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レビュアー「横浜県」のレビュー

銀

死ぬのがこわくなくなる話

話の虚実、僕という存在の虚実

レビュアー:横浜県 Adept

物語は作者・渡辺浩弐と同一同名の主人公が死について追究するところから始まる。
そこには地道な下調べに基づく知識と考察が記されていた。
もともと小説だと思って読み始めた僕は、とことん面食らったものだ。
しかしノンフィクションだと理解したのも束の間、物語は再び虚構の世界へと飛びこんでいく。
渡辺浩弐は人の生死を扱う秘密結社と対峙することになる。
彼の思索は次第に深まり、やがては形而上の概念にまで行きつく。
「自分とは何か」
いま自分が自分だと思っているものは、つい数分前まで別の何者かであったかもしれない。そして数分後には、また別の何者かになっているかもしれない。
考え始めればキリのない問答であるが、この主張はある種の科学的な説得性を伴って語られる。
ちなみに、ここまで渡辺浩弐は一度もこの物語がフィクションであるとは述べていない。あくまで現実の話であるかのように振る舞っていた。
だから僕はどうせ虚構なのだと高をくくっていた。彼のネタばらしを待っていた。
やがて物語が終わりを迎えたとき、渡辺浩弐はついに宣言する。
「こ れ は [小説] で す」
彼の種明かしを読んだ僕は、ほらほらやっぱりそうじゃないか、と笑みをこぼす。はずであった。そうではなかった。
落ち着かない。さっさとしろよと心中で急かしてすらいた言葉なのに、それを目にしたせいで、かえって胸騒ぎがする。
なぜか。先の理論が頭をもたげてくるからだ。
この物語が虚構であることを宣言した渡辺浩弐は、いつから渡辺浩弐だったのか。この話が始まったときからなのか。それとも、ついさっきからなのか。
なまじ科学的な解説がされていたせいで、ありえない話だと切り捨てることができない。
もしかしたらこの物語に描かれていたことは全て事実で、入れ替わったばかりの渡辺浩弐が嘘をついているのではないのか。
いいや、実際には全てが虚構だなんて分かり切っている。こうやって僕が訝しむことすら、彼の、そして彼が作った物語の思惑通りなのだと。
だけれど、それでも、怖いのだ。
理由は簡単なことで、渡辺浩弐への疑いの眼差しが、そっくりそのまま僕にはねかえってくるからだ。
いまの渡辺浩弐が、かつての渡辺浩弐であるのか定かではない。
同様に、いまの僕が、かつての僕であるかもまた不明瞭なのだ。
そう気づかされたとき、僕は死ぬのがこわいだとかこわくなくなるだとか、そんなものはもうどうでもよくなった。
いまの僕は何者なのだ。僕はこれから何者になり、何者が僕になるのか。僕は輪廻の中で永遠に生き続ける。
それは死を超越した恐怖だ。
『死ぬのがこわくなくなる話』
本作の題は正しかった。しかしその向こう側にある、もっと根源的かつ大きな恐怖に直面させられる。
だからしっかりと、生きなければいけない。
「自分とは何か」を意識できるようになったそのとき、本当に「こわくなくなる」日がやってくるだろうから。

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2012.05.18

銅

星海社朗読館『銀河鉄道の夜』 第9章「ジョバンニの切符」

物語る声にひたって

レビュアー:横浜県 Adept

朗読館『銀河鉄道の夜』は第9章「ジョバンニの切符」から始まる。ジョバンニとカムパネルラは、もう銀河鉄道に乗っている。それは宇宙を走っている。『銀河鉄道の夜』を未読の人は少ない。僕もあらすじを覚えている。でもいきなり第9章を読んだって、状況を理解できるわけがない。僕はページをめくりつつ、銀河鉄道の内部を少しずつ思い描く。しかしこの想像という作業は疲れる。物語を無理に途中から追うような機会は普通ないのだから。そこで僕は付属のCDを聴こうとする。坂本真綾の心地よい朗読が始まる。自分で物語の風景を考えることをやめて、流れてくる言葉にひたすら身を任せる。彼女が「ごらんなさい」と言う。「あれが名高いアルビレオの観測所です」すると頭の中に観測所が現れる。「黒い」と言う。脳内の観測所が黒くなる。「大きな」大きくなる。「四棟」四つになる。僕は何も考えない。ただ彼女の声に聴き入り、受け流されるままでいる。それでも銀河鉄道は、ジョバンニとカムパネルラは、だんだんと形作られていった。そうやって僕はいつものように、物語の世界へと没入していく。朗読館が第9章から始まるということは、むしろ素敵なことなのかもしれない。朗読がもつ力、読者の想像を自然に喚起する力。それをいっそう味わうための趣向であるようにすら思えた。やがて「もう一目散に河原を街の方へ走りました」と最後に彼女は読み上げた。ジョバンニが走り出した。そしてCDが止まったそのとき、頭の中のスクリーンには幕が下ろされた。

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2012.05.18

銅

ミリオンセラータイトルズ

心ひかれるにつれて、僕はやるせない

レビュアー:横浜県 Adept

これはひどいコーナーだ!
「ミリオンセラータイトルズ」
星海社新書の編集長である柿内さんが、思いついた新書のタイトルを毎日更新するコーナーである。
色んなタイトルが並んでいて、その種類も様々だ。いくつか紹介しよう。

まずは共感したくなるタイトル。
「それ分かる分かる!」と思わず身を乗り出してしまうようなものだ。
たとえば『寝てない自慢』
柿内さんは「SO WHAT? という感じ。あなたの努力なんて知ったこっちゃないですよ」とつけたしている。
どこに行っても「昨日ぜんぜん寝てないわー」と頼んでもいない報告をしたがる人はいるわけで。柿内さんみたいに「SO WHAT? (それがどうしたっていうんだい?)」と訊いてみたくなる。なぜそんな自慢をしたがるのか。
このように「それ分かる分かる!」でも「どうして?」という、日常で出会う疑問にクローズアップしてくれるのだ。

次に新しい視点を与えてくれるタイトル。
「え? そうなの?」と今まで思いもしなかった切り口にみえるものだ。
たとえば『編集者は自分でつくった本を実践できない』なんて言われたら、「そんなぁ」と失望したくなる。『哲学を知ってはいけない』と忠告されたあかつきには、「なんでやねん!」とツッコミを入れたくなる。(そんな僕は大学で哲学がしたいのであるからして……)
このように「え? そうなの?」それは「どうして?」という、今まで自分の中にはなかった疑問を生んでくれるのだ。

3つ目に僕らの欲求を満たしてくれそうなタイトル。
「どうすればいいの?」と縋りつきたくなるようなものだ。
たとえば僕は、苦手な『子供とうまく話したい!』と思っているし、上手なスケジュール管理をするために、『手帳に予定を入れる技術』を身につけたいと思っている。
このように「どうすればいいの?」自分にそんな技術がないのは「どうして?」とご教授ねがいたくなるのだ。

いま僕は3つの例を上げたけれど、もちろん他にも分類の仕方はあると思うし、どれにも当てはまらないタイトルだってある。
ただ確かなことが1つだけある。全てが新書の敏腕編集者である柿内さん渾身のタイトルということだ。
どのタイトルにも、色んな好奇心をそそられてしまう。
柿内さんの新書タイトルにおけるあらゆるノウハウを、僕たちはそこに見てとることができるのだ。
「タイトルには1億円の価値がある」とおっしゃるだけのことはある。参りました。

だからこそ僕は、1行目で述べた通り「これはひどいコーナーだ!」と思う。
だって僕らの好奇心をこれだけ煽っておいて、いくつもの「どうして?」を作り出しておいて、そこにはあるのはタイトルだけ、本文はないのだから!
湧き上がった知的欲求を鎮めるべくもあらず!
まぁコーナー概要には、一応「マジ企画」のタイトルもあると書いてありますけれど。早くこのコーナーから新書が誕生することを祈っています。
そんな文句を垂れながら、僕は今日もまた1つ、また1つと好奇心をかきたてられるのだ。
なんてこったい!

ジセダイで『ミリオンセラータイトルズ』を読む

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2012.05.18

銅

レッドドラゴン

久しぶりに出会う、見えない著者

レビュアー:横浜県 Adept

初めてTRPGに出会ったのは『風の聖痕RPG』だった。
同名のライトノベルが題材で、リプレイ本も発売された。
そもそもTRPGとは、複数人が会話形式でゲームを進めていく遊戯だ。
そこに用意されたシナリオはなく、筋書きは即興で生み出される。
またリプレイとは、ゲーム中に交わされた会話を脚本風に編集したものだ。
私は『風の聖痕RPG』のリプレイを読みながら、その場で物語が紡がれていく臨場感に興奮したのを覚えている。
著者の欄には「三輪清宗」とあり、あとがきでは彼のリプレイ処女作であることが記されていた。関係者への謝辞など、随所には初々しさが見受けられて、なぜか「初めて読むリプレイには丁度よかったのかしら」なんて一方的な親近感を抱いた。

『風の聖痕RPG』以来、私はTRPGのリプレイを読むようになった。
著者の作り上げたセッションが、私をTRPGの世界へと引き込んだのだ。
あれから4年半が経過したいま、私は再び彼の携わる作品に出会った。
星海社の『レッドドラゴン』である。
ルールシステムの担当が「三田誠ならびにTRPG界にこの人ありと謳われる三輪清宗、小太刀右京」の3人とされている。
驚いたものだ。初な言葉で処女作上梓について語っていたあの著者がだ。いつのまにやら「TRPG界にこの人あり」と呼ばれているだなんて。
どうやら実際には、TRPGの黎明期を当事者として体験していた方らしい。第一線で活躍されるまでになるのも納得である。

さて『レッドドラゴン』の公開が待ち遠しくてたまらなくなった私は、やがて1つの間違いに気がついた。
あくまで彼は『レッドドラゴン』のゲームデザイナーである。ゲームの進行役でもない。だから公開されたリプレイを読んだところで、私は彼の姿を作品の中に確認できるはずがなかったのだ!
特に本作のプレイヤーには名だたるクリエイターが並んでいる。そのためゲームより物語の側面が強調され、「RPF(ロールプレイングフィクション)」という造語でもってジャンル分けされていた。
なおさら姿が見えないわけである。

「残念だなぁ」と嘆きつつ、彼のTwitterを眺めてみる。
そこで私は、新たに1つの間違いに気がついた。
ツイートには本作に対しての熱い言葉が並んでいた。例えばこう書かれている。
「ゲームデザイナーとしては、『レッドドラゴン』は先人への感謝の想いと、これから来る後進へのバトンとして作りました。あくまでも作品としては物語が主であり、システムは従ですが、ゲームデザイナーとしてはそんな気持ちで作ったのです」
作品に彼の姿が見えない、私はただそのことに囚われていた。
でもたとい見えなくなって、彼は確かに『レッドドラゴン』へ想いを注ぎ込んでいるのだ。私はそれを感じとるべきだった。
また彼は「今まで見てきたTRPGの歴史」を本作に詰め込んだのだという。
ならば目の前で紡がれているこの物語が、今この形でここにあることは、彼のノウハウが注ぎ込まれたことによって成されているのではないのか。
彼のような裏方がいなければ、『レッドドラゴン』は成り立っていない。それを失念していた。

そう思って作品を見つめ直してみる。
確かに彼の姿は見えない。まるで見えてこない。
そこではセッションが滞りなく進み、自然と物語が生まれていく。
読者はただ、文字におこされた会話にのみ集中をする。
ゲームデザイナーの影がチラつくこともない。裏方の存在に思いを馳せるべくもない。
でも私たちがそうやって物語に没入できるのは、ゲームデザイナーの仕事が申し分ないからではないか。
緻密で決して揺るがず、されど柔軟なゲームシステムを、彼らが作り上げたからではないか。
ゆえにゲームは盤石な土台の上で行われ、私たちはその基礎に意識を向けることなく、物語だけを見つめることができるのだ。
『レッドドラゴン』において、裏方の姿は決して見えてこない。
だが見えないからこそ、むしろ見えてくる仕事ぶりがある。
かつて私をTRPGの世界に引きずり込んだ三輪清宗の姿が、あのときより大きく、力強く浮かび上がってくる。
セッションが何事もなく進行し続ける今、だから私はとても嬉しい。

最前線で『レッドドラゴン』を読む

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2012.05.18


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