サエズリ図書館のワルツさん 2
手から手へ、あなたへ
レビュアー:鳩羽
滅多に怒ることのなかった祖母に、珍しく注意されたことがある。それは置きっぱなしにしていた本を、ひょいと跨いだときだった。なんと言って叱られたかは覚えていないが、本を片づけておかなかったことではなく、跨いだことを怒られたのが子供心にずしんと堪えた。
どんなものであれ、物を粗末に扱うのはいけないことだろう。しかし、それとはまた別の想いから、祖母にとって「本」は跨いではいけないものだったのだ。
『サエズリ図書館のワルツさん』の2巻は、前巻から引き続き、「三十六時間の戦争」、事実上の第三次大戦といわれた戦争後の世界を描く。この時代では情報を得るのも文章を読むのも端末で行い、「紙の本」は美術的な価値を求めて高値で取り引きされる骨董品のようなものになりさがっている。そんななか、貴重な紙の本を閲覧・貸出している稀有な施設がサエズリ図書館だ。2巻では内定が得られない就活生の千鳥が、このサエズリ図書館を訪れるところから話が始まる。
千鳥がなりたいと思うのは、終わりつつある紙の本を直すという、図書修復家である。老いた図書修復家が、みずからの人生と仕事とを共に終わらせていこうとするのに出会い、後を継ぎたいと願うのだが、その図書修復家には断固として拒まれてしまう。
就職が決まらないことへの逃避なのか、体調不良はその言い訳にすぎないのか。思い悩む千鳥は、もがくようにしてサエズリ図書館で「本」の価値を見つけだそうとしていく。
この物語で語られるのは、「紙の本」への愛着、執着である。しかしそれは、安易な「紙の本」対「電書」の構図をとらない。いや、とれないのだ。この世界では、物資の不足、合理、効率、経費削減といったあらゆる理由で「紙の本」が存在する余剰はなく、それでもなお「紙の本」を読みたいというのは酔狂か、贅沢なわがままということになってしまう。
サエズリ図書館に集うひとびとが「紙の本」で心の傷みを癒されたように、寄る辺ない不安に確かに「本は効く」のだろう。けれど、どうしてそれが「紙の本」でなくてはならないのか。端末やデータだけではだめなのか。そこはなかなか明確にはならない。おそらくそれは些末なことで、手触りだとか匂いだとか厚みだとか、そういう要件を電書が兼ね備えることができたとしても、それは「紙の本」とは違うから、ただ「紙の本」とは違うといい続けることしかできない類の問題なのだ。
物語の終盤で千鳥が辿りついた答えは、「端末は、データは結局、繋がるためのツールであり、本は、断絶のためのツール」ということだった。
繋がるということは、その便利さはいうまでもなく、心理的にも何でも知ることができるような高揚した万能感を感じさせる。その即時性も、今ではツールとして必要不可欠なものだ。
しかし、一人になりたいとき、自分がいる場所をじっくり確認したいとき、周囲から隠れたいとき、プライベートが守られていないと感じるとき。
人は本を開く。ほっと息をつく。
その光景は場を作る。話しかけてはいけないと思わせるような、疎隔された場を。
それは合図でもある。集中と空白、緊張と弛緩の。
網の目のような情報の間で動き回っている自分を捕まえ、自分で自分を抱きしめてやって、そうして初めて、どこが傷んでいるのか、調子が悪いのか、確認することができる。情報や誰かの助けを求めて繋がりたいと思うのは、おそらくその後の段階なのだ。
生きることは働くこと。
「仕事」を見つけだし、どんなに価値がなさそうな仕事でも選び選ばれ、それに人生を捧げることをむしろ喜んで千鳥は泣いた。そんな千鳥の手が支えていくのは、終わりゆく「紙の本」の時代の延命である。
本とはやわなものだ。破れたり頁が取れたり、濡れたり黴びたり虫に喰われたりする。手垢がつき、開き癖がつき、日に焼けて色が変わる。
だが、同時に、本とは案外と丈夫なものだ。適切に管理し修復すれば、思いの外、保つ。手になじみ、傷んだ風合いも持ち主にとっては愛着となる。そのタフさ、痕跡を残していくことから、人は本に対して同じ時間を生きている同志に近い感情を持つのだろう。
本の著者が、小説なら登場人物が、勇気をもってその人間性や知性を曝けだそうとするなら、読者もまた居住まいを正して向き合うのが礼儀なのかもしれない。
間違ったことが書いてあるかもしれない。古かったり、とても賛成できないような主張がされているのかもしれない。けれど、一冊の本の章と章、頁と頁、あるいは文と文のあいだの襞に折り畳まれたそこには、やはり「誰か」がいる。「誰か」が生きて為してきた「仕事」が、膨大すぎて見渡すことのできない世界から断絶され、切り取られてきて、ありのままの姿で今手のひらの上に乗っているのではないか。
本を跨いではいけないというのは、つまりはそういうことなのだと思う。
紅玉いづきは、ずっと「大事なもの」を書いてきた作家だ。それもどちらかというと、誰もが大事だからと保護するような、当たり前の「大事なもの」ではない。小さかったり目に見えなかったり、壊れやすかったり歪んでいたりして、どこか途方に暮れたみなしごのような、そんな存在に執拗に激励といたわりのまなざしを向けてきた作家である。
インタビュー等によると、彼女は手書きの作家でもあるらしい。大学ノートを必死に埋めたエピソードなどを読むと、微笑ましいのと鬼気迫るのと、まるで正反対の印象を受けるが、その一番最初にできあがる原稿が「紙の本」であることはきっと偶然ではない。
作家とこの小説の題材も、出会うべくして出会った天命、幸福なマリアージュだったのだ。
どんなものであれ、物を粗末に扱うのはいけないことだろう。しかし、それとはまた別の想いから、祖母にとって「本」は跨いではいけないものだったのだ。
『サエズリ図書館のワルツさん』の2巻は、前巻から引き続き、「三十六時間の戦争」、事実上の第三次大戦といわれた戦争後の世界を描く。この時代では情報を得るのも文章を読むのも端末で行い、「紙の本」は美術的な価値を求めて高値で取り引きされる骨董品のようなものになりさがっている。そんななか、貴重な紙の本を閲覧・貸出している稀有な施設がサエズリ図書館だ。2巻では内定が得られない就活生の千鳥が、このサエズリ図書館を訪れるところから話が始まる。
千鳥がなりたいと思うのは、終わりつつある紙の本を直すという、図書修復家である。老いた図書修復家が、みずからの人生と仕事とを共に終わらせていこうとするのに出会い、後を継ぎたいと願うのだが、その図書修復家には断固として拒まれてしまう。
就職が決まらないことへの逃避なのか、体調不良はその言い訳にすぎないのか。思い悩む千鳥は、もがくようにしてサエズリ図書館で「本」の価値を見つけだそうとしていく。
この物語で語られるのは、「紙の本」への愛着、執着である。しかしそれは、安易な「紙の本」対「電書」の構図をとらない。いや、とれないのだ。この世界では、物資の不足、合理、効率、経費削減といったあらゆる理由で「紙の本」が存在する余剰はなく、それでもなお「紙の本」を読みたいというのは酔狂か、贅沢なわがままということになってしまう。
サエズリ図書館に集うひとびとが「紙の本」で心の傷みを癒されたように、寄る辺ない不安に確かに「本は効く」のだろう。けれど、どうしてそれが「紙の本」でなくてはならないのか。端末やデータだけではだめなのか。そこはなかなか明確にはならない。おそらくそれは些末なことで、手触りだとか匂いだとか厚みだとか、そういう要件を電書が兼ね備えることができたとしても、それは「紙の本」とは違うから、ただ「紙の本」とは違うといい続けることしかできない類の問題なのだ。
物語の終盤で千鳥が辿りついた答えは、「端末は、データは結局、繋がるためのツールであり、本は、断絶のためのツール」ということだった。
繋がるということは、その便利さはいうまでもなく、心理的にも何でも知ることができるような高揚した万能感を感じさせる。その即時性も、今ではツールとして必要不可欠なものだ。
しかし、一人になりたいとき、自分がいる場所をじっくり確認したいとき、周囲から隠れたいとき、プライベートが守られていないと感じるとき。
人は本を開く。ほっと息をつく。
その光景は場を作る。話しかけてはいけないと思わせるような、疎隔された場を。
それは合図でもある。集中と空白、緊張と弛緩の。
網の目のような情報の間で動き回っている自分を捕まえ、自分で自分を抱きしめてやって、そうして初めて、どこが傷んでいるのか、調子が悪いのか、確認することができる。情報や誰かの助けを求めて繋がりたいと思うのは、おそらくその後の段階なのだ。
生きることは働くこと。
「仕事」を見つけだし、どんなに価値がなさそうな仕事でも選び選ばれ、それに人生を捧げることをむしろ喜んで千鳥は泣いた。そんな千鳥の手が支えていくのは、終わりゆく「紙の本」の時代の延命である。
本とはやわなものだ。破れたり頁が取れたり、濡れたり黴びたり虫に喰われたりする。手垢がつき、開き癖がつき、日に焼けて色が変わる。
だが、同時に、本とは案外と丈夫なものだ。適切に管理し修復すれば、思いの外、保つ。手になじみ、傷んだ風合いも持ち主にとっては愛着となる。そのタフさ、痕跡を残していくことから、人は本に対して同じ時間を生きている同志に近い感情を持つのだろう。
本の著者が、小説なら登場人物が、勇気をもってその人間性や知性を曝けだそうとするなら、読者もまた居住まいを正して向き合うのが礼儀なのかもしれない。
間違ったことが書いてあるかもしれない。古かったり、とても賛成できないような主張がされているのかもしれない。けれど、一冊の本の章と章、頁と頁、あるいは文と文のあいだの襞に折り畳まれたそこには、やはり「誰か」がいる。「誰か」が生きて為してきた「仕事」が、膨大すぎて見渡すことのできない世界から断絶され、切り取られてきて、ありのままの姿で今手のひらの上に乗っているのではないか。
本を跨いではいけないというのは、つまりはそういうことなのだと思う。
紅玉いづきは、ずっと「大事なもの」を書いてきた作家だ。それもどちらかというと、誰もが大事だからと保護するような、当たり前の「大事なもの」ではない。小さかったり目に見えなかったり、壊れやすかったり歪んでいたりして、どこか途方に暮れたみなしごのような、そんな存在に執拗に激励といたわりのまなざしを向けてきた作家である。
インタビュー等によると、彼女は手書きの作家でもあるらしい。大学ノートを必死に埋めたエピソードなどを読むと、微笑ましいのと鬼気迫るのと、まるで正反対の印象を受けるが、その一番最初にできあがる原稿が「紙の本」であることはきっと偶然ではない。
作家とこの小説の題材も、出会うべくして出会った天命、幸福なマリアージュだったのだ。