に残らないシーンでも、漫画の表現力でこそ、感情がこんなにも理解できるのだろう。

 Web漫画では、目を逸らさずに 藤乃の惨状と凶行を見ることができた。
式の嬉しそうな顔とつまんなそうな顔も。
幹也の、感情を殺した無表情も。

 見て、そして観て、思ったこと。

 私は、見たいものしか 見ていなかった。

『レッドドラゴン』を読んだ知人に、「奈須さんは暗い話を書く人というイメージがずっとあった」と言われて違和感を覚えてた。
だけど、『空の境界』ってそんなにグロかったのだろうかと考えて...考えて、私は具体的な内容を想像する前に読み流してしまっていたのだと気づく。

 私は今まで知らなかった。ずっと知らずにいた。知ろうとせずにいた。
小説という形をとっていない『空の境界』でも、こんなに、心を揺さぶられるということ。

 これは小説ではなく。ましてや、ページをめくりもしないコンテンツ。
なのに、ページで閉じていた本状態の名残で、中央余白の様式美を醸し出して。
そのweb漫画はまるで小説における地の文のように。シロで以って、私に行間ならぬコマ間を読ませるのだ。

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2013.07.08

銀

泉和良『おやすみ、ムートン』

青蒼なる盛装

レビュアー:ラム、ユキムラ

 日本で出版される書籍の多くにはカバーがついている。一部のソフトカバーや雑誌など以外、それらドレスコードを当然のようにまとっているのだ。
 先日、ある出版社は3・11ののちに書籍に帯をつけることをやめた、という新聞記事を読んだ。

 ――帯とは、一体いかな存在か?

 読者候補の誰かの目に留まるように、訴求効果を促すアクセサリーなのか。ゆえに表紙の一部を隠してまで、余分の一枚を見せつけてくるのか。
 表紙にはない言葉の刃で、相手に興味を刻み付ける算段なのか。

 そんなことをつらつら考えていたときに書店で出会ったのが、この本だ。
 鮮やかな蒼をした帯が、平積みされた一角でひどく映えた。
 其の帯の一文は、ある意味、「言葉」ですらない。吹き出しの中には、魂のカケラが見えた。常ならぬ表記、今まさに言葉になりゆく過程のような、未完成ゆえの尊さが垣間見えた気がした。
 大仰な言い方かもしれないけれど、「帯をまとった本」の状態が、ひとつの芸術に見えたのだ。

 ゆえに。
 私はこの本を書店で見つけてもらいたい。
 数多の、溢れる程の数の中から、この本の実物を双眸で味わってほしい。
 過剰なまでの多彩な本たちにうずもれることなく歴然とした蒼が、己が存在を殊更に主張しているから。


 ――宇宙の蒼を凝縮したような帯をまとった、この美しくも儚い物語に。

 きっと、貴方も魅せられる。

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2013.06.22

銅

大日本サムライガール

大日本シンデレラガール

レビュアー:ラム、ユキムラ

 シンデレラは おどれない
 ガラスの靴では おどれない
 童話の国ではおどれても おとぎの国ではおどれても
 現実世界じゃおどれない
 ガラスの靴では おどれない

 儚い靴は くだけちる
 履かない靴は くちはてる
 シンデレラは おどれない
 ガラスの靴では おどれない



 魔法使いは現れた
 灰かぶりは アイドルへ
 ガラスの靴より遙か速く 走れる靴を与えてくれた
 立場変われど 想いは変わらず
 二人で共に 突っ走る
 0時じゃとけない ホントの魔法

 その靴が 足に馴染んだ頃
 泰然自若の信念は
 結実すると 信じてる

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2013.06.22

銀

大日本サムライガール

芳春に艶花咲く

レビュアー:ラム、ユキムラ

 神楽日鞠は右翼思想の強い、女子高生だ。
 日本を救うために、何とか会という政治活動をしている。
 とはいえ女子高生にできることは少ない。
 そもそも政治家とは、有名であることが大事らしい。
 されど、彼女は未だ16歳。立候補どころか、投票する側にもなっていない。というのに、「日本には自分の成長を待っている時間すらない」と彼女は憂う。
 ならばアイドルになることが独裁者への最短ルートだと、主人公に説得されて。そうして、彼女は手段としてのアイドルを決意するのだ。


 女の子全てそうかもしれないが、アイドルは華であり花だ。
 美人の例えにも、立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花、というのがある。


 芍薬の別名は花の宰相
 牡丹は花の王様と呼ばれる
 百合――特に白百合は、純潔の象徴である


 まさにひまりんのための言葉ではないかっ!
 花の王様とは、すなわちアイドルの頂点。花の宰相とは、アイドルであり政治家。
 ――そして、百合。
 神楽日毬は、常に正しくあろうとしている。其の生き様はもはや、純潔を通り越して高潔だ。研ぎ澄まされた美しさ。朝の空気のような、或いは日本刀のような。 
 その信念から、「日本万歳」と小さくつぶやいてグラビア撮影に向かう姿は、滑稽でありながら可愛いくもある。
 妙齢を救国に捧げたフランスの聖女、ジャンヌ・ダルクの旗印も白百合だった。
 だが、正しさや高潔さというものが報われるとは限らない。
 現にひまりんは公安警察に目をつけられている。
 願わくば――かの聖女のように 手折られること無きように。
 花守の責任は重大だ。

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2013.06.11


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