レッドドラゴン
久しぶりに出会う、見えない著者
レビュアー:横浜県
初めてTRPGに出会ったのは『風の聖痕RPG』だった。
同名のライトノベルが題材で、リプレイ本も発売された。
そもそもTRPGとは、複数人が会話形式でゲームを進めていく遊戯だ。
そこに用意されたシナリオはなく、筋書きは即興で生み出される。
またリプレイとは、ゲーム中に交わされた会話を脚本風に編集したものだ。
私は『風の聖痕RPG』のリプレイを読みながら、その場で物語が紡がれていく臨場感に興奮したのを覚えている。
著者の欄には「三輪清宗」とあり、あとがきでは彼のリプレイ処女作であることが記されていた。関係者への謝辞など、随所には初々しさが見受けられて、なぜか「初めて読むリプレイには丁度よかったのかしら」なんて一方的な親近感を抱いた。
『風の聖痕RPG』以来、私はTRPGのリプレイを読むようになった。
著者の作り上げたセッションが、私をTRPGの世界へと引き込んだのだ。
あれから4年半が経過したいま、私は再び彼の携わる作品に出会った。
星海社の『レッドドラゴン』である。
ルールシステムの担当が「三田誠ならびにTRPG界にこの人ありと謳われる三輪清宗、小太刀右京」の3人とされている。
驚いたものだ。初な言葉で処女作上梓について語っていたあの著者がだ。いつのまにやら「TRPG界にこの人あり」と呼ばれているだなんて。
どうやら実際には、TRPGの黎明期を当事者として体験していた方らしい。第一線で活躍されるまでになるのも納得である。
さて『レッドドラゴン』の公開が待ち遠しくてたまらなくなった私は、やがて1つの間違いに気がついた。
あくまで彼は『レッドドラゴン』のゲームデザイナーである。ゲームの進行役でもない。だから公開されたリプレイを読んだところで、私は彼の姿を作品の中に確認できるはずがなかったのだ!
特に本作のプレイヤーには名だたるクリエイターが並んでいる。そのためゲームより物語の側面が強調され、「RPF(ロールプレイングフィクション)」という造語でもってジャンル分けされていた。
なおさら姿が見えないわけである。
「残念だなぁ」と嘆きつつ、彼のTwitterを眺めてみる。
そこで私は、新たに1つの間違いに気がついた。
ツイートには本作に対しての熱い言葉が並んでいた。例えばこう書かれている。
「ゲームデザイナーとしては、『レッドドラゴン』は先人への感謝の想いと、これから来る後進へのバトンとして作りました。あくまでも作品としては物語が主であり、システムは従ですが、ゲームデザイナーとしてはそんな気持ちで作ったのです」
作品に彼の姿が見えない、私はただそのことに囚われていた。
でもたとい見えなくなって、彼は確かに『レッドドラゴン』へ想いを注ぎ込んでいるのだ。私はそれを感じとるべきだった。
また彼は「今まで見てきたTRPGの歴史」を本作に詰め込んだのだという。
ならば目の前で紡がれているこの物語が、今この形でここにあることは、彼のノウハウが注ぎ込まれたことによって成されているのではないのか。
彼のような裏方がいなければ、『レッドドラゴン』は成り立っていない。それを失念していた。
そう思って作品を見つめ直してみる。
確かに彼の姿は見えない。まるで見えてこない。
そこではセッションが滞りなく進み、自然と物語が生まれていく。
読者はただ、文字におこされた会話にのみ集中をする。
ゲームデザイナーの影がチラつくこともない。裏方の存在に思いを馳せるべくもない。
でも私たちがそうやって物語に没入できるのは、ゲームデザイナーの仕事が申し分ないからではないか。
緻密で決して揺るがず、されど柔軟なゲームシステムを、彼らが作り上げたからではないか。
ゆえにゲームは盤石な土台の上で行われ、私たちはその基礎に意識を向けることなく、物語だけを見つめることができるのだ。
『レッドドラゴン』において、裏方の姿は決して見えてこない。
だが見えないからこそ、むしろ見えてくる仕事ぶりがある。
かつて私をTRPGの世界に引きずり込んだ三輪清宗の姿が、あのときより大きく、力強く浮かび上がってくる。
セッションが何事もなく進行し続ける今、だから私はとても嬉しい。
最前線で『レッドドラゴン』を読む
同名のライトノベルが題材で、リプレイ本も発売された。
そもそもTRPGとは、複数人が会話形式でゲームを進めていく遊戯だ。
そこに用意されたシナリオはなく、筋書きは即興で生み出される。
またリプレイとは、ゲーム中に交わされた会話を脚本風に編集したものだ。
私は『風の聖痕RPG』のリプレイを読みながら、その場で物語が紡がれていく臨場感に興奮したのを覚えている。
著者の欄には「三輪清宗」とあり、あとがきでは彼のリプレイ処女作であることが記されていた。関係者への謝辞など、随所には初々しさが見受けられて、なぜか「初めて読むリプレイには丁度よかったのかしら」なんて一方的な親近感を抱いた。
『風の聖痕RPG』以来、私はTRPGのリプレイを読むようになった。
著者の作り上げたセッションが、私をTRPGの世界へと引き込んだのだ。
あれから4年半が経過したいま、私は再び彼の携わる作品に出会った。
星海社の『レッドドラゴン』である。
ルールシステムの担当が「三田誠ならびにTRPG界にこの人ありと謳われる三輪清宗、小太刀右京」の3人とされている。
驚いたものだ。初な言葉で処女作上梓について語っていたあの著者がだ。いつのまにやら「TRPG界にこの人あり」と呼ばれているだなんて。
どうやら実際には、TRPGの黎明期を当事者として体験していた方らしい。第一線で活躍されるまでになるのも納得である。
さて『レッドドラゴン』の公開が待ち遠しくてたまらなくなった私は、やがて1つの間違いに気がついた。
あくまで彼は『レッドドラゴン』のゲームデザイナーである。ゲームの進行役でもない。だから公開されたリプレイを読んだところで、私は彼の姿を作品の中に確認できるはずがなかったのだ!
特に本作のプレイヤーには名だたるクリエイターが並んでいる。そのためゲームより物語の側面が強調され、「RPF(ロールプレイングフィクション)」という造語でもってジャンル分けされていた。
なおさら姿が見えないわけである。
「残念だなぁ」と嘆きつつ、彼のTwitterを眺めてみる。
そこで私は、新たに1つの間違いに気がついた。
ツイートには本作に対しての熱い言葉が並んでいた。例えばこう書かれている。
「ゲームデザイナーとしては、『レッドドラゴン』は先人への感謝の想いと、これから来る後進へのバトンとして作りました。あくまでも作品としては物語が主であり、システムは従ですが、ゲームデザイナーとしてはそんな気持ちで作ったのです」
作品に彼の姿が見えない、私はただそのことに囚われていた。
でもたとい見えなくなって、彼は確かに『レッドドラゴン』へ想いを注ぎ込んでいるのだ。私はそれを感じとるべきだった。
また彼は「今まで見てきたTRPGの歴史」を本作に詰め込んだのだという。
ならば目の前で紡がれているこの物語が、今この形でここにあることは、彼のノウハウが注ぎ込まれたことによって成されているのではないのか。
彼のような裏方がいなければ、『レッドドラゴン』は成り立っていない。それを失念していた。
そう思って作品を見つめ直してみる。
確かに彼の姿は見えない。まるで見えてこない。
そこではセッションが滞りなく進み、自然と物語が生まれていく。
読者はただ、文字におこされた会話にのみ集中をする。
ゲームデザイナーの影がチラつくこともない。裏方の存在に思いを馳せるべくもない。
でも私たちがそうやって物語に没入できるのは、ゲームデザイナーの仕事が申し分ないからではないか。
緻密で決して揺るがず、されど柔軟なゲームシステムを、彼らが作り上げたからではないか。
ゆえにゲームは盤石な土台の上で行われ、私たちはその基礎に意識を向けることなく、物語だけを見つめることができるのだ。
『レッドドラゴン』において、裏方の姿は決して見えてこない。
だが見えないからこそ、むしろ見えてくる仕事ぶりがある。
かつて私をTRPGの世界に引きずり込んだ三輪清宗の姿が、あのときより大きく、力強く浮かび上がってくる。
セッションが何事もなく進行し続ける今、だから私はとても嬉しい。
最前線で『レッドドラゴン』を読む