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レビュアー「6rin」のレビュー

銀

FATE/ZERO 文庫版

物語をハッピーエンドに変える魔法

レビュアー:6rin Novice

どんな願いでも叶える聖杯を巡る聖杯戦争。参戦する者たち皆が魅力的だが、僕は衛宮切嗣の苛烈な人生に特に惹かれた。

魔術師は魔術に誇りを持つゆえに魔術に頼りがちで、彼らには他の手段を蔑視する傾向がある。だが、切嗣は魔術師ながら「魔術師殺し」の異名で呼ばれる、魔術師らしからぬ戦士だ。彼は電子機器や兵器なども魔術と均しく扱う。悲願成就に役立つなら、彼はどんな手段も辞さない。何らかの手段を選ぶ結果、家族が死ぬことになったとしても、彼は抑えきれない悲しみを無理やり抑え込んでそうする。彼にはそうやって人間らしい心を凍らせて生きる選択肢しかないのだ。彼にとっては悲願が絶対だからである。彼には彼自身すら、兵器と同じく悲願成就のための道具でしかない。
僕には、かように厳しく自らを厳しく律する彼の生き様が痛ましく感じられた。痛ましい日々を耐え忍んだ彼であったが、結局願いは叶わない。僕はそれを残念に思うが、だからといって彼の人生が可哀想なものだとは思わない。自らの願いのために懸命に生きたからこそ掴めるものを、彼が手に入れたからだ。

切嗣の願いとは、戦いと流血が恒久的に存在しない平和な世界を実現することだ。これは、人の手に負えない規模の願いだ。だから彼は聖杯の力にすがるしかなかったのだ。しかし、実は聖杯でも叶えられない願いがあり、彼は自らの願いもその一つだと知ることになる。そして絶望して、生きる気力を失う。彼には聖杯しか願いを叶える手段がなかったのだから、彼が死にたくなったのも無理からぬことだ。
でも彼はここで奇跡に出会う。

生きる希望を失った切嗣は、後に五百名が亡くなったと判る、広域が焼ける大災害の現場をふらつき彷徨う。現場は死体だらけだ。生き残りがいるとは思えない。生きている者がいたら、それは奇跡だ。
しかしその場所で、切嗣は倒れている男の子が手を伸ばすのを見つける。
この大災害は「この世すべての悪」と名指される、人間を殺戮する意思の塊のようなものが引き起こしたものだ。つまり、「この世すべての悪」は、戦いと流血の原因となる悪を具現化したような存在なのだ。この反平和的な悪は、切嗣が平和な世界の実現のために打ち克ちたいけれど敵わないものだ。
しかし、男の子は「この世すべての悪」の起こした災害に負けず生き残ったのだ。切嗣は男の子に、人類が悪に打ち克ち、完全な平和が実現する奇跡の存在する可能性を感じたのではないだろうか?
絶望していた切嗣は男の子の手を取り、男の子ではなく自分が救われたかのような顔で、男の子に「ありがとう」と感謝する。

切嗣は助けた男の子を養子に迎え、穏やかな余生を過ごす。切嗣には願いを叶える手段は無くなってしまったが、男の子が授けてくれた希望があり、切嗣でも祈ることはできる。切嗣は少年時代に懐いた世界平和を実現したいという無垢な祈りを、一瞬は絶望し手放したものの、人生のおわりまで全うしたのだ。僕はそう思う。だから、彼は安らかに死ぬことができたのだ。安らかに死ねたのは、男の子との落ち着いた暮らしに幸せを感じていたからでもあるだろう。その安らぎは、願いのために闘う過酷な人生を歩み続けたからこそ得られるものなのだ。

願いが叶わずにキャラクターが死んでいくこの物語は、一般的にはバッドエンドと言えるものだ。しかし、切嗣の最後は願いが叶わない不幸以上に、幸福なものだ。だからこの物語はとびきりのハッピーエンドなんだと僕は思う。切嗣が懸命に願い頑張り続けたことで、願いが叶わないバッドエンドの物語がハッピーエンドになったのだ。人の願う心には、そんな魔法の力がある。
『Fate/Zero』の後に作者が脚本を書いた『魔法少女まどか☆マギカ』でも、絶望の中で死ぬことが運命づけられた魔法少女たちのバッドエンドが希望のあるハッピーエンドに変わった。それは、ほむらが願い闘い続けることで得られた、まどかの願いの力による奇跡だった。作者は繰り返し、願うことの素晴らしさを描いている。
六巻の奈須きのこの解説によると、作者は2005年以降、ハッピーエンドが書けない病に罹っていたそうだ。それ以降に書かれた『Fate/Zero』は一般的な意味でのハッピーエンドから遠いが、『まどか☆マギカ』になるとだいぶ普通のハッピーエンドに近づいている。主人公まどかの願いが叶い、まどかは死んでしまうが神のような存在として生きていくからだ。二つの作品を通して、作者が普通のハッピーエンドの物語へとにじり寄っている。これは、作者がハッピーエンドを書きたいと願い、闘い続けた結果に見える。作者の物語を紡いでいく姿勢が、願いを持ち闘い続けることの素晴らしさを体現しているのだ。

願いを叶えるのが難しそうと思うとすぐに挫ける、僕みたいな弱いやつにとって『Fate/Zero』は、「願いが叶わないとしてもいいことあるかもしれないから頑張ろう」と思わせてくれる、いい物語だ。切嗣みたいに、あるいは作者のように願いを貫けたらカッコいいなと思う。まあ、僕には難しそうなのだが。

最前線で『Fate/Zero』を読む

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2012.06.08

銅

マージナル・オペレーション

有り得ないヒーロー

レビュアー:6rin Novice

元ニートのアラタは軍隊で部隊を操るオペレーターを務める。モニターに映し出される、敵や味方の部隊の位置を示すマップを睨み、部隊に指示を送るのが仕事だ。乱暴に言ってしまえば、この仕事はコンピューターゲームの戦争SLGのプレイヤーみたいなものなのだ。アラタは常に的確な指示を送る、優れたオペレーターだ。味方を危機から鮮やかに救う手腕が高く評価される。でも、SLGのプレイヤーみたいな仕事と聞いて、ゲームが得意な若者ならそんなに難しくなくて、実はアラタは大したことないんじゃないの? と疑問を感じる方もいるかもしれない。作者の芝村氏も最近の若者は英雄としての資質に恵まれていると言っている。

芝村氏が言うには、若者は損得勘定に長ける。だから、戦争において手持ちの選択肢から一番良いものを見つけられるであろう、ということらしい。
ただ、実際に大きな戦果を挙げるには、正しい選択肢を見つけるだけではダメで、実行が求められる。しかし、戦場には実行を妨害するものが沢山ある。敵の攻撃に対する恐怖心や、行動が自分や味方の生死を左右することに対するプレッシャーなどなど。それらがためらいや迷いを生み、判断を遅らせたり間違ったものにする。素早い適切な行動には、常に冷静な機械のような心が求められる。主人公アラタはその点でも非常に優秀だ。

上官の提示する、現実の戦闘を想定した、どんな指示を送ればよいかという問題に、上官を唸らせる指示をさっと答える。上官のプレッシャーに負ける同僚たちには真似できない速さと精度だ。実際の戦闘でもその早さと精度は変わらない。まさに機械である。そのうえ、仲間や一般人の損害を少なくすることを誰よりも考えて指示を送る優しさも併せ持つ。天才であり、ヒーローである。
コンピューターゲームみたいな指示を送るだけの仕事だけに、アラタのような機械の心を持ってなくても出来そうな気がついしてしまう。ヒーロー・アラタに憧れる。
でもそんな奴、絶対いないと思う。もともと特別な技能も持たないもやしっ子のニートが天才軍人になれるわけがないし、機械の心と人間らしい優しい心を合わせ持つって、どこのマンガの主人公だよって思う。現実にはありえない。それでもやっぱり憧れる。アラタはそれだけ素敵なヒーローだから。

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2012.05.18

銅

サクラコ・アトミカ

愛が世界を塗り替える

レビュアー:6rin Novice

2011年に放映され、SF大賞候補作にもなった大人気TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』。そこに登場する、ぬいぐるみみたいな生き物・キュゥべえは、自分には心が無いと言う。キュゥべえの顔は大概は涼やかな微笑みをたたえていて、口を閉じたまま声を発し、変化しない。表情をつくる眉毛が無いその顔は、確かに心が無いと感じさせるものだ。幾人もの女の子を平気で酷い目にあわせる行いは、変化しない顔よりもっと、キュゥべえに人間らしい心が欠片もないと感じさせるものだった。僕は「心が無い」というその言葉に何の疑問も持たずに視聴した。

だが冷静に考えると、自分と異なり心がある人間が理解できないと嘆いたり、意外な出来事に驚くキュゥべえに心が無いというのはおかしい。僕は頭ではそう思う。しかし、それでもキュゥべえに心が無いのが真実なのだと感じる。つまり、僕の内部で「心が無い」という言葉が、本来ならばそこに含まれない嘆いたり驚いたりする状態まで、範囲を広げてしまっている。
心が有りつつ、心が無い「心が無い´」は現実にはありえない状態である。しかし、『まどか☆マギカ』の世界における現実として僕はそれを想像し、作品の中に見出した。想像力には今までにない新しい現実を創り出す力があるのだ。

『サクラコアトミカ』のキャラクター・ナギもキュゥべえと同じく、自分には「人間らしい感情は一切ない」と言う。
ナギは知事・オルガの命によって丁都の塔に囚われたサクラコの牢番だ。丁都では、オルガは想像しただけで全てが現実になる魔法のような力を持つ。サクラコは観測者の理想に合わせ、その美貌を変化させる、世界一の美少女である。ナギはサクラコを助けるために、想像する自己イメージに合わせ体を変形させる能力で、オルガに抵抗する。

「人間らしい感情は一切ない」という発言の少し後に、ナギは囚われのサクラコに憐れみを感じると言い、天衣無縫なサクラコに呆れたりする。客観的にみて僕は、人間らしい感情をナギは持っていると思う。それでもなお僕は、キュゥべえに心が無いと感じたのと同じように、ナギに人間らしい感情が無いと感じる。それはなぜか? 

それは、ナギがあらゆる男性を虜にする絶対美のサクラコを長時間見ていても、美しいと思わず、心を全く乱されないからだ。人間らしい感情がナギにあったら有り得ない話だ。これがキュゥべえの変化しない顔、心無い所業と同じ作用をぼくに及ぼしている。僕に、ナギには人間らしい感情が無いと思わせつつ、人間らしい感情があると感じさせるのだ。さらに、何度か時間をおいて繰り返される、サクラコの美貌に無反応なナギの様子が、人間らしい感情が無いと感じさせるその作用を強めている。そうして、人間らしい感情があるのに、人間らしい感情が無い「人間らしい感情が無い´」が生まれる。
重要なのは、ナギがサクラコに異性として惹かれないことが、ナギが「人間らしい感情が無い´」状態にあるという僕の認識を支えていることだ。それは、ナギがサクラコを愛することが、「人間らしい感情が無い´」という認識を崩し、ナギに人間らしい感情のある心が宿ることを意味するからだ。
そして、愛によって心が宿るロマンチックな物語は、その心の力でハッピーエンドへと進んでいく。
オルガの言葉が現実になる世界、丁都の外へナギはサクラコとともに飛翔する。想像力を用い、愛するサクラコを救いたい一心で造った翼をはばたかせて。ナギとサクラコ、二人の世界は、オルガの世界から二人だけの新しいものに塗り替えられたのだ。

読者の僕が「人間らしい感情が無い´」という新しい現実を創る。それが、愛によって心が宿るロマンチックな物語の構図を生む。そして愛する心が、想像力でオルガの世界を塗り替える。
読者やキャラクターの、既存の枠組みを飛び越え、新しい世界/現実を創る想像力が物語に躍動するのだ。
想像力が世界を創るだなんて、なんて夢があるんだろうと僕は思う。
アニメ好きの僕は、この作品がアニメにならないかと期待している。派手な戦闘シーンはアニメ映えすることだろう。なにより、アニメ鑑賞者によって姿が変わるはずのサクラコがどう描かれるのかを見てみたい。僕のこの想像も現実になってほしい。

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2012.05.18

銅

フェノメノ

論理の彼岸で

レビュアー:6rin Novice

この物語は心霊現象に興味がある大学生・山田凪人が怪異に遭遇するホラーである。
理解を超えた現象に人は恐怖を感じる。凪人が出会う怪異もまた常人の理解を超えている。そこには恐ろしい幽霊や亡霊の類が潜んでいる。だが、凪人には怪異の脅威から救ってくれる人たちがいる。凪人がオフ会に度々参加しているオカルトサイト「異界ヶ淵」の管理人・クリシュナや、「異界ヶ淵」に出入りする夜石といった面々である。
彼女たちが怪異を調査、分析し、怪異の原因や対処法を解き明かす。ロジックに回収された怪異には依然として恐怖は残るが、その神秘性は薄まる。そう、この物語において神秘性が強調されるのは怪異ではなく、別にあるのだ。

凪人は怖いものを見たい、知りたい、という感情に身を任せ、危険があるのを知りつつ怪異の領域に踏み込む。怖いもの見たさは理屈を超えて、人を突き動かすのだ。しかし、理屈を超えるのは、怖いもの見たさだけではない。可哀そうな少年の思いが綴られた、呪われたノートを処分しなくてはならない場面で、少年の思いを見捨てられない凪人は処分を拒む。夜石は、対処する方法を持たずに呪われたノートを所持する凪人の、論理性を欠いた判断に惹かれる。人の心には、ロジックを超えた底知れなさ、神秘性があり、それが魅力的なのだ。

人間の心こそ怪異より神秘的である。この視座に立って、物語が書かれている。では、この物語が怖くないのか、神秘性の薄まった怪異が怖くないのかと言えば、そんなことはない。圧倒的に怖い。先を読むのが憚れるくらいに怖い。物語と同じことがこの身に降りかかったら、僕はショック死すると思う。
それでも怖いもの見たさから、僕はネットに公開されている分を全部、読み切ってしまった。
だが、後悔はしていない。怖いもの見たさが満たされたから。怖い、以上に面白かったから!

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2012.05.18


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