ここから本文です。

レビュアー「横浜県」のレビュー

銅

Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話

これは始まりに至るための物語

レビュアー:横浜県 Adept

「これは始まりに至る物語――」
でも僕はその「始まり」を知らない訳で。「Fate」と言えば格闘ゲーム「unlimited codes」でキャラの名前を覚えたぐらい。あとはマスターさんとサーヴァントさんが聖杯なるモノを争う事、遠坂凛が可愛い事は知っています。
友達から「マスターとサーヴァントは人名じゃないよ」と突っ込まれた夏の日も、今ではいい思い出です。
そのため「Zero」に手を出すのは、いずれ本編をプレイしてからと敬遠していました。
でも騎士団のレビューを見る限り、どうも「Fate」初心者だからといって楽しめない事はないらしい。だったら文庫版が発売されたこの機会に読んでみよう! ……と言う事で買ってきました。

ところがどっこい。
プロローグまで目を通した時の印象は、「正直分かりにくいなー」
やっぱり世界観を一から理解するのは少し難しいようで。あとちょっと説明が詳しければ、と思う箇所も多々ありました。
ただプロローグさえ乗り切れば、後はすんなりと読み進められましたね。
TYPE-MOONや虚淵玄独特の雰囲気を好きになれるか否か、まず最初で振り分けられるという意味では、決して悪くない気もしましたけれど。

また読み始めでは、世界観にどっぷりと浸かるまでには至れないため、この先の展開には漠然とした期待しか抱けませんでした。
ACT.1に突入すると、やっと作品を読む上での基礎知識が固まり、ある程度の土台ができ始めます。すると先程まではただ宙に浮いていただけの期待や妄想が、徐々に形を伴ってきます。今後の展開を予測するに足る情報量が身についたからです。

それでもやはり、僕が本編を未プレイであることは、至極勿体無い事だなぁと感じられます。「unlimited codes」で使用できるキャラが登場する度に、本編と「Zero」がリンクするような場面において、彼ら本編プレイヤーは如何ほどの感慨深さを抱いているのでしょうか。想像もつきませんね。
一方で未プレイだからこその楽しみ方もあります。表紙裏の煽り文によると、本編では「Zero」の内容が、断片的にではあれど語られていたようですね。ですがそれすらも僕は見ていない訳です。要するにこの先の展開を全く持って知り得ないのです。誰が聖杯を手に取るのか。誰が願い叶わず死に絶えるのか。今にも二巻の表紙を捲りたい! 気持ちが逸るばかりです。

「Zero」を独立した一つの物語として享受する事ができる点においては、僕も幸せ者だったようです。「『Fate』を知らないから」と足踏みしている方々も、是非「Zero」そのものを楽しむつもりで、気軽に読んでみればいかがでしょう。
しかしあとがきでは、読後に「どうしようもなく満たされぬ飢餓感が残ることだろう」とも記されています。「Fate」本編をプレイしない限り、完全な充足感を得られないという事です。これから僕は全六巻を読み切り、やがて本編をプレイしたくて堪らなくなるのでしょう。
どうやら僕にとっての「Fate/Zero」は、自分自身が「始まりに至るための物語」だったようです。

「 これは始まりに至るための物語」の続きを読む

2011.03.22

銅

名探偵 夢水清志郎事件ノート 亡霊は夜歩く

魅力なき男に惹かれる理由

レビュアー:横浜県 Adept

 i

 人々はどうして「名探偵・夢水清志郎」に惹かれてしまうのか。
 小学生の時に原作シリーズと出会った私も、第一巻「そして五人がいなくなる」を読んだ次の日には、本屋へと走って続きを買い漁った。しかし同時に違和感も覚えていた。自ら進んで首を突っ込まない、事件の解決を渋る、挙句の果てには「説明がめんどくさい」とのたまう始末。「こんな名探偵が存在していいのか」と率直に疑問だった。
 そもそも事件を解決する事こそ、名探偵が存在する目的ではないのか。
 私達は現実世界において、明確な答えを弾き出せない問題に何度も直面する。それ故にフラストレーションを抱え、誘われるが如くフィクションにのめり込んでしまう。そこでは数々の名探偵が待っていて、白黒つけられぬ現実では味わえない爽快感を与えてくれる。
 ところがどっこい夢水だけは違った。彼は三姉妹を、そして私達読者を徹底的にじらす。勿論ミステリなのだから、最終的には謎解きがなされるのだけれど。それが分かっているからこそ、夢水への期待は膨らむ一方であり、私達はフィクションの中ですら、もどかしさを感じずにはいられなくなる。
 我慢の先に得られる謎の答えは、いつも以上に味わい深い。「さっさと解決しろよ」と心の中で毒づいていた筈の夢水に、いつの間にやらレーチの如く、尊敬の眼差しを向けてしまうのだ。
 中々答えを得られない現実じみたプロセスが、読者に親近感を湧かせる一方で、フィクションならではの心地好い感覚も抱かせる。これぞ将に両刀遣い、はやみねかおる恐るべし。


 ii

 だがとんでもないのは原作者だけでは無かった。当然ながら漫画家である。
「名探偵・夢水清志郎」が漫画になるのは今回が初めてではない。一つは「ファウスト」で連載された物から始まり、この最前線へと繋がる箸井地図版。第二に、「なかよし」で連載中のえぬえけい版がある。
 この二つは大きく異なっている。後者は少女マンガ誌という制約の下で夢水がイケメンになっているなど、原作をアレンジした部分が多く見受けられる。そのため、より原作に近いのは前者であると言える。箸井地図版が生まれた目的は、忠実なコミカライズも作りたかったが故ではないだろうか。
 箸井地図の描く夢水は、はっきり言って魅力がない。箸井地図の画力が問題なのではない。むしろ素晴らしい出来だ。何度も言う通り、彼の絵は原作に忠実である。長身のひょろひょろとした身体。レンズの小さなサングラスに、姿を覗かせぬ眼球。文句のつけようがない程に、「コイツが名探偵か?」と疑いたくなる。
 しかし名探偵らしいとはお世辞にも言えないこの風貌が、実は前述した夢水のもどかしさと魅力を増幅している。「私達に分からない事件の謎を、どうしてこの男は解きうるのか、変人なのに」と思わず頭を抱えてしまい、彼の事をもっと知りたくなってしまうのだ。
 名探偵には見えないからこそ、名探偵なら面白い。私達の倒錯した好みが、見事に捉えられている。


 iii

 ただ一つ警告しておけば、何も夢水がステレオタイプの名探偵に勝っていると主張するつもりはない。勿論ながら夢水は、名探偵としてイレギュラーである。だが彼が例外として存在しうるのは、その他無数の「らしい」名探偵達がいるからである。彼らとの比較が成り立たなければ、夢水の変則性が映える事などあるまい。
 もしイレギュラーな名探偵が氾濫したならば、それは最早JDCだ。誰が何と言おうと清涼院流水の仕業だ。ミステリの内部にありながら、独特の世界として閉じてしまう危険性がある。その最たるものがライトノベルミステリではないか。キャラに重点を置き過ぎた所為で、ジャンル同士の間に浮かんでしまっている。要はステレオタイプと例外、この両者が絶妙な配分で存在しなければならない。
 古典ミステリも刊行済みの青い鳥文庫で産声を上げた「名探偵・夢水清志郎」は、そういった意味で生まれた場所に恵まれていたのかも知れない。さらに興味深いのは、その後舞台を移した「ファウスト」と「最前線」が、どちらも出版界におけるイレギュラーであると言う事。例外達の巣窟である両者は、コミカライズの場として最適だったのではないだろうか。


 iv

 フィクション内の存在として、誰もが憧れる「名探偵」
 その一人だとは決して思えないような行動と外見にも関わらず、私達の期待に見事応えてみせる夢水清志郎。彼が持つ魅力の神髄は、そんなギャップにあった。そして私達は第二の夢水が現れる事を心待ちにしながら、彼の事件解決はまだかと、やきもちした気持ちを今日も抱き続ける。

「 魅力なき男に惹かれる理由」の続きを読む

2011.03.01

銅

空の境界 the Garden of sinners

コミカライズの「守・破・離」

レビュアー:横浜県 Adept

「最前線」というサイトで「空の境界」がマンガ化するって言うからさ、どうせJの仕業だろうと呆れつつ感謝しつつ覗いてみたんだ。
作品紹介によると「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」らしい。
でもむしろ、僕達はどう足掻いたって「描破・創造する」事しかできないんじゃないだろうか。それが商業作であれ二次創作であれね。

小学六年生で「空の境界」に出会った時、僕は一体何に惹かれたんだろうなって考えてみたんだ。
ぶっちゃけた話、購入の動機は武内崇の表紙絵が気に入ったから。
だって当時は児童書ミステリしか読んでないのにさ、「新伝奇ムーブメント」って言われても言葉の意味が分かんないし。むしろ全国一億三千万の国民人口からすれば、理解出来たらマイノリティなんじゃないかな。
だから作品のあらすじを読んでもいまいちどんな話かは分からなくて。だってもし友達が「直死の魔眼」とか言い出したら、厨二病かと疑いたくなるに決まってる。いや、あの頃はまだ厨二病なんて単語は無かったんだっけ。
でも作品のジャンルも予想できないくせにレジまで持って行かされた僕は、やっぱり着物とジャケットを同時に着こなして、粋にナイフを構えた式の姿に萌えてしまったんだと思う。
それ故僕にとって、武内崇のイラストは「空の境界」と切っても切り離せなくなった。だから最前線でのコミカライズ版を読む上で、僕の中にあるイメージが壊れてしまったりしないかと不安だったんだ。それに武内崇の絵が「空の境界」における看板役であると考えているのは、決して僕だけじゃ無い筈。
映画化でも作画に多少の違いは出てしまうけれど、やはりある程度の画風は踏襲されるからね。一方で漫画だと、どうしても漫画家の個性が色濃くなってしまう。今までも好きなアニメが漫画化されて、裏切られた事がどれだけあったろうか。遠い目もしたくなるよね。
その上、武内崇の絵は凄い独特だから尚更困っちゃう。「パンドラ」でのインタビューでも、Jが「武内さんは絵がうまくない」「でも、ものすごくいい絵だ」と評したエピソードが載ってるぐらいだしね。奈須きのこが創る世界観に合うイラストなんて、他に描ける人がいるのかって思ったし、実際いないんだろう。
だからこそ、天空すふぃあはその世界を「描破・創造する」ことしかできないんだ。最前線のスタッフもそれが分かっていたから、こんなキャッチフレーズを考えたんじゃないかな。

ただ別に天空すふぃあのコミカライズが、原作の世界観を壊してしまうだとか、全くの別物や亜種になるだなんて思いはしない。
僕は昔空手をやってたんだけど、そこには「守・破・離」って物の考え方があった。天空すふぃあがこの最前線で実行しようとしているのは、将にこの「守・破・離」と近いものに感じるんだ。
まずは「守」
師の流儀を習い、それを型通りに行い守って修行に励むことだ。
TYPE-MOONコンビの世界観に沿う事で、原作のイメージを破壊しない事が求められる。
次に「破」
師の流儀のみに留まれば型に嵌ってしまう。それを避けるために型を破り、他流派も学ばなくてはならない。
先にも述べた通り、ただ彼らの世界観をなぞるだけでは、紛い物にしかなり得ないし、新たな高みに達する事など出来やしない。自分なりの味を付け加える必要がある。
最後に「離」
研鑽の末に得た独自の体系を完成させ、新たな一流を生み出す。
コミカライズ版「空の境界」として、原作ファンと新規ファンのどちらからも愛され、それでいて漫画ならではの世界観が、精巧かつ原作と矛盾なく構築される。これこそが、目指されるべき到達点ではないかな。

「守・破・離」ってのは武道や華道なんかで使われる言葉だけれど、それらに限らずどんな事をする上でも辿られうる手順だと思う。「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」のなんて、もろに「守・破・離」そのものだ。天空すふぃあにならそれが出来るに違いない。
第一場で掲載されたHumanity氏のレビューでも「緻密に計算されたオリジナル要素とキャラの魅力を最大限に引き出す筆致」と評価されている。原作の魅力を十分に引き出しつつ、ただ忠実に再現するだけに留まらない。
これぞ漫画界における「新伝奇ムーブメント」!
で、結局この言葉はどういう意味なんだろうか。我が家の広辞苑に載ってないんだけど。

「 コミカライズの「守・破・離」」の続きを読む

2011.03.01

鉄

さやわかの星海社レビュアー騎士団

レビューに明日を手繰り寄せられるのか

レビュアー:横浜県 Adept

最初は斯様な企画に意味があるのかと疑問だった。最早誰でも文章を書けるような時代になった。オンラインの商店へ入れば、あらゆる物に、あらゆる人間が評価を下す事が出来る。かつては文体を持ち得た有識者の手によってしか成され得なかったレビューを、今や素人がいくつも書き殴ってしまっている。かく言う私もその一人ではあるけれど、そんなレビューの有用性もまた安易に格付けされる現状は、はっきり異常であると考えている。
その中で敢えて「優れたレビューの書き手」なる者を発掘する事に、どんな意義があるというのか。しかし次にさやわか団長の文章を読んでみると、私はどうもこのコーナーに惹かれずにはいられなくなった。このコーナーが「よいレビューとは何か」という疑問を読者と共に模索するものだと位置づけられている、そう感じたからだ。真に洗練されたレビューとは如何なるものなのか、その答えは私が欲していた将にそれだった。
これは私も参加をしなければ。即座にそう思い立った時刻は、締め切り前日の午後五時。はてさてどうすべきか。早速ルールを確認する。どうやら応募された原稿は、「愛情」「論理性」「発展性」の三項目によって評価が下されるらしい。
私は少し引っ掛かった。と同時に頼もしくも思った。要するに私は勘違いをしていたのだ。「優れたレビュー」とは何かを、ただひたすらに探し回るコーナーであると。どうやら違うらしい。このレビュアー騎士団は、既にある程度の方向性を持った上で、「レビュー」という存在そのものをレビューの対象としているのではないか。その方向性が正しい事を、帰納法的に証明するための舞台なのではないか。
先に挙げた三つの要素を順に眺めてみる。

「愛情」
何かを評価する時、確かに私達は対象に敬意を払う必要がある。そして何らかの愛着を持ち、少しずつ対象に顔を近付けて行く。
「論理性」
冒頭で述べたように、誰でも文章を発信できるこの時代には、論理性を伴わず、説得力の無い文章は相手にされまい。
「発展性」
対象を褒める乃至は貶すだけであれば、ただの感想、独り言に過ぎなくなる。今後を見通すための有用な方策が述べられている必要がある。

詰まる所、レビュアー騎士団はまず「レビュー」に「愛情」を持った上でその概要を浮き彫りにする。第二に私達読者が参加する事で多くのレビューを精査し、これら三要素が「レビュー」に必要であるとの「論理性」を持った根拠を形作っていく。そして最後に「レビュー」が持つ「発展性」を導き出して与える。この働きこそがレビュアー騎士団の存在意義なのではないか。
しかしやはり、完全にゴールが見えている訳ではないだろう。さやわか団長が呼び掛ける通り、私達が「一緒に考えて」いかなければならない。私達がレビューをいくつも送り続ける事により、少しずつ「レビュー」の「発展性」を覗かせていかなければならない。例えこの文章が如く甘ったれたものであったとしても。
私はもう既に、クリック一つでこの稚拙なレビューを投稿し得る状態にある。緊張する。胸が高鳴る。されど迷わない。私はレビュアー騎士団のための、そして「レビュー」のための踏み台になる覚悟を厭わない。
そして私以外の投稿者が、一体どのような文体で、どのような文章を書いたのか。それらのレビューにより、このコーナーと「レビュー」は発展を遂げられるのか。
楽しみで楽しみで堪らない。

「 レビューに明日を手繰り寄せられるのか」の続きを読む

2011.02.10


本文はここまでです。