夜跳ぶジャンクガール
世界と心中する覚悟
レビュアー:ややせ
屋上に立つ少女は、なぜこんなに魅力的なのだろう。
あまりに例が多すぎて思い出せないくらい、少女達は屋上に立ち、凛と「眺められて」きた。
そこに期待されるのは、落下するかもしれない少女の力強い生の輝きではないだろうか。言うならば、他人の走馬灯である。
視点を変えれば、それは空から降ってきた系少女ということになるのかもしれないが、手に入るモノとしての少女ではない、屋上に危うげに立つ少女達は、ジャンルを問わず数多のフィクションに特別なイコンとして登場してきた。
『夜跳ぶジャンクガール』にも屋上に立つ少女が登場する。誰とも親しくならない、孤高の美少女美月だ。
彼女に主人公のアユムが恋をしたことから、すべてが始まった。屋上の美月を見たことにより、首を締め衝動がなくなり、幼馴染とうまくいかなくなり、美月の歓心を買うために連続少女自殺中継の事件の犯人を見つけようとしたりする。
繰り返しになるが、すべてはそこから始まったのだ。
美月はイタいくらいに非日常に拘泥している少女として描かれるが、アユムにとっては美月こそがそれまでの日常を転換させる、非日常だったといえるのではないか。
しかし、結果的にアユムに極めて日常らしい日常をもたらすことになるのも美月なのだ。
日常と非日常の差異など、このくらい自由に反転するものなのかもしれない。
屋上の少女は、柵を越えて落ちるかもしれない。落ちないかもしれない。落ちたら死ぬだろう。落ちなかったのなら、死なないだろう。
些か悪趣味かもしれないが、このどちらに転がるか分からないものを見たい、という好奇心が屋上の少女には向けられる。そして万に一つの可能性として、翔ぶかもしれないという高揚もある。
美月に関して言えば、彼女は跳ばなかったし翔べなかった。つまらない日常の登場人物に成り下がって、しかもその日常を堂々と肯定することもできない、どうしようもなく普通の痛々しい高校生として、アユムの日常に落ちてきただけだった。
思うに、この小説を私たち読者にとっての非日常だとして読むと、何のイベントも起こらないつまらない地平のように思える。
けれど、自分達の日常の延長、この世界に地続きのどこかのことだとして読むとどうか。
日常に非ざるものを非日常と呼ぶのだから、そもそも非日常が日常のどこかにあると信じて探すこと自体がパラドックスを含む。
その矛盾と相剋を抱え込んだ美月は、キャラとしては中途半端でダサい。けれど塞いで布団に潜り込んだり、わんわん泣いたり、持っている哲学が幼く容易にぶれるところが、私には親しめた。可愛くてしょうがなかった。
セカイを救う/壊すためには、少女のギセイが必要だという虚構上のお約束があった。(今もあるのかもしれない)
『夜跳ぶジャンクガール』でも死んでしまった少女(達)がいるが、彼女(達)は言わば虚構の世界のための犠牲として捧げられた少女達、かつてのヒロイン達のように見えた。
私は死を選ばなかった美月に、図々しくも新しいヒロイン像を見たような気がする。
彼女は、誰もが世界に捧げられる無垢な贄ではないということを教えてくれる。
かつてセカイに捧げられた少女達の亡霊の前で、おそるおそる触れ合う二人はさほど幸せそうではない。
けれど、どうせ日常に飛び降りるならば。
世界と心中するくらいの強かさで、地に墜ちるまでの時を手探り指探り舌探りで足掻いてほしいと思うのだ。
あまりに例が多すぎて思い出せないくらい、少女達は屋上に立ち、凛と「眺められて」きた。
そこに期待されるのは、落下するかもしれない少女の力強い生の輝きではないだろうか。言うならば、他人の走馬灯である。
視点を変えれば、それは空から降ってきた系少女ということになるのかもしれないが、手に入るモノとしての少女ではない、屋上に危うげに立つ少女達は、ジャンルを問わず数多のフィクションに特別なイコンとして登場してきた。
『夜跳ぶジャンクガール』にも屋上に立つ少女が登場する。誰とも親しくならない、孤高の美少女美月だ。
彼女に主人公のアユムが恋をしたことから、すべてが始まった。屋上の美月を見たことにより、首を締め衝動がなくなり、幼馴染とうまくいかなくなり、美月の歓心を買うために連続少女自殺中継の事件の犯人を見つけようとしたりする。
繰り返しになるが、すべてはそこから始まったのだ。
美月はイタいくらいに非日常に拘泥している少女として描かれるが、アユムにとっては美月こそがそれまでの日常を転換させる、非日常だったといえるのではないか。
しかし、結果的にアユムに極めて日常らしい日常をもたらすことになるのも美月なのだ。
日常と非日常の差異など、このくらい自由に反転するものなのかもしれない。
屋上の少女は、柵を越えて落ちるかもしれない。落ちないかもしれない。落ちたら死ぬだろう。落ちなかったのなら、死なないだろう。
些か悪趣味かもしれないが、このどちらに転がるか分からないものを見たい、という好奇心が屋上の少女には向けられる。そして万に一つの可能性として、翔ぶかもしれないという高揚もある。
美月に関して言えば、彼女は跳ばなかったし翔べなかった。つまらない日常の登場人物に成り下がって、しかもその日常を堂々と肯定することもできない、どうしようもなく普通の痛々しい高校生として、アユムの日常に落ちてきただけだった。
思うに、この小説を私たち読者にとっての非日常だとして読むと、何のイベントも起こらないつまらない地平のように思える。
けれど、自分達の日常の延長、この世界に地続きのどこかのことだとして読むとどうか。
日常に非ざるものを非日常と呼ぶのだから、そもそも非日常が日常のどこかにあると信じて探すこと自体がパラドックスを含む。
その矛盾と相剋を抱え込んだ美月は、キャラとしては中途半端でダサい。けれど塞いで布団に潜り込んだり、わんわん泣いたり、持っている哲学が幼く容易にぶれるところが、私には親しめた。可愛くてしょうがなかった。
セカイを救う/壊すためには、少女のギセイが必要だという虚構上のお約束があった。(今もあるのかもしれない)
『夜跳ぶジャンクガール』でも死んでしまった少女(達)がいるが、彼女(達)は言わば虚構の世界のための犠牲として捧げられた少女達、かつてのヒロイン達のように見えた。
私は死を選ばなかった美月に、図々しくも新しいヒロイン像を見たような気がする。
彼女は、誰もが世界に捧げられる無垢な贄ではないということを教えてくれる。
かつてセカイに捧げられた少女達の亡霊の前で、おそるおそる触れ合う二人はさほど幸せそうではない。
けれど、どうせ日常に飛び降りるならば。
世界と心中するくらいの強かさで、地に墜ちるまでの時を手探り指探り舌探りで足掻いてほしいと思うのだ。