『星の海にむけての夜想曲』 佐藤友哉
闇夜にこそ星は
レビュアー:鳩羽
『星の海にむけての夜想曲』は星海社2周年記念作品と銘打たれているだけでなく、3.11後のわれわれを意識して発表された作品だ。なので、少しだけ震災のことに触れたい。
震災から今日まで、議論されるべきことがあぶくのように次から次へときりなく湧いてきた。それは今現在に至るまで様々なことの道筋を変えたり、あるいは強化したり、物事の見方やコミュニケーションの在り方、価値の比重などを揺るがしに揺るがした。
生命や生活に一番縁遠そうな芸術やエンターテイメントの分野でもそれらは起こり、震災を意識したものを意図的に作るのか、あえて触れないようにするのか、賛否両論だったと記憶している。
この小説がどういう点で3.11を想起させるかは、読者それぞれの受け取り方に任せたい。
ただ、花が全天を覆い隠して空を見えなくしてしまったのなら、星以外にもっと恋しいものがあるはずだ。
なぜ、太陽ではなかったのだろうか。
結論から言うならば、それは星が遠いところにあるからだろう。光の速さでも何年、何十年、何百年とかかる距離にある星の光は、何年、何十年、何百年も前に発せられた光だ。今星の光が見えていても、今その場所にその星があるとは限らない。すでに寿命がきて、無くなってしまっているかもしれない。
この小説でも、A.D.2011年から始まって、何年、何十年、何百年ととびとびに短編が続き、最後の話は3011年の設定になっている。
空の花がすべて枯れ星空が見える現象に説明をつけようとした少女・江波がその奇抜な発想を残し、花粉病からの生還者が確認されつつも、人々は地下に潜り、どんどんその数を減らしていく。人類滅亡までのカウントダウンは止まらない。
なぜ、星だったのだろうか。
おそらくこの世界の住人たちの大半は、太陽の明るさや暖かさに毎日焦がれていただろう。健康面への影響、食料のこと、様々な問題があっただろう。今日明日を生きていくために必要な、最低限のラインの問題が誰しもの頭を毎日悩ませていたに違いない。人類の存亡のことなど、考える余裕もなかっただろう。
この小説は、そういう日常の渇望からは大きく舵をきる。日常の喜怒哀楽に左右されながら、身近なひとを好いたり失ったりしながら、それでも星をみるという行動が「今」役に立たなくても、「いつか」役に立つかもしれないという希望を謳う。実際、星を見ようとして起こした些細な行動のひとつひとつが、何年、何十年、何百年か後に意味を持ってくる。
星を見ようとすることは、遙か過去に思いを馳せることであり、同時に遙か未来へと繋がる現在を言祝ぐことだ。これをほのぼのとした日常系へのアンチテーゼといったら、言い過ぎだろうか。
星は確かにきれいだが、それでお腹はふくれない。星は星でしかなく、太陽のふりをしたり代わりになったりはできないのだ。ならばせいぜい、星は遠くて馬鹿らしく思える希望の光を、弱々しく発し続けるしかないのだろう。
だが、星自身も、星を見ようとする者も、いつか、どこかで、奇跡が起こりうることを強く確信している。
その星のひとつが、この小説なのだ。
震災から今日まで、議論されるべきことがあぶくのように次から次へときりなく湧いてきた。それは今現在に至るまで様々なことの道筋を変えたり、あるいは強化したり、物事の見方やコミュニケーションの在り方、価値の比重などを揺るがしに揺るがした。
生命や生活に一番縁遠そうな芸術やエンターテイメントの分野でもそれらは起こり、震災を意識したものを意図的に作るのか、あえて触れないようにするのか、賛否両論だったと記憶している。
この小説がどういう点で3.11を想起させるかは、読者それぞれの受け取り方に任せたい。
ただ、花が全天を覆い隠して空を見えなくしてしまったのなら、星以外にもっと恋しいものがあるはずだ。
なぜ、太陽ではなかったのだろうか。
結論から言うならば、それは星が遠いところにあるからだろう。光の速さでも何年、何十年、何百年とかかる距離にある星の光は、何年、何十年、何百年も前に発せられた光だ。今星の光が見えていても、今その場所にその星があるとは限らない。すでに寿命がきて、無くなってしまっているかもしれない。
この小説でも、A.D.2011年から始まって、何年、何十年、何百年ととびとびに短編が続き、最後の話は3011年の設定になっている。
空の花がすべて枯れ星空が見える現象に説明をつけようとした少女・江波がその奇抜な発想を残し、花粉病からの生還者が確認されつつも、人々は地下に潜り、どんどんその数を減らしていく。人類滅亡までのカウントダウンは止まらない。
なぜ、星だったのだろうか。
おそらくこの世界の住人たちの大半は、太陽の明るさや暖かさに毎日焦がれていただろう。健康面への影響、食料のこと、様々な問題があっただろう。今日明日を生きていくために必要な、最低限のラインの問題が誰しもの頭を毎日悩ませていたに違いない。人類の存亡のことなど、考える余裕もなかっただろう。
この小説は、そういう日常の渇望からは大きく舵をきる。日常の喜怒哀楽に左右されながら、身近なひとを好いたり失ったりしながら、それでも星をみるという行動が「今」役に立たなくても、「いつか」役に立つかもしれないという希望を謳う。実際、星を見ようとして起こした些細な行動のひとつひとつが、何年、何十年、何百年か後に意味を持ってくる。
星を見ようとすることは、遙か過去に思いを馳せることであり、同時に遙か未来へと繋がる現在を言祝ぐことだ。これをほのぼのとした日常系へのアンチテーゼといったら、言い過ぎだろうか。
星は確かにきれいだが、それでお腹はふくれない。星は星でしかなく、太陽のふりをしたり代わりになったりはできないのだ。ならばせいぜい、星は遠くて馬鹿らしく思える希望の光を、弱々しく発し続けるしかないのだろう。
だが、星自身も、星を見ようとする者も、いつか、どこかで、奇跡が起こりうることを強く確信している。
その星のひとつが、この小説なのだ。