「六本木少女地獄」
私的戯曲、読方作法
レビュアー:zonby
「私的戯曲、読方作法」。
なんぞと気取ったタイトルをつけてみたが、正直に告白すると、私は戯曲というものをあまり読み慣れていない。(唯一読んだのは恩田陸/著の「猫と針」。ラーメンズの「小林賢太郎戯曲集」ぐらいのものである)失礼を承知で書くが、戯曲=舞台の台本のようなもの、くらいの浅い見識しか持たぬ私は、だから「六本木少女地獄」を買ったは良いものの、いかようにして読んで良いものか分からず、読んだ時間より枕元に置いていた時間の方が膨大な程だ。
だが読み終えたからこそ、こうしてレビューを書こうとしているわけだが。
自分が本当に「読んだ」「読めた」のかは、甚だ疑問なところである。
この作品に至ってはなんとなく「読んだ」という表現は似合わない気がするから。
―――だからこれから書くのは、この戯曲を読むにあたって実際に私が体験したことだ。
まずはページを開かねば始まらぬ、と開いてみたはいいものの、この戯曲という形式にはやはり戸惑った。
小説には人物の描写があり、風景の描写があり、おまけに人物の心理描写まである。誰かが発言をした後には××はと言った。などという説明まであったりして、ひとまず視点となる人物に身を委ねて読んでいけば、物語に埋没することができる。
しかし戯曲はまず登場人物が設定されており、説明は簡略にしか書かれていない。誰が何を言っているかは、各人に口癖などがあれば見分けられるが、そうでない場合はもう誰が何をやっているのか、何を喋っているのか全くわからなくなってしまう。
「うさわのタカシ」の三ページ目程で読むのを一度やめたのは、この私だ。
…何が何だかわからなくなってしまったからだ。
考えて見れば当たり前のことではある。上記に述べているように、小説には大抵の場合において視点となる人物がいるのだ。読者はその視点人物の目や耳、思ったことを借りて物語の中に入っていくことになる。
だが戯曲に、視点人物なるものは存在しない。
あえて言うならば、自分が視点人物なのだ。
最初に戯曲=舞台の台本のようなもの、という私の認識を書いた。
それもあながち嘘ではないのではないか、と私は思う。戯曲とは舞台で行われていることを、極めて簡略に再現したものであり、本来ならば文章で読むよりは劇場の座席で観て、演じる役者の表情や動き。微妙な光の加減などから自分の目で読み取るものであると思う。
これは小説を読むいつもの体勢から、90°ばかり読み方を変えねばなるまい。
そう思った私は。
私は。
―――演じた。
とりあえず配役が三人で、演じ分けられそうな「うわさのタカシ」から演じた。
タカシという一人の男を取り合って、舞台を所狭しと駆け回る(のであろう)シズカ・エミリ・サトコという名の三人の女。
シズカは…名前と台詞からして少しお嬢様っぽく清楚な感じで…。
エミリは…はすっぱで、イマドキな女の子風。
サトコは…可愛いけれど、少し毒のある感じ。などと役作りまでして演じましたとも。
とは言っても、本を読むここは私の部屋。観客がいるわけでもなく、スポットライトに照らされているわけでもなく、布団に転がって延々と三人の声色を使い分けながら、時々身振りまで加えつつ小さな声で音読するのである。
いやしかし、それが意外と面白かったのである。
一人三役やっているので、三つの視点から物語を理解することができるし、何より読んでみると分かるのだが会話のテンポが絶妙に良い。特にサトコの作った料理をシズカとエミリの二人で破壊し尽くすところなんか最高だ。もう演じるこちらもノリノリである。
他の作品は登場人物が多いため、全て演じきるというのは不可能だったが「うわさのタカシ」でコツを掴んだおかげで、以前より抵抗なく読み進めることができた。
戯曲。
この小説と呼ぶには物足りず、かといって舞台の台本とも呼べぬもの。
まさに戯曲としか形容できぬもの。
読みにくいと感じる方がおられたならば、是非演じて見ることをおすすめする。
声に出さなくても良い。
頭の中でなりきるだけでも良い。
きっと小説とはまた違った景色が、この「六本木少女地獄」を通して幻視できるはずだから。
「私的戯曲、読方作法」。
お試しあれ。
なんぞと気取ったタイトルをつけてみたが、正直に告白すると、私は戯曲というものをあまり読み慣れていない。(唯一読んだのは恩田陸/著の「猫と針」。ラーメンズの「小林賢太郎戯曲集」ぐらいのものである)失礼を承知で書くが、戯曲=舞台の台本のようなもの、くらいの浅い見識しか持たぬ私は、だから「六本木少女地獄」を買ったは良いものの、いかようにして読んで良いものか分からず、読んだ時間より枕元に置いていた時間の方が膨大な程だ。
だが読み終えたからこそ、こうしてレビューを書こうとしているわけだが。
自分が本当に「読んだ」「読めた」のかは、甚だ疑問なところである。
この作品に至ってはなんとなく「読んだ」という表現は似合わない気がするから。
―――だからこれから書くのは、この戯曲を読むにあたって実際に私が体験したことだ。
まずはページを開かねば始まらぬ、と開いてみたはいいものの、この戯曲という形式にはやはり戸惑った。
小説には人物の描写があり、風景の描写があり、おまけに人物の心理描写まである。誰かが発言をした後には××はと言った。などという説明まであったりして、ひとまず視点となる人物に身を委ねて読んでいけば、物語に埋没することができる。
しかし戯曲はまず登場人物が設定されており、説明は簡略にしか書かれていない。誰が何を言っているかは、各人に口癖などがあれば見分けられるが、そうでない場合はもう誰が何をやっているのか、何を喋っているのか全くわからなくなってしまう。
「うさわのタカシ」の三ページ目程で読むのを一度やめたのは、この私だ。
…何が何だかわからなくなってしまったからだ。
考えて見れば当たり前のことではある。上記に述べているように、小説には大抵の場合において視点となる人物がいるのだ。読者はその視点人物の目や耳、思ったことを借りて物語の中に入っていくことになる。
だが戯曲に、視点人物なるものは存在しない。
あえて言うならば、自分が視点人物なのだ。
最初に戯曲=舞台の台本のようなもの、という私の認識を書いた。
それもあながち嘘ではないのではないか、と私は思う。戯曲とは舞台で行われていることを、極めて簡略に再現したものであり、本来ならば文章で読むよりは劇場の座席で観て、演じる役者の表情や動き。微妙な光の加減などから自分の目で読み取るものであると思う。
これは小説を読むいつもの体勢から、90°ばかり読み方を変えねばなるまい。
そう思った私は。
私は。
―――演じた。
とりあえず配役が三人で、演じ分けられそうな「うわさのタカシ」から演じた。
タカシという一人の男を取り合って、舞台を所狭しと駆け回る(のであろう)シズカ・エミリ・サトコという名の三人の女。
シズカは…名前と台詞からして少しお嬢様っぽく清楚な感じで…。
エミリは…はすっぱで、イマドキな女の子風。
サトコは…可愛いけれど、少し毒のある感じ。などと役作りまでして演じましたとも。
とは言っても、本を読むここは私の部屋。観客がいるわけでもなく、スポットライトに照らされているわけでもなく、布団に転がって延々と三人の声色を使い分けながら、時々身振りまで加えつつ小さな声で音読するのである。
いやしかし、それが意外と面白かったのである。
一人三役やっているので、三つの視点から物語を理解することができるし、何より読んでみると分かるのだが会話のテンポが絶妙に良い。特にサトコの作った料理をシズカとエミリの二人で破壊し尽くすところなんか最高だ。もう演じるこちらもノリノリである。
他の作品は登場人物が多いため、全て演じきるというのは不可能だったが「うわさのタカシ」でコツを掴んだおかげで、以前より抵抗なく読み進めることができた。
戯曲。
この小説と呼ぶには物足りず、かといって舞台の台本とも呼べぬもの。
まさに戯曲としか形容できぬもの。
読みにくいと感じる方がおられたならば、是非演じて見ることをおすすめする。
声に出さなくても良い。
頭の中でなりきるだけでも良い。
きっと小説とはまた違った景色が、この「六本木少女地獄」を通して幻視できるはずだから。
「私的戯曲、読方作法」。
お試しあれ。