空の境界 the Garden of sinners
コミカライズの「守・破・離」
レビュアー:横浜県
「最前線」というサイトで「空の境界」がマンガ化するって言うからさ、どうせJの仕業だろうと呆れつつ感謝しつつ覗いてみたんだ。
作品紹介によると「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」らしい。
でもむしろ、僕達はどう足掻いたって「描破・創造する」事しかできないんじゃないだろうか。それが商業作であれ二次創作であれね。
小学六年生で「空の境界」に出会った時、僕は一体何に惹かれたんだろうなって考えてみたんだ。
ぶっちゃけた話、購入の動機は武内崇の表紙絵が気に入ったから。
だって当時は児童書ミステリしか読んでないのにさ、「新伝奇ムーブメント」って言われても言葉の意味が分かんないし。むしろ全国一億三千万の国民人口からすれば、理解出来たらマイノリティなんじゃないかな。
だから作品のあらすじを読んでもいまいちどんな話かは分からなくて。だってもし友達が「直死の魔眼」とか言い出したら、厨二病かと疑いたくなるに決まってる。いや、あの頃はまだ厨二病なんて単語は無かったんだっけ。
でも作品のジャンルも予想できないくせにレジまで持って行かされた僕は、やっぱり着物とジャケットを同時に着こなして、粋にナイフを構えた式の姿に萌えてしまったんだと思う。
それ故僕にとって、武内崇のイラストは「空の境界」と切っても切り離せなくなった。だから最前線でのコミカライズ版を読む上で、僕の中にあるイメージが壊れてしまったりしないかと不安だったんだ。それに武内崇の絵が「空の境界」における看板役であると考えているのは、決して僕だけじゃ無い筈。
映画化でも作画に多少の違いは出てしまうけれど、やはりある程度の画風は踏襲されるからね。一方で漫画だと、どうしても漫画家の個性が色濃くなってしまう。今までも好きなアニメが漫画化されて、裏切られた事がどれだけあったろうか。遠い目もしたくなるよね。
その上、武内崇の絵は凄い独特だから尚更困っちゃう。「パンドラ」でのインタビューでも、Jが「武内さんは絵がうまくない」「でも、ものすごくいい絵だ」と評したエピソードが載ってるぐらいだしね。奈須きのこが創る世界観に合うイラストなんて、他に描ける人がいるのかって思ったし、実際いないんだろう。
だからこそ、天空すふぃあはその世界を「描破・創造する」ことしかできないんだ。最前線のスタッフもそれが分かっていたから、こんなキャッチフレーズを考えたんじゃないかな。
ただ別に天空すふぃあのコミカライズが、原作の世界観を壊してしまうだとか、全くの別物や亜種になるだなんて思いはしない。
僕は昔空手をやってたんだけど、そこには「守・破・離」って物の考え方があった。天空すふぃあがこの最前線で実行しようとしているのは、将にこの「守・破・離」と近いものに感じるんだ。
まずは「守」
師の流儀を習い、それを型通りに行い守って修行に励むことだ。
TYPE-MOONコンビの世界観に沿う事で、原作のイメージを破壊しない事が求められる。
次に「破」
師の流儀のみに留まれば型に嵌ってしまう。それを避けるために型を破り、他流派も学ばなくてはならない。
先にも述べた通り、ただ彼らの世界観をなぞるだけでは、紛い物にしかなり得ないし、新たな高みに達する事など出来やしない。自分なりの味を付け加える必要がある。
最後に「離」
研鑽の末に得た独自の体系を完成させ、新たな一流を生み出す。
コミカライズ版「空の境界」として、原作ファンと新規ファンのどちらからも愛され、それでいて漫画ならではの世界観が、精巧かつ原作と矛盾なく構築される。これこそが、目指されるべき到達点ではないかな。
「守・破・離」ってのは武道や華道なんかで使われる言葉だけれど、それらに限らずどんな事をする上でも辿られうる手順だと思う。「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」のなんて、もろに「守・破・離」そのものだ。天空すふぃあにならそれが出来るに違いない。
第一場で掲載されたHumanity氏のレビューでも「緻密に計算されたオリジナル要素とキャラの魅力を最大限に引き出す筆致」と評価されている。原作の魅力を十分に引き出しつつ、ただ忠実に再現するだけに留まらない。
これぞ漫画界における「新伝奇ムーブメント」!
で、結局この言葉はどういう意味なんだろうか。我が家の広辞苑に載ってないんだけど。
作品紹介によると「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」らしい。
でもむしろ、僕達はどう足掻いたって「描破・創造する」事しかできないんじゃないだろうか。それが商業作であれ二次創作であれね。
小学六年生で「空の境界」に出会った時、僕は一体何に惹かれたんだろうなって考えてみたんだ。
ぶっちゃけた話、購入の動機は武内崇の表紙絵が気に入ったから。
だって当時は児童書ミステリしか読んでないのにさ、「新伝奇ムーブメント」って言われても言葉の意味が分かんないし。むしろ全国一億三千万の国民人口からすれば、理解出来たらマイノリティなんじゃないかな。
だから作品のあらすじを読んでもいまいちどんな話かは分からなくて。だってもし友達が「直死の魔眼」とか言い出したら、厨二病かと疑いたくなるに決まってる。いや、あの頃はまだ厨二病なんて単語は無かったんだっけ。
でも作品のジャンルも予想できないくせにレジまで持って行かされた僕は、やっぱり着物とジャケットを同時に着こなして、粋にナイフを構えた式の姿に萌えてしまったんだと思う。
それ故僕にとって、武内崇のイラストは「空の境界」と切っても切り離せなくなった。だから最前線でのコミカライズ版を読む上で、僕の中にあるイメージが壊れてしまったりしないかと不安だったんだ。それに武内崇の絵が「空の境界」における看板役であると考えているのは、決して僕だけじゃ無い筈。
映画化でも作画に多少の違いは出てしまうけれど、やはりある程度の画風は踏襲されるからね。一方で漫画だと、どうしても漫画家の個性が色濃くなってしまう。今までも好きなアニメが漫画化されて、裏切られた事がどれだけあったろうか。遠い目もしたくなるよね。
その上、武内崇の絵は凄い独特だから尚更困っちゃう。「パンドラ」でのインタビューでも、Jが「武内さんは絵がうまくない」「でも、ものすごくいい絵だ」と評したエピソードが載ってるぐらいだしね。奈須きのこが創る世界観に合うイラストなんて、他に描ける人がいるのかって思ったし、実際いないんだろう。
だからこそ、天空すふぃあはその世界を「描破・創造する」ことしかできないんだ。最前線のスタッフもそれが分かっていたから、こんなキャッチフレーズを考えたんじゃないかな。
ただ別に天空すふぃあのコミカライズが、原作の世界観を壊してしまうだとか、全くの別物や亜種になるだなんて思いはしない。
僕は昔空手をやってたんだけど、そこには「守・破・離」って物の考え方があった。天空すふぃあがこの最前線で実行しようとしているのは、将にこの「守・破・離」と近いものに感じるんだ。
まずは「守」
師の流儀を習い、それを型通りに行い守って修行に励むことだ。
TYPE-MOONコンビの世界観に沿う事で、原作のイメージを破壊しない事が求められる。
次に「破」
師の流儀のみに留まれば型に嵌ってしまう。それを避けるために型を破り、他流派も学ばなくてはならない。
先にも述べた通り、ただ彼らの世界観をなぞるだけでは、紛い物にしかなり得ないし、新たな高みに達する事など出来やしない。自分なりの味を付け加える必要がある。
最後に「離」
研鑽の末に得た独自の体系を完成させ、新たな一流を生み出す。
コミカライズ版「空の境界」として、原作ファンと新規ファンのどちらからも愛され、それでいて漫画ならではの世界観が、精巧かつ原作と矛盾なく構築される。これこそが、目指されるべき到達点ではないかな。
「守・破・離」ってのは武道や華道なんかで使われる言葉だけれど、それらに限らずどんな事をする上でも辿られうる手順だと思う。「新たなる奈須きのこワールドを、新鋭・天空すふぃあが描破・創造する!」のなんて、もろに「守・破・離」そのものだ。天空すふぃあにならそれが出来るに違いない。
第一場で掲載されたHumanity氏のレビューでも「緻密に計算されたオリジナル要素とキャラの魅力を最大限に引き出す筆致」と評価されている。原作の魅力を十分に引き出しつつ、ただ忠実に再現するだけに留まらない。
これぞ漫画界における「新伝奇ムーブメント」!
で、結局この言葉はどういう意味なんだろうか。我が家の広辞苑に載ってないんだけど。