佐藤友哉に私が出逢ったのは中学生の頃のことだ。
当時、書店でよく見かけていた西尾維新なる斬新な名前、そして惹かれるカバーデザイン。
前々から気になっていた作家であり、シリーズの完結も間近と聞いていただけに、そろそろ読んでみようかと書店を訪れたある日。『クビキリサイクル』を手に取り、せっかく来たしもう一冊何か読んでみようかと思ったところ、となりにあった白い本が目に入った。
女性の口元がゼリービーンズを食べようとしている、タイトルの書き文字にどことなく90年代の古くささを感じる、時代錯誤にも見えるデザイン。
タイトルは、『フリッカー式』。それが、私と佐藤友哉との出逢いだった。
家に帰って、すぐに二冊とも読み終えた。デビュー時期も近く世代も近い二人。ミステリで青春でエンターティメントで、同じメフィストから世に送り出されたというのに、これほどに書き出す言葉が異なるのかと驚いた。
クビキリサイクルはどこまでもエンターティメントとして描き出されているのに対し、フリッカー式の行間に感じるのは、誰彼構わず向けられた憤りと、諸手をあげて高笑しているようなぎらぎらとした達成感だった。登場人物の誰もが、心の中でざまあみろ!と叫んでいるような、何かもわからない目の前の肉の塊を、ナイフで切り刻んでいるような、どろどろの世界。
視覚化されていれば、真っ先に都条例の対象になりそうな、このぐつぐつと煮えたエナメルの世界に、当時の私はすぐに飲み込まれていった。
『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』『クリスマス・テロル』。
そして『テロル』の終章には、唐突な引退宣言が記されていて。
読み終えたとき、私の瞳からは涙が溢れてきた。
こんなに面白く、素晴らしい作家が、これだけで終わってしまうのか、と。
※
そして、彼が世に出て10年が経った。
この節目を記念して執筆された星海社のカレンダー小説企画『星の海にむけての夜想曲』は、氏のこれまでの作品とはどれとも異なる一作だ。
とは言え、それがこれまでの作品に劣るということでは決してない。
登場人物達全員は叫んでいるし、ナイフで切り刻んでいるし、誰彼構わず向けられた怒りは、今でも行間に充ち満ちている。そんな相変わらずの青春劇。
けれども、この物語の中で、男と女は、その怒りの先にきらきらと光る何かを、見つけてしまうのだ。
闇雲で、報われるはずの無かった、佐藤友哉の怒り。
30歳になり、青春状態が終わったと語る彼は、それをあっさりと捨ててみせたのである。
※
涙の後の後日談。単純な時系列の勘違い。
『クリスマス・テロル』が世に送り出されたのは2002年のこと。
そして、私がフリッカー式を初めて読んだのは、2005年。
あれだけの遺言状をぶちまけて見せた佐藤友哉は、実はそのあとも見えないところでちゃっかりとナイフを振り回していて、飛び散った血が凝固して生まれた二つの復活作──『鏡姉妹の飛ぶ教室』『子供達怒る怒る怒る』──も、すでに世に送り出されていたのだ。
傷心の私が書店に足を運び、書棚をふと眺めてへにゃりと力が抜けたのは、また別の話。
あの本気の涙を返せ!と思ったのも、また別の話。
けれどその足で、その二つを手に取ったのは、今に繋がる昔の話だ。
※
この世界には数多の作家がいて、『青春』というキーワードで絞ろうとしても、一生かかっても読み切れないほどの検索結果をgoogle先生は返してくる。
けれど、今まさに現在進行形で、自分の『青春』が終わり、日和ったことを自覚し公言しながら、それでも『青春』を描き続ける作家なんていうのは、きっとそうそういないに違いない。
自分の武器であった『青春』をしっかり終えてみせ、それをひとつの作品として提示した『星の海にむけての夜想曲』。
それを活字として再び目にするには、1年以上先の単行本化を待たないといけないけれど。
その時、佐藤友哉がどのような『青春』を世に放っているのか、私はそれが楽しみでならないのだ。
さて、ここからが面白い。
当時、書店でよく見かけていた西尾維新なる斬新な名前、そして惹かれるカバーデザイン。
前々から気になっていた作家であり、シリーズの完結も間近と聞いていただけに、そろそろ読んでみようかと書店を訪れたある日。『クビキリサイクル』を手に取り、せっかく来たしもう一冊何か読んでみようかと思ったところ、となりにあった白い本が目に入った。
女性の口元がゼリービーンズを食べようとしている、タイトルの書き文字にどことなく90年代の古くささを感じる、時代錯誤にも見えるデザイン。
タイトルは、『フリッカー式』。それが、私と佐藤友哉との出逢いだった。
家に帰って、すぐに二冊とも読み終えた。デビュー時期も近く世代も近い二人。ミステリで青春でエンターティメントで、同じメフィストから世に送り出されたというのに、これほどに書き出す言葉が異なるのかと驚いた。
クビキリサイクルはどこまでもエンターティメントとして描き出されているのに対し、フリッカー式の行間に感じるのは、誰彼構わず向けられた憤りと、諸手をあげて高笑しているようなぎらぎらとした達成感だった。登場人物の誰もが、心の中でざまあみろ!と叫んでいるような、何かもわからない目の前の肉の塊を、ナイフで切り刻んでいるような、どろどろの世界。
視覚化されていれば、真っ先に都条例の対象になりそうな、このぐつぐつと煮えたエナメルの世界に、当時の私はすぐに飲み込まれていった。
『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』『クリスマス・テロル』。
そして『テロル』の終章には、唐突な引退宣言が記されていて。
読み終えたとき、私の瞳からは涙が溢れてきた。
こんなに面白く、素晴らしい作家が、これだけで終わってしまうのか、と。
※
そして、彼が世に出て10年が経った。
この節目を記念して執筆された星海社のカレンダー小説企画『星の海にむけての夜想曲』は、氏のこれまでの作品とはどれとも異なる一作だ。
とは言え、それがこれまでの作品に劣るということでは決してない。
登場人物達全員は叫んでいるし、ナイフで切り刻んでいるし、誰彼構わず向けられた怒りは、今でも行間に充ち満ちている。そんな相変わらずの青春劇。
けれども、この物語の中で、男と女は、その怒りの先にきらきらと光る何かを、見つけてしまうのだ。
闇雲で、報われるはずの無かった、佐藤友哉の怒り。
30歳になり、青春状態が終わったと語る彼は、それをあっさりと捨ててみせたのである。
※
涙の後の後日談。単純な時系列の勘違い。
『クリスマス・テロル』が世に送り出されたのは2002年のこと。
そして、私がフリッカー式を初めて読んだのは、2005年。
あれだけの遺言状をぶちまけて見せた佐藤友哉は、実はそのあとも見えないところでちゃっかりとナイフを振り回していて、飛び散った血が凝固して生まれた二つの復活作──『鏡姉妹の飛ぶ教室』『子供達怒る怒る怒る』──も、すでに世に送り出されていたのだ。
傷心の私が書店に足を運び、書棚をふと眺めてへにゃりと力が抜けたのは、また別の話。
あの本気の涙を返せ!と思ったのも、また別の話。
けれどその足で、その二つを手に取ったのは、今に繋がる昔の話だ。
※
この世界には数多の作家がいて、『青春』というキーワードで絞ろうとしても、一生かかっても読み切れないほどの検索結果をgoogle先生は返してくる。
けれど、今まさに現在進行形で、自分の『青春』が終わり、日和ったことを自覚し公言しながら、それでも『青春』を描き続ける作家なんていうのは、きっとそうそういないに違いない。
自分の武器であった『青春』をしっかり終えてみせ、それをひとつの作品として提示した『星の海にむけての夜想曲』。
それを活字として再び目にするには、1年以上先の単行本化を待たないといけないけれど。
その時、佐藤友哉がどのような『青春』を世に放っているのか、私はそれが楽しみでならないのだ。
さて、ここからが面白い。