名探偵 夢水清志郎事件ノート 亡霊は夜歩く
魅力なき男に惹かれる理由
レビュアー:横浜県
i
人々はどうして「名探偵・夢水清志郎」に惹かれてしまうのか。
小学生の時に原作シリーズと出会った私も、第一巻「そして五人がいなくなる」を読んだ次の日には、本屋へと走って続きを買い漁った。しかし同時に違和感も覚えていた。自ら進んで首を突っ込まない、事件の解決を渋る、挙句の果てには「説明がめんどくさい」とのたまう始末。「こんな名探偵が存在していいのか」と率直に疑問だった。
そもそも事件を解決する事こそ、名探偵が存在する目的ではないのか。
私達は現実世界において、明確な答えを弾き出せない問題に何度も直面する。それ故にフラストレーションを抱え、誘われるが如くフィクションにのめり込んでしまう。そこでは数々の名探偵が待っていて、白黒つけられぬ現実では味わえない爽快感を与えてくれる。
ところがどっこい夢水だけは違った。彼は三姉妹を、そして私達読者を徹底的にじらす。勿論ミステリなのだから、最終的には謎解きがなされるのだけれど。それが分かっているからこそ、夢水への期待は膨らむ一方であり、私達はフィクションの中ですら、もどかしさを感じずにはいられなくなる。
我慢の先に得られる謎の答えは、いつも以上に味わい深い。「さっさと解決しろよ」と心の中で毒づいていた筈の夢水に、いつの間にやらレーチの如く、尊敬の眼差しを向けてしまうのだ。
中々答えを得られない現実じみたプロセスが、読者に親近感を湧かせる一方で、フィクションならではの心地好い感覚も抱かせる。これぞ将に両刀遣い、はやみねかおる恐るべし。
ii
だがとんでもないのは原作者だけでは無かった。当然ながら漫画家である。
「名探偵・夢水清志郎」が漫画になるのは今回が初めてではない。一つは「ファウスト」で連載された物から始まり、この最前線へと繋がる箸井地図版。第二に、「なかよし」で連載中のえぬえけい版がある。
この二つは大きく異なっている。後者は少女マンガ誌という制約の下で夢水がイケメンになっているなど、原作をアレンジした部分が多く見受けられる。そのため、より原作に近いのは前者であると言える。箸井地図版が生まれた目的は、忠実なコミカライズも作りたかったが故ではないだろうか。
箸井地図の描く夢水は、はっきり言って魅力がない。箸井地図の画力が問題なのではない。むしろ素晴らしい出来だ。何度も言う通り、彼の絵は原作に忠実である。長身のひょろひょろとした身体。レンズの小さなサングラスに、姿を覗かせぬ眼球。文句のつけようがない程に、「コイツが名探偵か?」と疑いたくなる。
しかし名探偵らしいとはお世辞にも言えないこの風貌が、実は前述した夢水のもどかしさと魅力を増幅している。「私達に分からない事件の謎を、どうしてこの男は解きうるのか、変人なのに」と思わず頭を抱えてしまい、彼の事をもっと知りたくなってしまうのだ。
名探偵には見えないからこそ、名探偵なら面白い。私達の倒錯した好みが、見事に捉えられている。
iii
ただ一つ警告しておけば、何も夢水がステレオタイプの名探偵に勝っていると主張するつもりはない。勿論ながら夢水は、名探偵としてイレギュラーである。だが彼が例外として存在しうるのは、その他無数の「らしい」名探偵達がいるからである。彼らとの比較が成り立たなければ、夢水の変則性が映える事などあるまい。
もしイレギュラーな名探偵が氾濫したならば、それは最早JDCだ。誰が何と言おうと清涼院流水の仕業だ。ミステリの内部にありながら、独特の世界として閉じてしまう危険性がある。その最たるものがライトノベルミステリではないか。キャラに重点を置き過ぎた所為で、ジャンル同士の間に浮かんでしまっている。要はステレオタイプと例外、この両者が絶妙な配分で存在しなければならない。
古典ミステリも刊行済みの青い鳥文庫で産声を上げた「名探偵・夢水清志郎」は、そういった意味で生まれた場所に恵まれていたのかも知れない。さらに興味深いのは、その後舞台を移した「ファウスト」と「最前線」が、どちらも出版界におけるイレギュラーであると言う事。例外達の巣窟である両者は、コミカライズの場として最適だったのではないだろうか。
iv
フィクション内の存在として、誰もが憧れる「名探偵」
その一人だとは決して思えないような行動と外見にも関わらず、私達の期待に見事応えてみせる夢水清志郎。彼が持つ魅力の神髄は、そんなギャップにあった。そして私達は第二の夢水が現れる事を心待ちにしながら、彼の事件解決はまだかと、やきもちした気持ちを今日も抱き続ける。
人々はどうして「名探偵・夢水清志郎」に惹かれてしまうのか。
小学生の時に原作シリーズと出会った私も、第一巻「そして五人がいなくなる」を読んだ次の日には、本屋へと走って続きを買い漁った。しかし同時に違和感も覚えていた。自ら進んで首を突っ込まない、事件の解決を渋る、挙句の果てには「説明がめんどくさい」とのたまう始末。「こんな名探偵が存在していいのか」と率直に疑問だった。
そもそも事件を解決する事こそ、名探偵が存在する目的ではないのか。
私達は現実世界において、明確な答えを弾き出せない問題に何度も直面する。それ故にフラストレーションを抱え、誘われるが如くフィクションにのめり込んでしまう。そこでは数々の名探偵が待っていて、白黒つけられぬ現実では味わえない爽快感を与えてくれる。
ところがどっこい夢水だけは違った。彼は三姉妹を、そして私達読者を徹底的にじらす。勿論ミステリなのだから、最終的には謎解きがなされるのだけれど。それが分かっているからこそ、夢水への期待は膨らむ一方であり、私達はフィクションの中ですら、もどかしさを感じずにはいられなくなる。
我慢の先に得られる謎の答えは、いつも以上に味わい深い。「さっさと解決しろよ」と心の中で毒づいていた筈の夢水に、いつの間にやらレーチの如く、尊敬の眼差しを向けてしまうのだ。
中々答えを得られない現実じみたプロセスが、読者に親近感を湧かせる一方で、フィクションならではの心地好い感覚も抱かせる。これぞ将に両刀遣い、はやみねかおる恐るべし。
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だがとんでもないのは原作者だけでは無かった。当然ながら漫画家である。
「名探偵・夢水清志郎」が漫画になるのは今回が初めてではない。一つは「ファウスト」で連載された物から始まり、この最前線へと繋がる箸井地図版。第二に、「なかよし」で連載中のえぬえけい版がある。
この二つは大きく異なっている。後者は少女マンガ誌という制約の下で夢水がイケメンになっているなど、原作をアレンジした部分が多く見受けられる。そのため、より原作に近いのは前者であると言える。箸井地図版が生まれた目的は、忠実なコミカライズも作りたかったが故ではないだろうか。
箸井地図の描く夢水は、はっきり言って魅力がない。箸井地図の画力が問題なのではない。むしろ素晴らしい出来だ。何度も言う通り、彼の絵は原作に忠実である。長身のひょろひょろとした身体。レンズの小さなサングラスに、姿を覗かせぬ眼球。文句のつけようがない程に、「コイツが名探偵か?」と疑いたくなる。
しかし名探偵らしいとはお世辞にも言えないこの風貌が、実は前述した夢水のもどかしさと魅力を増幅している。「私達に分からない事件の謎を、どうしてこの男は解きうるのか、変人なのに」と思わず頭を抱えてしまい、彼の事をもっと知りたくなってしまうのだ。
名探偵には見えないからこそ、名探偵なら面白い。私達の倒錯した好みが、見事に捉えられている。
iii
ただ一つ警告しておけば、何も夢水がステレオタイプの名探偵に勝っていると主張するつもりはない。勿論ながら夢水は、名探偵としてイレギュラーである。だが彼が例外として存在しうるのは、その他無数の「らしい」名探偵達がいるからである。彼らとの比較が成り立たなければ、夢水の変則性が映える事などあるまい。
もしイレギュラーな名探偵が氾濫したならば、それは最早JDCだ。誰が何と言おうと清涼院流水の仕業だ。ミステリの内部にありながら、独特の世界として閉じてしまう危険性がある。その最たるものがライトノベルミステリではないか。キャラに重点を置き過ぎた所為で、ジャンル同士の間に浮かんでしまっている。要はステレオタイプと例外、この両者が絶妙な配分で存在しなければならない。
古典ミステリも刊行済みの青い鳥文庫で産声を上げた「名探偵・夢水清志郎」は、そういった意味で生まれた場所に恵まれていたのかも知れない。さらに興味深いのは、その後舞台を移した「ファウスト」と「最前線」が、どちらも出版界におけるイレギュラーであると言う事。例外達の巣窟である両者は、コミカライズの場として最適だったのではないだろうか。
iv
フィクション内の存在として、誰もが憧れる「名探偵」
その一人だとは決して思えないような行動と外見にも関わらず、私達の期待に見事応えてみせる夢水清志郎。彼が持つ魅力の神髄は、そんなギャップにあった。そして私達は第二の夢水が現れる事を心待ちにしながら、彼の事件解決はまだかと、やきもちした気持ちを今日も抱き続ける。