月のかわいい一側面
一番かわいいのは……
レビュアー:USB農民
イザヤはかわいい。
前半部の物語は、イザヤのかわいさをこれでもかと強調するようなエピソードが綴られている。大阪弁やツンデレなどの記号的描写に加え、主人公を筆頭に、彼女のかわいさを賛美する人々が次々と登場する。この物語自体、彼女が人間離れしたかわいさを備えているからこそ成立している話なので、このような描写は、物語全体の説得力を生むため必然的に求められたのだろう。
かくいう私も、読んでいる間、イザヤをかわいいと思った。
しかし、物語の後半部、状況は一変した。
イザヤよりもかわいい存在が作中に現れるのだ。
それが「月うさぎ」である。
こいつが一番、かわいい。
月がぺろんとめくれていく様を、イラストで見せて行くというアイディアはとても良いと思う。しかし、卑怯なくらいかわいいイラストとともに現れた「月うさぎ」は、実は物語的には何の必然性もない存在だ。「月うさぎ」が現れなくても、主人公とイザヤの物語は語ることができる。
イザヤは作品内の世界において、最もかわいい存在でなくてはいけない。でないと、主人公の狂信的な動機についての説得力と、物語の緊張感が薄れてしまう。主人公が目指す目的はその世界で最大のものであることが望ましい。
だというのに、イザヤというヒロインをさしおいて、空気を読まずに「月うさぎ」は現れた。おそらくカレンダー小説という(物語とは別の)要素が、物語内における中秋の名月として、「月うさぎ」の登場を要請したのだろう。
そこにカレンダー小説としての必然性はあるが、物語にとっての必然性はない。
イザヤと「月うさぎ」は、どちらもかわいいが、両者の存在理由は異なっていて、なおかつ、作中でその二つの存在は深く関連しないまま、物語は閉じてしまう。
そのため、この作品の読後感は中途半端な印象になってしまっている。
物語を支えるかわいさと、カレンダー小説を支えるかわいさ。
この二つが上手く関連し合いながら機能していれば、読後感はもっとすっきりしたものになっていたと思うし、きっとラストシーンの感情の揺れも大きくなっただろう。
その点が、勿体なかったなあ、と感じる。
前半部の物語は、イザヤのかわいさをこれでもかと強調するようなエピソードが綴られている。大阪弁やツンデレなどの記号的描写に加え、主人公を筆頭に、彼女のかわいさを賛美する人々が次々と登場する。この物語自体、彼女が人間離れしたかわいさを備えているからこそ成立している話なので、このような描写は、物語全体の説得力を生むため必然的に求められたのだろう。
かくいう私も、読んでいる間、イザヤをかわいいと思った。
しかし、物語の後半部、状況は一変した。
イザヤよりもかわいい存在が作中に現れるのだ。
それが「月うさぎ」である。
こいつが一番、かわいい。
月がぺろんとめくれていく様を、イラストで見せて行くというアイディアはとても良いと思う。しかし、卑怯なくらいかわいいイラストとともに現れた「月うさぎ」は、実は物語的には何の必然性もない存在だ。「月うさぎ」が現れなくても、主人公とイザヤの物語は語ることができる。
イザヤは作品内の世界において、最もかわいい存在でなくてはいけない。でないと、主人公の狂信的な動機についての説得力と、物語の緊張感が薄れてしまう。主人公が目指す目的はその世界で最大のものであることが望ましい。
だというのに、イザヤというヒロインをさしおいて、空気を読まずに「月うさぎ」は現れた。おそらくカレンダー小説という(物語とは別の)要素が、物語内における中秋の名月として、「月うさぎ」の登場を要請したのだろう。
そこにカレンダー小説としての必然性はあるが、物語にとっての必然性はない。
イザヤと「月うさぎ」は、どちらもかわいいが、両者の存在理由は異なっていて、なおかつ、作中でその二つの存在は深く関連しないまま、物語は閉じてしまう。
そのため、この作品の読後感は中途半端な印象になってしまっている。
物語を支えるかわいさと、カレンダー小説を支えるかわいさ。
この二つが上手く関連し合いながら機能していれば、読後感はもっとすっきりしたものになっていたと思うし、きっとラストシーンの感情の揺れも大きくなっただろう。
その点が、勿体なかったなあ、と感じる。