六本木少女地獄
入り混じり乱れる価値観
レビュアー:くまくま
六本木にたたずむ家出少年に声をかけた少女。彼らが始める六本木を舞台とした鬼ごっこが行われている間、鬼と子が入れ替わる様に、各々が抱えている事情が交互に語られていく。そして物語の裏面には、女と男、父性と母性、美徳と背徳、神と悪魔、旧約と新約といった様々な対比構造が見え隠れする。
そんな不思議な構造の骨格を象徴していると感じたのが、六本木少女の次の台詞。「下手(しもて)に生、上手(かみて)には死」 六本木は綺麗で、まるで生きているみたいだが、それは、岩を、森を、川を殺した産物なのだ、と少年に語る中の一節だ。
ぼくは演劇に詳しくないが、演者と観客に向きのずれがない様に、客席から見て右側を上手、反対側を下手というくらいは知っている。上座などの用語からも分かる様に、このとき、普通は、上手が価値の高い場所として扱われるらしい。そしてこの知識からぼくは、前の台詞に二つの意図を想像する。
ひとつは、上手、下手という表現を使った理由だ。演者の視点に立って考えれば、「左手に生、右手には死」でも構わないはずだ。それをあえて上手、下手にしたということは、演者の価値観に観客を引き込みたいという意図があったのではなかろうか。
そうして引き込まれた先にある価値観は、普通とは逆転している。なぜなら台詞は下手=生であり、上手=死だからだ。普通の感覚では価値の高い"生"をすり潰して、"死"の産物である六本木という街を作る。もし六本木に高い価値を認めるならば、観客はこの価値の逆転を受け入れなければならない。
こうして長いプロセスを経て観客を含めた世界を自身の宇宙に取り込んだにも拘わらず、最後には全部がまるで無かったかのように、六本木の街で少女は独りきりになるのである。男に声をかけられても、それをはねのけるのである。まるで取り込まれた観客が、放り出されたかのように。
本当に確かなのは、結局、ありのままの自分だけしかない。そんな声が聞こえてくるかのような幕引きだ。
そんな不思議な構造の骨格を象徴していると感じたのが、六本木少女の次の台詞。「下手(しもて)に生、上手(かみて)には死」 六本木は綺麗で、まるで生きているみたいだが、それは、岩を、森を、川を殺した産物なのだ、と少年に語る中の一節だ。
ぼくは演劇に詳しくないが、演者と観客に向きのずれがない様に、客席から見て右側を上手、反対側を下手というくらいは知っている。上座などの用語からも分かる様に、このとき、普通は、上手が価値の高い場所として扱われるらしい。そしてこの知識からぼくは、前の台詞に二つの意図を想像する。
ひとつは、上手、下手という表現を使った理由だ。演者の視点に立って考えれば、「左手に生、右手には死」でも構わないはずだ。それをあえて上手、下手にしたということは、演者の価値観に観客を引き込みたいという意図があったのではなかろうか。
そうして引き込まれた先にある価値観は、普通とは逆転している。なぜなら台詞は下手=生であり、上手=死だからだ。普通の感覚では価値の高い"生"をすり潰して、"死"の産物である六本木という街を作る。もし六本木に高い価値を認めるならば、観客はこの価値の逆転を受け入れなければならない。
こうして長いプロセスを経て観客を含めた世界を自身の宇宙に取り込んだにも拘わらず、最後には全部がまるで無かったかのように、六本木の街で少女は独りきりになるのである。男に声をかけられても、それをはねのけるのである。まるで取り込まれた観客が、放り出されたかのように。
本当に確かなのは、結局、ありのままの自分だけしかない。そんな声が聞こえてくるかのような幕引きだ。