佐藤友哉『星の海の夜想曲』
「負の遺産」にまつわる千年記
レビュアー:USB農民
表題作を含めた最初の三つの作品で描かれているのは「脱出劇」であり、これは佐藤友哉が2003年から2004年に連載し、2005年に書籍化した『鏡姉妹の飛ぶ教室』を想起させる。(ちなみにこの作品も、初出はWeb上の連載だった)
地震によって沈下していく校舎に取り残された人々の群像劇だった『飛ぶ教室』は、急展開を繰り返すごとに、少年少女たちの希望と絶望がオセロの石のようにパタパタと反転を繰り返していたが、それに比べて『星の海の夜想曲』は逆にオセロの石が絶望を向けたままぴくりとも動かないような物語だ。
同じ作者の十年前の作品では、絶望と希望は等しくペラペラの紙切れのように扱われ、そのことが一層、お互いの性質を強調するような構成だったが、十年経って書かれた作品では、絶望はただひたすらに巨大で強大で強圧で重い。『飛ぶ教室』の絶望がオセロの石の一枚にすぎないとするなら、『星の海の夜想曲』のそれは、ゲーム盤全体を覆ってしまう程に大きな一枚の石だ。
そしてこの石をひっくり返すことが、この物語の主題でもある。
絶望を希望に。
空に星を。
地に花を。
そのために用意された物語は千年記だった。
様々な時代の様々な場所で行われた小さな足掻きが実を結ぶには、非常に長い時間を必要とする。それは大変な犠牲を強いられることであり、一つの意志を遠くへと運ぶ必要のあることだった。皮肉なことに、それを可能にしたのは、空を覆う花々が、人類共通の「負の遺産」の役割を果たしたからだろう。物語の中で、人類はかつての絶望を忘れずに生き延びた。忘れるはずもなかった。空にはいつも花があるのだから。
そしてまた、見えない希望を忘れることもなかった。
物語の主要人物たちは知っていたから。
花の向こうには、いつも星があることを。
地震によって沈下していく校舎に取り残された人々の群像劇だった『飛ぶ教室』は、急展開を繰り返すごとに、少年少女たちの希望と絶望がオセロの石のようにパタパタと反転を繰り返していたが、それに比べて『星の海の夜想曲』は逆にオセロの石が絶望を向けたままぴくりとも動かないような物語だ。
同じ作者の十年前の作品では、絶望と希望は等しくペラペラの紙切れのように扱われ、そのことが一層、お互いの性質を強調するような構成だったが、十年経って書かれた作品では、絶望はただひたすらに巨大で強大で強圧で重い。『飛ぶ教室』の絶望がオセロの石の一枚にすぎないとするなら、『星の海の夜想曲』のそれは、ゲーム盤全体を覆ってしまう程に大きな一枚の石だ。
そしてこの石をひっくり返すことが、この物語の主題でもある。
絶望を希望に。
空に星を。
地に花を。
そのために用意された物語は千年記だった。
様々な時代の様々な場所で行われた小さな足掻きが実を結ぶには、非常に長い時間を必要とする。それは大変な犠牲を強いられることであり、一つの意志を遠くへと運ぶ必要のあることだった。皮肉なことに、それを可能にしたのは、空を覆う花々が、人類共通の「負の遺産」の役割を果たしたからだろう。物語の中で、人類はかつての絶望を忘れずに生き延びた。忘れるはずもなかった。空にはいつも花があるのだから。
そしてまた、見えない希望を忘れることもなかった。
物語の主要人物たちは知っていたから。
花の向こうには、いつも星があることを。