ここから本文です。

レビュアー「横浜県」のレビュー

銀

上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史

ようこそ、美術展の会場はこちらです

レビュアー:横浜県 Adept

 これは一冊の美術展である。その会場は、東京・上野に実在する国立西洋美術館だ。読者の皆様には、文中の「わたし」をアバターとして、この美術展を味わっていただきたい。親しみを込めた口調でエスコートしてくださるのは、アートコンシェルジュを名乗る一人の男。さしずめこちらは筆者・山内氏のアバターとでも考えればよいだろう。
 さて、「わたし」は「彼」につれられるがまま、国立西洋美術館へと足を踏み入れる。しかし「彼」が美術館の示す順路を逆走しようとするので、「わたし」は驚くことだろう。最後の展示室・20世紀の絵画から見て回ろうとするのである。「彼」がいうには「現代から過去へと眺めていくと、歴史の転換点、因果関係、後世に真に影響を及ぼしたのはどの作品なのか、そういったことがはっきりしてきます。ポイントが、明瞭になるのですね」だそうだ。
 美術館の展示を逆行する。なんと斬新なエスコートだろうか。私がこの本を美術館ではなく美術展と呼んだ理由がここにある。「彼」はキュレーターと呼ぶに見劣りしない役割を担っている。キュレーターとは、いわゆる学芸員のことだ。展覧会のテーマを選択し、それに見合う作家や作品を選び出し、それらが最大限の効果を発揮しうるような陳列の順序・方法を考えるという重要な職務を負っている。「彼」がやってみせたことも同じである。「西洋絵画の全体像を体験する」というテーマを設定し、国立西洋美術館というしかるべき作家と作品たちの山を用意した。そして、逆走という独自の陳列順序を見出したのだ。絵画を並べただけの箱とは違う。そのような意味において、この一冊は、ただの美術館ではなく、美術展と呼ばれるにふさわしいのである。
 しかしこの美術展には、一つの大きな欠点があった。絵画の写真が、あまりにも少なすぎるのである。一方で、作品を鑑賞している人の様子や、美術館の内部を写したものは多く掲載されている。そこでは大事な被写体であるはずの作品が見切れている。ただこれにも二つの効果を見出せる。まずは舞台が美術館であるという設定のリアリティを増すというもの。次いで、上野に足を運んでみたいと読者に思わせるというものだ。つまり、こういった写真を通すことで、美術館にいる自分の姿をリアルに思い浮かべやすくなる。またそれにも関わらず作品のイメージが欠如していることへの不満というものが、より一層、駆り立てられてしまう。
 もしそのように実物を見たいという欲求が強く呼び起されたときには、この一冊を手に上野へと向かい、実際にその目で、身体で、西洋絵画の全体像を体験してほしい。それこそが、この展覧会『上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史』と、そのキュレーターである筆者・山内氏が、来場者である読者の皆様に対して望んでいることではないだろうか。幸運なことに、会場は国立西洋美術館の常設展である。開催期間は一年中。
「美の世界はいつでも、だれにでもちゃんと開かれておりますから」

「 ようこそ、美術展の会場はこちらです」の続きを読む

2013.06.11

銅

僕は写真の楽しさを全力で伝えたい!

押さないと始まらない。でも、押せば始まる。

レビュアー:横浜県 Adept

青山さんのことばを見て思ったんです。プロの写真家が、そんなこと言わないでよって。なにやら、センスがなくても、技術がなくても、写真は楽しくなるんですって。なんか嫌味っぽくないですか? センスも技術もある人に言われたって、信用できませんよ。でも、青山さんは断言するんです。この本を読めば、「写真が楽しくなります」って。そこまで言うなら説明してよと僕はページをめくります。

現れたのは、自分史。

そう、自分史です。青山さんが選んだのは、写真のよさを実証的に分析することでも、そのメソッドを体系的に説明することでもありませんでした。ただ写真が好きな自分を、写真とすごした人生を、赤裸々に語り始めたんです。そこには、写真をほめたたえるような美辞麗句はありませんでした。むしろ、それがどうしたっていう感じのエピソードが並んでいるにすぎません。でも、青山さんの「楽しい」という飾り気のない気持ちと、それを伝える数々の写真が、ひたすら僕の興奮を誘ったんです。たとえば、次の一節。

「むかし撮った写真は、技術的に見るとやっぱり、下手だなあって思う。
だけど、その下手さが、心底うらやましい。
あの頃の僕にしか撮れない写真たち。輝いて見えるよ」

そうか、上手とか、下手とかじゃないんだ。いまの自分に、何ができるのか、そして、何が撮れるのか。そんな、この瞬間の僕にしか見られないものを、「ぱちっ」と写真に収めてみる。それを楽しいと思ってみる。というか、楽しいんですよ。きっと。
「シャッターを押せば 人生は最高にカラフルになる」
そう、楽しいことは分かったんだから、あとはシャッターを押すだけでいいんです。
センスがなくても、技術がなくてもね。

「 押さないと始まらない。でも、押せば始まる。」の続きを読む

2013.05.29

銅

僕たちのゲーム史

『僕たちのゲーム史』は、いかにして歴史書であるか

レビュアー:横浜県 Adept

「スーパーマリオはアクションゲームではない」
第一章の題である。
そんな馬鹿な。
いくらゲームに詳しくないとはいえ、僕だって『スーパーマリオ』のことは知っているし、あれをRPGやADVだとは思わない。
それに、もし仮にアクションゲームではないとして、だから何だというのか。
僕たち読者が不思議に思うであろうことを見越して、著者はこう語る。


たしかに、現代の僕たちから見れば『スーパーマリオ』はれっきとしたジャンプアクションの傑作と言えます。しかし、それはあくまでも現代から見た考え方です。発売当時に右に挙げたような考え方で作られ、売られたことこそが『スーパーマリオ』というゲームを、そして当時のゲーム全体を知る上では最大のポイントになるのです。


そこで僕は初めて、この1冊が、ゲームの歴史に真正面から向き合おうとしていることに気がついた。
たとえば僕たちが、いわゆる歴史を学ぶときに、どうしているか。
縄文時代の風習である抜歯について、虫歯ができたのかな、と思う人はいないだろう。また江戸時代の切捨御免について、刑法に規定されている殺人罪にあたるよ、とツッコミをする人もいないだろう。
現代の価値観に基づいて、過去の文化や風習を捉えることはできない。
それらが真に、どのような意味を持っていたのかを、理解・推測するためには、当時の社会や、ものの見方に則って考える必要がある。
何百年、何千年と昔のことを思い浮かべるとき、僕たちは、これを意識せずとも行うことができる。
しかし、たかだか30年くらい前のことになると、何故だか忘れてしまいがちになるのだ。

『僕たちのゲーム史』は、そんな当たり前のことを、されど僕たちが見落としていたことを、しっかりと実践している。
著者がTwitterで「過去のゲーム雑誌・書籍・広告からの大量の引用を含む本」であり、「史料を読む本」であると述べているのも、やはり過去に即して書かれた本だからだろう。
決して現代から俯瞰することなく、過去に寄り添いながら記述され、その結果として「ゲームとは何なのか」という全体像を明らかにする。
『僕たちのゲーム史』は、確かに歴史書である。

「 『僕たちのゲーム史』は、いかにして歴史書であるか」の続きを読む

2013.04.30

銀

『ひぐらしのなく頃に解 第四話 祭囃し編』 の表紙

物語と彼らを見送る

レビュアー:横浜県 Adept

本編最終話にあたる祭囃し編の表紙は、今までのものと趣向が異なっています。
鬼隠し編から皆殺し編にいたるまでは、1冊ずつのイラストが独立していました。各巻1人、ときに数人のキャラクターが中央に据えられています。
祭囃し編はどうでしょうか? なんと上中下巻の表紙絵が繋がっています。これら3冊を横に並べると、1つのイラストが完成する仕組みになっているのです。
はじめ上巻が発売されたときには、もちろんながら見抜けませんでした。中巻の表紙で気がつき、下巻の発売と同時に3枚の絵を床の上でくっつけてみました。

イラストの舞台は祭りの会場です。作中に登場する綿流し祭でしょうか?
みんながとても楽しそうです。上巻の帯にある「惨劇」の2文字が、とても似つかわしくありません。上巻発売時は不思議に思ったものです。いまから最終決戦だというのに、なんでこんなに愉快な表紙なのでしょうかと。
でも完結後に再び眺めてみると、これは下巻で大団円、幸せな結末を迎えたあとのものだと分かります。

またメインキャラクターたちの笑顔も素敵ですが、その後ろに描かれている人混みにも注目したいですね。赤坂や大石など、重要な脇役たちが顔を揃えています。ほとんどの巻で死んでいたはずのキャラクターもいますね。
祭囃し編では、誰も死ななかったのだと、みんなが幸せになれたのだと、そう実感できる表紙に仕上がっています。

ちなみに上巻には圭一とレナが描かれています。みんなは彼らを先頭にして、ぞろぞろと歩いているんです。
ようは上巻、中巻、下巻と順に繋いでいく度に、彼らの行列は後ろへ後ろへといくわけです。そこにはある種の哀愁を感じます。長かった物語も、ついに終わりを迎えたのですね。祭囃し編を1冊読んで次へ進むごとに、僕たちは彼らを数人ずつ見送ることになるわけです。

そんな彼らは、決してこっちに顔を向けてはくれません。それぞれが、それぞれの方向を見ています。
ただ1人だけ、こちらをじっと眺めているキャラクターがいました。
下巻に描かれている梨花ちゃんです。
作中での彼女は、惨劇の全てを知る裏の主人公でした。どうやらこのイラストにおいても、他のキャラクターを超越する立場にあるようです。こっちが「視える」んですね。彼女はどこか含みのある目線を投げかけてきます。でも口元は確かに笑っていて、この先の、祭囃し編の向こうにある、明るい未来を感じさせてくれるのでした。

そして彼女の左手は、不自然に挙がっています。こちらを向いて。
これで『ひぐらしのなく頃に』の本編は終わったのだと、別れを告げるように。
僕はやはり、それを見送りながら、手元にある3冊の本を、棚にしまうのでした。

最前線で『ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編』を読む

「 物語と彼らを見送る」の続きを読む

2012.06.08


本文はここまでです。