メイ・デイ
そのナプキンから目を背けるな
レビュアー:横浜県
主人公の「私」は、心が壊れている。離婚した母には見捨てられ、父からも暴力を受けている。それでも父との間に家族のつながりを求めようとする彼女は、典型的な共依存の状態にあり、僕たちに危うさを感じさせる。そんな「私」の心は、壊れているが、しかし、強い。「守られてはいけない」という自負に支えられている。その強さは、小説家だった父の言葉を、魔法のようだと感じたことに由来していた。その魔法を継承した「魔女」として過ごす生活は、「私」にとって、僕たちの考える普通な生活よりも大切なものであった。
もちろんそれは彼女の思いこみだと、僕たちはそう考えるだろう。「私」の見せる強さは、不安定な自我のうえにかろうじて成り立っているにすぎない。だから彼女が「私は父親の子供ではない」という真実を受け入れたとき、僕たちは「私」を祝福する。彼女もついに現実を直視したのだと。
しかし彼女はやはり壊れていた。彼女は父との親子関係を解消する代わりに、新しく男女の関係を結ぼうとする。その決意には、以前のような危うさも感じられない。彼女はついに、父親と家族のつながりを結ぶための、たった一つの冴えたやり方に気がついたのだ。
作者の大間九郎は「この短編は少女の闘争と、さらなる闘争の物語。甘えんな!戦え!って話」とツイートしているが、しかし読者の僕たちは、そのような「闘争」に身を投じる「私」の姿を受け入れることができるのだろうか。きっとその多くは、作中の一般人、校長先生のように絶句をするのが関の山だろう。大間九郎が「守られてる読者の鼻先に使用済みのナプキンぶら下げるような小説」とつぶやいたように、僕たちはどこか複雑な読後感に苛まれてしまう。そしてそれはまた、作者の思うつぼなのであった。
だがしかし、これは当然の反応であるとも言えるだろう。僕たちは魔女ではない、「私」のような「闘争」に身を置く強さを持たない。だからこそ僕たちは「守られている」。でもそれでよいのかと大間九郎は呼びかけている。もちろんよくはないはずだ、僕たちだって、心のどこかで「闘争」に惹かれているところがあるのではないか。この「メイ・デイ」を読んで面白いと思ってしまったとき、どこか胸糞の悪い思いをしながらも、この作品について、「私」についての考えをめぐらせてしまったとき、あるいは「闘争」について、かえって過剰な拒否反応を示してしまったとき、僕たちはすでに「闘争」への欲求に貫かれていたのではないか。そうでなければ、僕たちにとって「私」の行動は何の意味も持たなかったはずだ。「メイ・デイ」は退屈な小説だったと、ただそのように感じるだけで終わりだったにちがいない。
「メイ・デイ」を読んだ僕たちが、改めて闘争に身を投じることになるのか、それともこれまでと同じように守られつづけることを選ぶのか。いずれにせよ、「メイ・デイ」は僕たちに「甘えんな!戦え!」と語りかけている。それは父の言葉が「私」にとって「相手に自分の意思を伝える道具」ではなく「相手を支配する、やはり、魔法だ」と感じられたのと同じように、僕たち読者に向けて、大間九郎から放たれた魔法であるのかもしれない。だから彼が「使用済みのナプキン」を僕たちの鼻先にぶら下げたとき、僕たちは嫌悪感を催しながらも、いやそれゆえにこそ、またそのナプキンを嗅いでみたいと思ってしまうのだった。
もちろんそれは彼女の思いこみだと、僕たちはそう考えるだろう。「私」の見せる強さは、不安定な自我のうえにかろうじて成り立っているにすぎない。だから彼女が「私は父親の子供ではない」という真実を受け入れたとき、僕たちは「私」を祝福する。彼女もついに現実を直視したのだと。
しかし彼女はやはり壊れていた。彼女は父との親子関係を解消する代わりに、新しく男女の関係を結ぼうとする。その決意には、以前のような危うさも感じられない。彼女はついに、父親と家族のつながりを結ぶための、たった一つの冴えたやり方に気がついたのだ。
作者の大間九郎は「この短編は少女の闘争と、さらなる闘争の物語。甘えんな!戦え!って話」とツイートしているが、しかし読者の僕たちは、そのような「闘争」に身を投じる「私」の姿を受け入れることができるのだろうか。きっとその多くは、作中の一般人、校長先生のように絶句をするのが関の山だろう。大間九郎が「守られてる読者の鼻先に使用済みのナプキンぶら下げるような小説」とつぶやいたように、僕たちはどこか複雑な読後感に苛まれてしまう。そしてそれはまた、作者の思うつぼなのであった。
だがしかし、これは当然の反応であるとも言えるだろう。僕たちは魔女ではない、「私」のような「闘争」に身を置く強さを持たない。だからこそ僕たちは「守られている」。でもそれでよいのかと大間九郎は呼びかけている。もちろんよくはないはずだ、僕たちだって、心のどこかで「闘争」に惹かれているところがあるのではないか。この「メイ・デイ」を読んで面白いと思ってしまったとき、どこか胸糞の悪い思いをしながらも、この作品について、「私」についての考えをめぐらせてしまったとき、あるいは「闘争」について、かえって過剰な拒否反応を示してしまったとき、僕たちはすでに「闘争」への欲求に貫かれていたのではないか。そうでなければ、僕たちにとって「私」の行動は何の意味も持たなかったはずだ。「メイ・デイ」は退屈な小説だったと、ただそのように感じるだけで終わりだったにちがいない。
「メイ・デイ」を読んだ僕たちが、改めて闘争に身を投じることになるのか、それともこれまでと同じように守られつづけることを選ぶのか。いずれにせよ、「メイ・デイ」は僕たちに「甘えんな!戦え!」と語りかけている。それは父の言葉が「私」にとって「相手に自分の意思を伝える道具」ではなく「相手を支配する、やはり、魔法だ」と感じられたのと同じように、僕たち読者に向けて、大間九郎から放たれた魔法であるのかもしれない。だから彼が「使用済みのナプキン」を僕たちの鼻先にぶら下げたとき、僕たちは嫌悪感を催しながらも、いやそれゆえにこそ、またそのナプキンを嗅いでみたいと思ってしまうのだった。