小泉陽一郎『夜跳ぶジャンクガール』
健全な生き方
レビュアー:USB農民
<僕は姉と楓の視線を感じながらも、感じるからこそ、美月と白目を舐めあう。痛くても幸せそうに、見せつけるように。>
図太く生きるということは、傷ついていないことを意味しない。
格好悪くみっともなくとも、誰かに生きて欲しいと願うことは、過去に死んでいった人たちへの不誠実とはならない。
自分以外の誰かが死んで、死ななかった自分が生き続ける。
それを罪深いこととして考え出すと、際限のない迷路に迷い込む。誰も悪くないのに、誰かが悪い気がしてしまう。どこにも正しい答えはないのに、どこかに正しい答えがあってほしいと願ってしまう。そんな生き方は、出口のない苦しみを抱え込んだような、不健全な生き方のように思う。
けれど、その迷路に足を踏み入れた我々は、それでも迷いながら生きている。そして生きている以上、生きている実感を求めずにはいられない。
生きている人間が生きている実感を求めることは、死んだ人々への不誠実を意味しない。
『夜跳ぶジャンクガール』の主人公が、姉と幼なじみの亡霊に背を向けながら、生きながらえて恋を謳歌することは、決して彼女たちへの不誠実を意味しない。
生きている人間は、精一杯に生きながら、死者に対して思いを馳せる。主人公はそういう生き方を選び取る。それが健全な生き方なのだ。
彼岸には誰かの死があって、此処には自分の生の実感があって、その二つの前提のうえで人は生きている。それを忘れなければ、主人公も、私たちも、健全に生きていける。
図太く生きるということは、傷ついていないことを意味しない。
格好悪くみっともなくとも、誰かに生きて欲しいと願うことは、過去に死んでいった人たちへの不誠実とはならない。
自分以外の誰かが死んで、死ななかった自分が生き続ける。
それを罪深いこととして考え出すと、際限のない迷路に迷い込む。誰も悪くないのに、誰かが悪い気がしてしまう。どこにも正しい答えはないのに、どこかに正しい答えがあってほしいと願ってしまう。そんな生き方は、出口のない苦しみを抱え込んだような、不健全な生き方のように思う。
けれど、その迷路に足を踏み入れた我々は、それでも迷いながら生きている。そして生きている以上、生きている実感を求めずにはいられない。
生きている人間が生きている実感を求めることは、死んだ人々への不誠実を意味しない。
『夜跳ぶジャンクガール』の主人公が、姉と幼なじみの亡霊に背を向けながら、生きながらえて恋を謳歌することは、決して彼女たちへの不誠実を意味しない。
生きている人間は、精一杯に生きながら、死者に対して思いを馳せる。主人公はそういう生き方を選び取る。それが健全な生き方なのだ。
彼岸には誰かの死があって、此処には自分の生の実感があって、その二つの前提のうえで人は生きている。それを忘れなければ、主人公も、私たちも、健全に生きていける。